「いつかは来るとは限らない」を意識して暮らす【息子夫婦と暮らす#23】
日本の水際対策とやらが少し緩和されたので、日本行きを調べてみました。隔離期間が3日間になったことで、人が動きだしたようです。航空運賃は先日チェックした時より3倍に跳ね上がっていました。
最後に帰ったのは2019年6月でした。毎年、5月か6月にひと月ほど帰省していたのですが、いつもなら帰国するはずの2020年はすでにパンデミックの最中、おまけに3月に夫の癌がわかり、結局その後二人で帰ることはないまま夫は亡くなりました。
夫の両親は他界していますが、妹が二人います。残念なことでしたが、妹たちにとっても2019年の帰国が兄妹の最期となりました。
闘病の日々がはじまり、コロナ禍の混沌とした中で家の建築もあり、何をどうしたらいいのかわたしの頭は日々混乱するばかりの2020年でした。ただでさえ、世界じゅうがコロナ禍でストレスをためているのに追い打ちをかけるような悲報を伝えても、悲しいだけで何もできることはないことがわかっていたので、日本の家族にすぐには夫の病気を伝えられませんでした。
しばらくは、何ごとも起こっていないように平静を努め、母にようやく伝えることができたのは、夏になってからでした。
帰国できないならそれなりに連絡を取れる方法をと考えて母にはタブレットを買って贈りました。そのときの顛末。
母はタブレット越しのわたしとのビデオ通話で、「なにかおかしい」とうすうす感じていたようです。妹に「どうも夫婦関係がうまくいってないのではないか」と母としての心配を漏らしていたそうです。
それを聞いて、そんな疑いをもったれて心配させるぐらいなら、黙っていることも辛くなり告白しました。聞かされたからと言って、母に何かができるわけでもなく、病気を心配し、娘を不憫に思うだけだと思ったので努めて明るく、癌はわかっても元気にしてるからだいじょうぶとから元気を振りまきました。
母とは、そんなふうに闘病中も亡くなったあとも、ビデオ通話を通して会話を繋いできましたが、もう待ちくたびれました。
これまで隔離期間があまりに長かったことやオリパラもありで、ずっと日本の状況を伺いつつ、高齢の母が感染しても困ると帰国を躊躇してきましたが手遅れにならないうちに、帰らないと!!です。
航空運賃が高騰したのは痛いですが、飛行機の席は限られているので待ったからと言って、この先安くなることはたぶんないでしょう。このご時世、未来予測はもう不可能です。先のことを計画することがほんとに難しいです。
どちらにしても、「もう、待てない」と思いました。
いろいろとリサーチすると、二男の住む都市からの発着だと少し安くなることを発見し、えぃ、ポチりました。
息子タローに、「日本行きのチケット手配完了!!」と報告。
「やっとだね。良かったね。高い安いも賢く消費するためにはだいじだけどさ、少々のことなら時間のほうがもっとだいじだよ」
それは、ごもっとも。何ごともバランスがだいじですが、手遅れにならないことが何よりたいせつなので、“決断”です。
すると、タローが言いました。
「もし父さんが今もこれまでどおりに生きていたのなら、オレお金の使い方さえ違っていたと思う」と。
「将来を心配して貯めておくこともだいじだけど、今という時間がもっと価値あることに気づいちゃったからさ、金遣いがこれまでよりゆるくなっちゃったよ。ハッハッハ〜」
確かに……。
長年ケチケチと倹約妻を努めてきたわたしよりも、家族を支え続けて逝った夫よりも、最近のタローのケチ度はかなりゆるめです。
「だから、ほしいものあるならさっさと買っちゃえよ。いつかなんて来ないかもしれないし、今買えば今から楽しめるんだから。ただもったいないという理由でケチケチしているのなら何より今の時間がもったいないよ。もちろん買える範囲での話だけど。お父さんが生きていたら、こんなふうには考えられなかったと思うけどね」
二人で飲みながら「お父さんの遺した偉大な教訓だよね」と笑いました。
末息子が自分たちのイタリア行きに誘ってくれたのも、同じように、時間に限りがあることを意識するようになったからだと確信しています。
子どもたちが巣立ったあと、わたしたちは夫婦ではたくさん旅をしてきましたが、それぞれが自分たちの都合を持つようになってからは、家族旅行は難しくなり最後に家族全員で旅をしたのは2011年の夏でした。
今思えば少し無理をしてでも、家族揃っての思い出作りにお金をかけてもよかったなと思っています。
「いつか」は来るかもしれないけど、来ないこともあるのだから……。
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