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【掌編小説】車輪の唄

本当に大切なことは口にするべきではない。言葉や文章にするべきではない。

自分の中の誰にも触れられないところにきちんと畳み込み、それを生きる糧にしていくべきだ。どうしても押しつぶされそうな夜にこころの拠りどころにするべきだ。そんなことは知っている。

けれど、過去と現在と未来がぐちゃぐちゃに混ざり合い、自分の力ではどうしようもないほど多くの意味と解釈を持ってしまったとき、僕は何をすればいいだろう。何をすればまっすぐに自分の輪郭を取り戻せるだろう。だから僕は文章を書く。自分の身に起こり、起こりつつあることを可能な限り描写してみる。山頂で湧き出た水が、いくつもの水脈を通り大河に流れてしまう前に。すべてはそこから始まる気がする。

◆                         
「いったい僕は何をしているんだ?」僕は不意に思った。
気がつくと僕は美沙をベッドに押し倒し、唇を重ねていた。
さっき吸った煙草のせいで口の中に違和感がある。自分の唇ではないみたいだ。
僕の部屋のエアコンは壊れていて、もったりとした空気が充満している。これが僕の望んだことなのか。

美沙の華奢な体はうす暗い明かりに照らされ、呼吸に合わせてTシャツが上下に動いている。この部屋で動いているものはそれだけだ。

僕はシーツのしわをなぞるように手を這わせ、美沙の鼓動を直に感じてみる。
もう片方の手を彼女の柔らかい頬にあててみる。その感触には現実味というものがまったくない。押し殺した吐息が耳の奥のほうで聞こえる。
僕は彼女を強く抱きしめたいという感情に駆られる。しかし、残っていたひとかけらの理性で唇を離し、現実をこちらに引き寄せるように、僕は美沙の目を見て言った。

「嫌なら今すぐやめる。無理にするほど器用じゃないんだ」
映るものすべてを許し、映るものすべてを拒んでいる目。僕がずっと見つめられなかった目だ。彼女は何も答えなかった。

僕は上体を起こし、部屋の電気をつけた。


美沙は中学二年生のときに、同じクラスに転校してきた。いやに天気が良かった五月。転校してきた日のことをまだ僕ははっきりと覚えている。光沢のある黒髪、まだあどけなさが残る顔、印象的な黒い目、触れたら折れてしまいそうな細い腕。

原体験、レーゾン・デートルの萌芽、夢の続き、初恋。何と呼んだっていい。
授業中、美沙の横顔を盗んで見たかった。女友達と何を話しているのか気になった。休み時間に読んでいる文庫本のタイトルが知りたかった。なにより彼女の笑顔が見たかった。自分がした話で彼女が笑ってくれたときだけ、僕の存在が認められた気がしたのだ。

十一月の半ば、僕は美沙に告白した。答えはイエス。その日の夜、僕はアメリカ大陸をヒッチハイクで一周したあと男子フルマラソンの世界記録を最年少で更新し、その結果を冥王星の親戚に報告した。


僕たちが関わる生き物の大部分が寝静まる時間、二人は車の中にいた。僕の車だ。どこかに行くためではない。ただ部屋にいたくなかったのだ。

「もう今日は、そういうことしない?」美沙は聞いた。
「しないよ、約束する」僕は言った。
「ありがとう」 
そのありがとうは、一体どういう意味なんだ?

僕はカーステレオのスイッチをつける。
いつか入れたBUMP OF CHICKENのMDが自動的に流れる。
卒業してもう五年になるのか、と僕は思った。

美沙は枠に合ったパズルのピースを選ぶように、次に言うべき言葉を探している。けれどなかなか見つからない。うーん・・・、と微かに声が漏れる。僕はフロントガラスから飛んでいった羽虫を目で追った。言葉を急がせる必要なんてないのだ。

「わたしね」、と美沙が小さな声で切り出す。
「ときどきすごく冷めてる自分がいるんだ」
「例えば、クラスの友達が他の人の悪口言ってたりする。そういうとき私は、話は聞いてるんだけど、どこか見えないところで線を引いてる。それで線を引いてるのが自分なんだって気づいた瞬間、さらに落ち込んじゃうの」

美沙の体の輪郭がダブって見える。気のせいだろうか?

