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「孤の家」第1章│自由のローン

―あらすじ―
32歳になる佐藤茜は、Webライターをしながら北海道の一軒家で一人暮らしをしている。理解ある彼氏、休暇を共に過ごせる友人、不自由のない経済力。自由を彩るすべてを手に入れているはずの彼女は、それでも満ち足りないものを抱えていた。その答えを探し求める彼女の記憶と未来が、すこしずつ明かされていく。筆者の実体験をベースとする、家と家族にまつわる連作小説。

小鳥のさえずりと朝日が私の目覚まし時計だ。この生活は、私が自分の力で手に入れたものだと毎朝嬉しくなる。

階段を下りていくと、無駄のないリビングが広がっている。モノトーンでまとめた壁紙とカーテン、木目が個性的なテーブルとあえてふぞろいにしたチェア。壁付けされた65インチのモニタは、“テレビ”ではない。課金型の配信番組や映画を鑑賞するためだけに使う。この空間にあるものすべてが、私の生活と好みに合致している。

ネルドリップでコーヒーを淹れている間、加熱式タバコをセットして、自分の横顔のラインを思い浮かべる。化粧をしない時間も美しい女でいたい。今年32歳を迎えた誕生日、自ら立てた目標を思い出して背筋を伸ばす。

鏡をそれほど頻繁に見るタイプの女ではないが、そこに映し出される自分は、最近すこしずつ自分が“美しい”と定義する像に近づいていると思う。地味な目鼻立ちだけれど、ケアはしている。丸顔だけれど、バランスはいい。そう自分に言い聞かせて、最低限の化粧を施す。

スマートフォンで予定を確認する。珍しく人に顔を出す予定が1件も入っていない。ラッキーだ、ラフな格好で仕事ができる。マグカップとスマートフォンと加熱式タバコを両手に持って、再び階段を上る。踊り場の正面にあるコバルトブルーの壁紙に囲まれたちいさな部屋が、私のオフィスだ。

高性能のPCとデュアルディスプレイ、自動昇降式デスク。それらの優れた機材たちは、私の自尊心を満たす。3万円はたいて買った無刻印の小ぶりなキーボードは、私のアイデンティティでもある。かつて愛した人よりも触れた時間が長いであろう、このキーボード。表面を指でなぞると、心が落ち着く。これが私の仕事道具であり、口よりも雄弁なコミュニケーション手段だから。

Webライターを始めて6年になる。家で自由に働けるという条件に目がくらんで未経験から始めた生業。始めたころから家とベストな機材を買えるような収入があったわけではない。私を囲む環境すべてが、私の努力の結晶だ。

自分は社会のなかで勝ち組だ、自分は人々が縛られるルールから解放された、自分は自由だ。それらの確信が、かろうじて私をPCの前に座らせ、キーボードを叩かせている。


夕方、そろそろ切れる加熱式タバコのスティックを最寄りのコンビニで買わなければと、ウインドパーカーを羽織る。玄関のドアをその日初めて開けると、むせ返るような夏の緑の匂いがした。きっと昼間、近くのどこかで草刈りをしたのだろう。どうやら雨も降ったらしい。コンクリートと庭の土の色が濃くなっているし、空の焼け方がいつもよりも鮮やかだ。

私が家を建てた住宅街は、札幌市に隣接する石狩市にある。繁華街から車で1時間ほどの場所だが、風景は田舎そのものだ。立ち並ぶ家々の向こうには、誰が見ても「北海道はでっかいどう」と笑いそうな景色が広がっていて、夏の夜はカエルの大合唱を楽しめる。この土地は、いつ深呼吸しても空気によどみがない。自分が生まれ育った札幌市内のベッドタウンからさらに田舎に場所を移して家を建てたが、その選択は間違っていなかったと思う。

でも、今日の空気は湿気が多くて、すこしだけ東京の夏を思い出させた。ここに引っ越してくる前、人間として成熟するまでの期間を過ごした、湿っていて臭くて不快な東京。いまとなってはすこしだけ懐かしい。あの汚らしさと、空の狭さが。

「こんばんは」

コンビニに続く道を歩いていると、はつらつとした声であいさつされた。チワワを連れた斜め向かいの家のおばあさん……あれ、何さんだっけ、と私は唇をかむ。家を建てて丸3年になるのに、いまだ近隣の人の顔と名前が一致しない。このおばあさんは、顔を合わせるたびにあいさつをして、何かしら会話を投げかけてくる。真っ白な髪と顔のしわから想像するに70代にはなっているだろうに、私よりも歩き姿が美しい。同行しているチワワも行儀がよく、毛並みはいつも整えられていた。丁寧な生活を重ねてきた人間の香りがする。

