【hint.236】ないがしろにされガチな「アート」的な主張
今日はちょっと抽象的な話になりそうです。
そして、もしかしたらうまくまとまらないかもしれないけれど…。トライアル的に取り組んでみます。
人間の欲求を、最も低位の「生存の欲求」から、最も上位の「自己実現欲求」の5段階に分類できるという考え方、いわゆる「欲求5段階説」を提唱したのはエイブラハム・マズロー(*1)でした。
*1
おそらくこのような前提をおいて書くと「マズローの欲求5段階説は実証実験では証明されず、アカデミアの世界では眉唾と考えられていることを知らないのか」といった反論があると思います。
これは本書執筆の基本的な態度とも関係するのでここでまとめて、そういった類の「科学的に検証できていない」という反論について答えておきたいと思います。
科学においては「真偽」の判定が重要になりますが、「科学的に検証できない」ということは、「真偽がはっきりしていない」ということを意味するだけで、その命題が「偽」であることを意味しません。
本書のテーマは経営における「アート」と「サイエンス」の相克であり、サイエンスだけに依存した情報処理は経営の意思決定を凡百で貧弱なものにするというのが筆者の主張です。
同様に、本書の主張をより豊かなものにするために、筆者は「アート」と「サイエンス」の両方、つまり思考における「論理」と「直感」の双方を用いており、であるが故に筆者が個人的に「直感的に正しい」と考えたものについては、必ずしも科学的根拠が明確ではない場合においても、それを「正しい」(と思う)とする前提で論を進めていることを、ここに断っておきます。
いま、目の前に複数の選択肢があるというときに、どう考えても論理的に不利だという選択肢を、わざわざ「直感」や「感性」を駆動させて選ぶというのは、「大胆」でも「豪快」でもなく、単なるバカです。
私が言っているのはそういうことではなく、論理や理性で考えても白黒つかない問題については、むしろ「直感」を頼りにした方がいい、ということです。
ミンツバーグによれば、経営というものは「アート」と「サイエンス」と「クラフト」の混ざり合ったものになります。「アート」は、組織の創造性を後押しし、社会の展望を直感し、ステークホルダーをワクワクさせるようなビジョンを生み出します。「サイエンス」は、体系的な分析や評価を通じて、「アート」が生み出した予想やビジョンに、現実的な裏付けを与えます。そして「クラフト」は、地に足のついた経験や知識を元に、「アート」が生み出したビジョンを現実化するための実行力を生み出していきます。
(いずれも、山口周 著『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」』/光文社新書 より引用)
昨年の7月、タイトルに惹かれて即購入したものの、積ん読状態になっていたこちらの本。
個人的なメモによると、読了が今年の5月となっているので、購入後半年ぐらいは「自宅熟成」をさせていたらしい(そういえば、前回紹介した本もこんな風に「自宅熟成」していた本だったな)。
おそらく満を辞して読み始めたのは、購入から少し時間が経ってから、出版界隈でこちらの本が話題になってきたからだったんじゃないかな。
この本のインパクトは僕にとってもかなり強いものだった。
確かに、人生のある場面においては、その判断根拠を「サイエンス」に求めるということが重要であることも、現代社会においてはたくさんあるし、この点については僕も否定をしようとは思っていない。
ただ、世の中には「科学的に検証できていない」けれども、「この感覚って大事だよね」と感じるものはいくつもありますよね。
「この時間だと、こっちの道の方がなんか楽しいんだよね〜」とか、「たま〜に、予想もしてないときにポツポツと雨が降ってくると嬉しくなっちゃうんだよね〜」とか、「なんかよくわからんけど、この人の描く絵に惹かれちゃうんだよね〜」とか。そういった感じのもの。
それに、人生のどの瞬間もが、「サイエンス」や「クラフト(『経験に基づいた技術や意見・価値観』と僕は言えるのではないかと思っている)」を必要とはしていないとも思う。
「よくわかんないけど、今はこっちの方がいいと思うんだ!」という感覚。
「サイエンス」や「クラフト」ばかりが重視されるコミュニティでは、こういった「アート」の感覚は埋もれていってしまう。
そうすると、のびのびと思ったことを言えない、ギッチギチのガッチガチ集団になってしまう。それではそのコミュニティは徐々にうまく機能しなくなっていく。
これは「アカウンタビリティの格差」という形で詳しく説明されていて、簡単にいうと、何かの意思決定をするときに、それぞれが主張を戦わせると、配慮をしない限り「アート」は「サイエンス」や「クラフト」に負けてしまう、といったもの。
「サイエンス」は具体的な情報結果を武器に、「クラフト」は長年の経験値を武器に乗り込んできているところに、「こっちの方がやっぱり気持ちいいと思うな〜なんでかはわからないけれど」といった「アート」では全く歯が立たない。
でも、かといって、その「アート」の感覚がまったく役に立たないのかというとそうでもないことも、皆さんそれこそこれまでの人生の肌感覚で味わっているのではないでしょうか?
僕自身、たとえば「らいキチカフェ|読書会」や「アドラー心理学・ライフスタイル診断」のセッションの際などにおいては、こういった「ないがしろにされガチな『アート』的な主張」というニュアンスをいつも心に留めて関わらせていただくようにしています。
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