「大学受験も。第一志望が不合格で今の大学に入ったんだ。でもね、私の大学に不満があるわけじゃないよ、学校楽しいし。でもそれ以来、何するにしても、『結局だめになっちゃうんじゃないか』『また失敗しちゃうんじゃないか』って考えるの」
声の調子や話しているときの目を見る限り、彼女は真摯に話していた。うまく言えないながらも、必死に伝えようとしてくれていた。

そうか、美沙の中には、少なくとも形と大きさが定まらない二人の美沙がいる。

一人は大人の女性になろうとしている君だ。物事を冷静に見極めて、責任感があり、現実的に生きていこうとしている。誰かのせいで自分を見失いたくないと考えている。

もう一人は少女のような君だ。今を楽しむことを忘れず、いろんな感情を誰かにぶつけたいと思っている。人と人との可能性を信じている。

そして今の美沙は葛藤している。影を背負っている、痛々しいほどに。どうしてわかるかって、僕もそうだからだ。だから美沙について語るというのは、僕が自分自身について語ることにほかならない。

「そんなの誰にだってあるよ」
「だから、私は悠ちゃんの思ってるようなイメージの人ではないんだよ」
僕の言葉は闇に紛れてしまったらしい。指を動かすと、陰影のつき方が変わった。
カウンターがゼロになり、八曲目の前奏が始まる。

「この曲知ってる」
軽く茶色のメッシュを入れた髪を整えながら、美沙は言った。
「車輪の唄?」
「この曲、好きだよ」


イメージとは何だろう。
美沙と付き合った期間は、正味二ヶ月あまりだったと思う。横から関係ない奴らが興味本位で口をはさみ、様々な悪いうわさで僕の器をいっぱいにした。そして次第に、美沙に嫌われたくないという思いだけが先行するようになっていった。そんな男が、泣きたくなるほど大切な人とまともに話せるはずはなく、何人かの友達と一緒に遊びに行ったのを除けば、一度も出掛けることはなかった。手すら握らなかった。
二月の一週。バレンタインと僕の誕生日が来る前に別れた。別れを告げられたのだ。彼女の顔に、もう笑顔はなかった。


別々の高校に進学した僕らは、一切の関わりを持たなかった。僕の世界の中での女性総人口は美沙だけをマイナスした形に落ち着いたし、向こうは向こうで僕のことなど気にも留めなかっただろう。でも僕に、彼女を完全に忘れることは不可能だった。良くも悪くも、生きるうえでの全ての判断基準と行為基準は美沙の『イメージ』だったのだ。テスト前には遠くから馬鹿にされているように感じたし、ライブハウスで演奏するときはショートカットの女の子を探してしまったし、マラソン大会のときはうしろから抜かされるかと思った。
哀しいことに、僕が想像できる美沙は十四歳が限度だった。
つまるところ、いつか見返してやる、というのが歪んだリビドーの矛先だった。
小さいなってことくらい僕が一番よく知っていた。


 僕らはまた部屋にもどり、二人掛けのソファーにもたれた。静寂が力を保てるぎりぎりの時間だ。僕は煙草に火をつける。美沙は瞬間的に煙たい顔をする。僕は火をともしたばかりの煙草を灰皿にこすりつける。きっと美沙にはそういう才能があるのだ。

二人にはそれぞれ、れっきとした恋人がいる。僕も美沙もそのことを知っている。互いに深くは聞かない。灰皿に残った火種が、どこにも行けずに天井にくすぶっている。僕の隣には十九歳の美沙がいる。蛍光製のデジタル時計に目を向ける。
二○○七年九月十七日。ひとつも割り切れる感じがしない。ハッピーバースデイ、どっかの誰かさん。

残された時間、僕と美沙は年月の隙間を埋めるように、できるだけゆっくりと喋り、相手の話に耳を傾けた。僕が話している間、彼女はずっと僕がソファーの上に立てた膝にあごを乗せ、膝の皿に指で幾何学的な図形を描いていた。片方の手は僕の手を緩く握っていた。腕を美沙の肩にまわす。光沢のある髪を優しく撫でる。
初めて手を握り髪に触れるのに、なんだか懐かしい感覚がした。 