「きょう、雨すごかったわね。週末前に降りきってくれてよかったけど。佐藤さん、週末の町内会のバーベキューは参加なさるの?」

そう問われて、喉が詰まる。そういえば、いつぞやの回覧板に書いてあった。参加する気はかけらもない。欠席の連絡はしただろうか。あまりにも自分にとって興味のないイベントだったから、それすら記憶にない。

「いえ……その、仕事があって」
「あら、そうなの。残念だわ、せっかくみんなと話せる機会なのに。佐藤さん、お家を建てたのコロナ禍の最中だったでしょう、だから毎年恒例のバーベキュー会も中止だったのよね。なかなかあいさつ以外のお話できる機会ないわね、って隣の北浦さんともよく話してて。奥さんはたまに見かけるけど、旦那さんはお忙しいんでしょうね、ぜんぜん見ないわよねって」

町内会における親睦とつながり。コロナ禍の混乱に便乗して避けてきたそれらから、とうとう逃げられなくなるのか。私はいますぐにでもこの場から消えたい気持ちを抑えながら、すこし歩幅を広げる。

彼女が言った“奥さん”とは、つまり私のことだ。佐藤という苗字は町内会名簿で共有されているけれど、下の名前は知らない。だから同じ苗字のふたりの人間を識別するなら“奥さん”と“旦那さん”と呼ぶ。そのロジックは自然だし理解できるものなのだが、その呼び方や推測が成立するには、いくつもの前提条件がある。

一軒家にはふたりの男女が住んでいて、そのふたりの間柄は夫婦で、夫婦のうち夫が生計を立てていて、かつ家の外で働いている。これらがすべて満たされて初めて、先ほどの言葉たちが私にとって自然に受け入れられるものとなる。そして、おばあさんはその前提を疑わない。それが世の常識だから。……そういうすべてを理解したうえで、私がそれらの前提すべてをなぎ倒した生活を営んでいることを痛感する。

「そういえば、旦那さんも土日お仕事なの?よく土日になると大きな車が停まってるから、てっきり旦那さんは土日お休みなのかと思ってたんだけど」

我が家の駐車スペースの停車状況まで把握されているのか。町内会の目は恐ろしい。私の車は常時カーポートの下に停まっているが、2台になると確かに歩道に若干はみ出した形で2台目以降の車が停められるから、近隣の窓からはその車の鼻先が見えるのだろう。

「旦那は……不定休なんですよね。土日休みのこともあるんですけど、今週末はちょっと」
「あらそうなの、残念だわ」

そこでようやく曲がり角に到達したので、私は精一杯の笑顔で頭を下げ、「それじゃ」とコンビニに早歩きで去る。はやくメンソールの清らかなトゲを肺に入れて落ちつきたい。

彼女が指摘した“大きな車”は、旦那のものではない。そもそも旦那は。


「何それムカつくね」

週末の予定について相談しようと友人の香織に電話をして、先ほどあった事のあらましを説明すると、間髪入れずに不機嫌な声がかぶさってきた。

「べつに仲良くする必要ないじゃん、ただ近くに住んでるだけなのにさぁ」

そう言う香織は、実家のマンションに両親と暮らしている。彼女が32歳になってなお実家暮らしを選ぶのは、両親とすこぶる良好な関係を築いていて、安い賃金だが自由なタイミングで休みが取れる派遣業をこよなく愛しているからだ。

生まれてこのかたマンション暮らしの彼女は一度も、町内会のしがらみに絡め取られた経験がない。だからこそできる強気な発言だと思うが、それ以上に香織は自分の不快なものを遮断する能力に長けていた。これもまた、両親に愛されてきたゆえに育まれた天性の才能だろうと、私は心の片隅でうらやましく思う。

「でもどうしようね。もう私、牡蠣の準備しちゃった。中止はちょっと困る!」

その香織の言い分には、何も非がない。もともと週末は私の家の庭でバーベキューをする約束だった。しかしながら、目と鼻の先の公園で町内会の皆々様が集ってバーベキューをしているなか、「仕事で不参加」と言った身の自分が庭でバーベキューを同時開催するなんて、そんな肝は据わっていない。私はゆるゆるとため息をつく。方法はある。ただ、気が進まないだけだ。

「ちょっと待ってて……ダメ元で誠に連絡する」
「あっそうじゃん、誠も一軒家じゃん!開催地変更でバーベキュー決行しよ!」

一転して明るくなった香織の声から耳を遠ざけつつ、私は誠宛のメッセージを作り始める。週末は女友だち同士でバーベキューをするからと、誠と会う予定を取り下げていた手前、「事情があって、やっぱりあなたの家でバーベキューがしたい」などとは言いづらい。

自分勝手にならないよう、そしてできるならば断わってほしいという思いも重なって、仕上がったメッセージは実に回りくどい長文になった。ふだんから仕事で隙のない文章を書いている職業病からか、手軽なメッセージを送ることに慣れていない。何かをお願いしようとすると、いつも長文が仕上がる。

