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昭和の名曲『青春の影』に思慕の念を懐きながら思い返すこと

若い人にはあまり知られていないかな……?アラ還さんやそれ以上の方々なら懐かしいと思える曲かもしれません。夫の闘病中も亡くなってからも、わたしはよくこの曲をピアノでポロンと弾いてしまいます。話かけるために……。

チューリップの全盛期にはコンサートに行くほどのファンでしたが、この曲には特別な想いがあります。

君の心へ続く長い一本道は
いつも僕を勇気づけた
とてもとてもけわしく細い道だったけど
今君を迎えにゆこう
自分の大きな夢を追うことが
今までの僕の仕事だったけど
君を幸せにするそれこそが
これからの僕の生きるしるし

もう8年も前になりますが、わたしはこんな記事を書きました。⬇

このころは夫も元気だったので、軽く懐かしい曲という感じで気持ちを綴っていますが、夫がいなくなった今、もう少し詳しく記しておこうと思います。

20代のころの夫が、「財津和夫にこの曲の真意を聞いてみたい」とよく言っていたことには理由がありました。

夫と出会ったのはわたしが16歳のとき。若造の夫は超ド貧乏な米国留学をしていたのですが、学費が払えなくなり勉強を続けるための資金を稼ぐために、日本に一時帰国していました。高い時給がもらえたので、某英会話スクールの講師として働き、学費が貯まり次第、米国に戻り勉強を続けるつもりでいたのですが、自分の教えるクラスの中で、わたしと出会ってしまいました。

若造夫は、米国での勉強を続けたかったので、わたしが高校を卒業したら結婚していっしょにアメリカに行こうと言いました。

そんな話におったまげたのが、わたしの両親です。

「勉強したいならまず一人で行け。ちゃんと卒業して、職を得て一人前と胸をはれるようになってから出直して来い」

昭和のご時世、子を思う親ならごもっともな言い分でした。

日本流の「ごもっともないい分」を理解はできるものの、アメリカ的には学生結婚も、社会人が大学に戻ることもあたりまえでしたから、すでにアメリカナイズされていた当時の若造夫は、わたしを連れて留学生活に戻りたいと言い張りました。

両親と若造夫との間で、娘、恋人の“争奪戦”が始まりました。

真ん中に挟まったわたしとしては、たまったもんではありません。あっち向けばこっち立たずで、疲労困憊の日々でした。

夫としては、「いっしょに体験していくことに意義があるのだから」と恋に落ちたわたしと二人で米国生活を経験し、苦楽をともにし二人の将来を築き上げて行きたいと切望しました。

今のようなグローバル時代ではない、昭和の日本ですから、夫の言い分にはやはり無理がありました。

「言葉もわからない外国に、学生の身分で娘を連れて行くなんて!!親として認められるわけないだろう」

アメリカの大学で博士号を取得するはずだった若造夫の夢は、わたしと出会ってしまったせいで中断しました。争奪戦に疲れ果てていたわたしは、「一人で戻って勉強して。待ってるからだいじょうぶ」と言いましたが、若造夫はわたしのそんな言葉を信じませんでした。

今のようにネットで繋がることもできないどころか、当時は国際電話だって目の玉が飛び出るほど高かったのですから、遠距離恋愛というレベルではありません。ここで、妥協すれば自分が異国にいるうちに、両親に言いくるめられて、“良い縁談”に奪われる可能性のが高いと妄想しました。

夫は米国に戻ることを断念し、英会話スクールを立ち上げ、両親が納得できるだけの収入が得られる若造になったところで、わたしと結婚しました。

こんな経緯を持っている夫なので、『青春の影』の

♪♬自分の大きな夢を追うことが 今までの僕の仕事だったけど
 君を幸せにするそれこそが これからの僕の生きるしるし♬

この歌詞に対する思い入れが特別だったのでしょう。女のために自分の夢をまずはあきらめざるを得なかったという気持ちが人一倍ありました。

そんな背景があったので、長い間、この曲を聴くたびに夫の気持ちを想ってわたしの胸はチクチクしました。

それでも、4人の子どもたちに恵まれ、両親も孫の成長を楽しみ、わたしたち夫婦が地に足をつけて、家庭を築いていくようになってからの人生はもう誰のものでもありません。

1997年にサモアに移住し、4年間を過ごしたあと、夫は2001年に自分が留学時代を過ごした米国ミシガン州に戻ることを決意しました。本来なら若いわたしを連れて経験するはずだったことが、家族6人でのハチャメチャ体験になりました。

夫は40代に突入していたので、脳みそも若いころのようには働かなかったことでしょう。大学の助手として働きながら子ども4人+妻を養い、米国の若者に混じって母国語ではない言葉で猛勉強したおっさんは、人間環境学・家族学としてのPh.D.を取得しました。

予定より四半世紀も遅れて掴み取った夢でした。

亡くなるまで学者として勤めた大学は、若かりし頃に留学していた母校であり、我が家の4人の子どもたちにとっても母校となりました。そして、娘、次男はそこで出会った人と結婚しています。末息子のパートナーも同大学での出会いです。

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【学部の皆さんによりキャンパスにメモリアルの桜が植えられました】

ピアノでこの曲を弾きながらわたしは夫に話しかけてしまいます。

✿✿✿✿✿✿✿

♪♬自分の大きな夢を追うことが 今までの僕の仕事だったけど
 君を幸せにするそれこそが これからの僕の生きるしるし♬

二十代、三十代と、そう思いながら生きていたあなただったよね。

でも、最終的に夢をあきらめず、全力でゴールを掴み取っていく姿を見せてくれてありがとう。もしあきらめていたのなら、この曲はわたしにとって永久にチクチクしたかもしれない。

わたしはずっと側で見ていた。

つらいこともたくさんあったけど。

苦楽をともにしていっしょに歩けてシアワセだった。

おまけに若造のあなたが留学していた地に、大きな家まで建てちゃって、今そこで息子夫婦と暮らしているのだから、人生っておもしろいよね。

わたしの言うこと聞かない困ったさんだったけど、あなたはやっぱりすごい人だった。

……なんてね。


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