夜が終わろうとしている。それは僕にはどうしようもないことだ。
鳥の声。今なら藤壺宮の屋敷を後にする光源氏の心情がわかる気がする。
鍵をかけ、アパートをあとにした。僕の自転車は修理に出してしまっていたので、飲み会のあとに友達が置いていった自転車を借りることにした。美沙を後ろに乗せ、走り出した。
二人乗りの進みは遅い。足を上げる度、車輪がシャーシャーと軋んだ音を立てる。

「会えてよかったよ」 前方だけを見つめながら、僕は言った。
「うん、悠ちゃんと久々に会えて話せたし」 
君は僕の腰につかまっている。君からは背中しか見えていないはずだ。

「多分五年間分くらい話したんじゃないかな」
「うん」
「絶対付き合ってたときより俺たちしゃべってるよな」
「うん」

外の世界は異常なほど健康的だ。ぱっと見ただけでは朝焼けなのか夕焼けなのかわからない。B級映画のワンシーンにはお似合いだ。

「こういうことがしたかったんだよなぁ、俺は」 
「こういうのいいよね」
「なんか青春っぽいじゃん」
「でもフツーは放課後じゃない?朝方じゃなくて」
「似たようなもんだろ」
「確かにね」二人は笑った。

僕は『ほんとう』にこういうことがしたかったのだ。
そばに居れるだけで、呼吸する音が聞こえるだけで、満ち足りていたのだ。
時間が止まってくれればいいのにな、と、本気で思った。死んでもいいと、本気で思った。
「でも私たち、これから会ったりするのかな」


“街はとても 静かすぎて 世界中に二人だけみたいだねと 小さくこぼした
同時に言葉をなくした 坂を登りきったとき 
迎えてくれた朝焼けが あまりにきれいすぎて”


一呼吸置いて、美沙が言った。
「でも、もう会わないほうがいいと思う」
僕は無言。

「これから何かが起こるってわけじゃないと思う」
僕は静かにあいづち。

美沙はいつものように言葉を探している。
でも、彼女が探していた言葉は、深い深い井戸の底のへりみたいなところに決定的に落ちてしまったらしい。

沈黙。美沙がやっと口をひらく。
「こんなこと私が言うのはひどいかもしれないけど、彼女さんを大切にしてあげて」
僕はあいづち。僕はあいづちしかできない。

今日は暑くなりそうだ。朝方だというのに、ペダルをこいでいるだけで汗が吹きだす。混じりっけのない澄んだ空気を吸い込んでから僕は言う。自分に言い聞かせるように言う。

「やっと美沙のこと知れたのにな」
君は黙っている。君は黙っている。
君は、何かが起こってしまうのを恐れているみたいだ。

君はもう大丈夫だ。じきに君の中の大人の部分が、君の中の少女の部分を飲み込んでしまったとしても、君はうまくやれる。誰よりもうまくやれる。僕が保証する。

君の中にはいろんな君がいるはずだから。僕が知っている時間や、そして僕が知りえない多くの時間を過ごし、多くの決断をしてきた君が、今の君の一つ一つの細胞を構成し、シナプスがそれを繋いでくれているはずだから。君は歩くだけでいいんだ。


やがて美沙の家の手前にある橋に着く。僕は車輪をこぐ足を止める。美沙は自転車から降りた。バランスを崩して転びそうになる。僕はペダルに右足を乗せたまま、サドルにまたがっている。美沙は、僕の手をやわやわと、握るわけでもなく触っている。

「キス、したい?」 美沙は、はにかみながら、そしてすべてを見通すように、言った。
俺はこの女に一生勝てる気がしない。
口の中がからからと渇く。

「同情なら、いいや」 僕には思っていることと反対のことを言うくせがある。
ただ、と僕は言った。「思い出の最後の場面としてなら」

確かに、その瞬間、世界には二人しか居なかった。

「じゃあね」  「バイバイ」


 友達の自転車に変動ギアが付いていることを僕は知っていた。感触を確かめるように、もと来た道を走る。風が心地よい。溶けた日の光が眩しい。

オレンジ色の光線は、僕を祝福してくれている。悪くない。
声に出して言ってみる。「悪くない」

生きたい。俺はまだ生きていたい。明日も、明後日も、一週間後も、一年後も、五十年先も。今なら何でもできそうな気がした。根拠のない自信がじわじわと染み出すのがわかった。
世界は、今やっと平和になったんだ。低速ギアから高速ギアにシフトアップする。

ペダルをこぐ足が、いっそう速くなった気がした。




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