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本当の自分なんていない
同じ相手なのに状況によってうまく話せなくなる
①友人と一対一で楽しく会話をしていたのに、そこへ別の知り合いが現れた途端バツが悪くなって、空回りしてしまった。
②3人の仲良しグループで遊んでいて、楽しく会話が弾んでいたのに一人が席を外した途端に無言になり、気まずい沈黙が流れた。
そんな経験がありませんか??
最近、自分自身の身に起きたことです。
何故だろうと考えた時に、小説家である平野啓一郎さんの "私とは何か「個人」から「分人」へ" という書籍を思い出しました。
「ニセの自分」と「ホントの自分」
『ペルソナ』という言葉があたり前のように使われるようになりました。
人間は、社会で生き抜くためによそ行きの仮面を被って「ニセの自分」と「ホントの自分」の2つを意識的に使い分けているという認識が一般的になっているような気がしています。
しかし平野さんは、
『人間の中心に「個人」というホントの人格が存在しており、TPOにより意識的にニセの人格を演じ分けている』
のではなくて、
『個人という人格は実体のない幻想であり、他者との関係の中で、その関係の数だけ無意識に生じる人格である「分人」が集まったのが人間だ』と述べています。
例えるのなら、桃のように中心に「確固とした人格=種」があるのではなく、玉ねぎのように「社会的な関係性や属性=皮」を削ぎ落としていっても何も残らないのが人間なのだ、と。
「分人」と「分人」の衝突
①サークルで友人だったAさんとの自分=『分人A』はイケイケで陽気なキャラだったかもしれません。しかし、一方で進学校時代の友人だったBさんとの自分=『分人B』は真面目で無口なキャラであったとします。
すると、Aさん/Bさんの両者と同時にコミュニケーションをとろうとすると自分の中の『分人A』と『分人B』が衝突して非常にバツが悪い思いをするのです。
②また、古くからの友人であるCさんとの関係にあとから、Dさんが入ってきてたまたま仲良しグループになったとします。なので、普段3人でいる時はCさんとの関係性のなかの自分=『分人C』として振る舞っているわけです。
すると、Cさんが席を外して2人きりになって、Dさんを3人グループの中の1人ではなく個人として意識した途端に自分の中に『分人D』が出現して葛藤してしまうのです。
どうでしょうか?
個人的には、本物の自分というものがいて、ペルソナを意識的に使い分けているとしたら説明できない、小さい頃から感じていた「謎の気まずさ」が言語化されてすごく納得感がありました。
まだ知らない一面を想像すること
この書籍を読んで、大切だなと感じたのはどんな関係性であっても、目の前に見えているのは相手の一部分でしかないということ。逆に、自分が相手に見せているのも自分の中の一面でしかないということです。
ついつい、自分からみた他人像にばかり囚われて、気に入らないことをされるとすぐに嫌な奴と決めつけたり、犯罪を犯した人は救いようのない奴だと決めつけてしまいがちですが、自分の知らない一面が必ずある、ということをその都度思い出していかなくちゃいけない。
また、自分が今いる環境や人間関係に居心地の悪さを感じているのなら、そこを離れて新たな人との関係を始めれば自分の中の新たな『分人』がたち現れるわけですから、自分や他人を責めるのではなく、マッチングの問題と割り切って戦略的に移動し続けることが大切だなとも思いました。
最近どこかでも、目にした気がしますが『自分探しをやめて、世界にでよう』『嫌なら自分を変えるか、離れること』この2つを意識して生きていきたいです。
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