しかし、私が掬い取ってほしかったあらゆる文脈や申し訳ない気持ちが伝わったとは思えないスピードで既読マークがついたかと思うと、数秒後には「いいよ!」という短文が返ってきた。これが、誠という男だ。私はテーブルに突っ伏して、香織にその旨を報告する。

子どものようにはしゃぎ喜ぶ香織の声を聞きながら、私はぼんやりと、香織や誠と出会ったころ、つまり高校時代の自分と周囲の環境を思い返す。

香織は常にスクールカーストの上位にいて、教室の片隅で本を読んでいた私とは決して仲良しではなかった。会話はするが遊んだことはない。私はたまたま彼女の『嫌い』に分類されなかっただけで、何かきっかけがあれば加虐の対象になっただろう。

一方の誠も汗くさい男子グループの中にいた一人で、ワックスでがちがちに固められた短髪が凶器のように見えた印象だけが残っている。学生生活のなかで話した記憶はほとんどない。彼について覚えていることは、クラスメイトのサリナちゃんという女子と卒業するまで交際していたことくらいだ。そういえば、香織とサリナちゃんはよくプリクラを撮ったり、カラオケに行ったりしていた。ふたりがケンカしたときは、クラスの女子全員の空気が張り詰めていたのも忘れられない。でも、そんな人間関係のあれこれのすべてを、私は輪の外から観察していただけだった。

いま大人になって、バーベキューなどという陽気なイベントで彼らと自分が同じコミュニティにいるのは、奇跡だと思う。その理由はただひとつ。私たちは32歳になってなお、“自由”な人間同士だからだ。


「はい、かんぱーい!」

香織は慣れた手つきで缶のプルタブを開けて、太陽にかざした。誠の家の前には、バーベキューセットを設置しても車が2台以上停まれるスペースがある。外構などにこだわらず、シンプルなフリースペースにしているからこそ、バーベキューには適していた。いまはそこに、“大きな車”が停まっている。目ざとくおばあさんに指摘された、誠の車だ。

からりと晴れたその日は、周辺の家からも肉の焼ける匂いがただよい、話し声や笑い声が聞こえた。北海道の人間は、夏になるとやたらバーベキューをしたがる。短くて快適な夏を、手軽に最大限楽しめる手段だからだろう。

バーベキューの下準備を手際よく進めていた誠も、一息ついて缶を持ち、香織の乾杯の音頭に応じる。そしてもうひとり、予定にはいなかったメンバーが加わっていた。元クラスメイトの澤口くんという男だ。私は自分の記憶の中を必死で探ったけれど、彼のことをまるで覚えていない。

彼は飲みきれないような量の酒を車に積んで、はちきれんばかりの笑顔で「今日の酒調達係ってことで香織から声かけてもらってさ~」とあいさつした。その口調から、学生時代にまったく接点のなかった陽気なグループの一員だったことだけはわかる。

「男一人だけだと誠が居心地悪いだろうから、澤口も呼んでみたの。久しぶりだしさ、楽しめると思って」

香織はこともなげに言う。そんな簡単に週末誘える仲間がいることも、香織らしい。澤口くんは日用品販売に関わる仕事をしているそうで、業務用の酒類などを割安で買えるらしい。でも本人は下戸だから酒は飲まない。そういう条件もふまえて、香織は彼を選んだのだと付け加えた。

「香織、いっつも飲むとき俺のこと酒運ぶ要員として扱うからね」
「だって、独身だしだいたい予定あいてるし、下戸だから運転係もしてくれて楽なんだもん」

その口ぶりから、ふたりはけっこう会っているんだな、と想像した。しかし、私は澤口くんとほぼ初対面くらいの感覚なので、その会話にはスムーズに入れない。会話するふたりを交互に目で追っていると、誠が「澤口って、茜と高校時代そんな話してないよね」と一言だけ振った。

「うん、話してないけど覚えてるよ。佐藤さん。全校合唱するとき、伴奏してたよね。なんか透明感半端ない文学少女、みたいな感じだったよね」

澤口くんは懐かしそうに目を細めている。自分はそんなふうに見えていたのかと驚く一方、自分がまったく澤口くんを覚えていないことに対する罪悪感がふくらむ。

「ぜんぜん……友だち少なかったから、いまこうやって一緒にいるの、不思議な感じ」

なんとかそう答えると、澤口くんと香織は顔を見合わせて笑う。その笑いに嫌味はないが、自分が変なことを言ったかと焦る。「はい、肉焼けてるよ」と誠がトングで肉をつまみながら笑っているふたりの間に割って入ると、香織が「ありがとう誠パパ~、ついでにビールおかわり~」と甘えた声を出した。「飲み物くらいは自分で準備してよ」と誠が苦笑いする。

彼らのあいだで、水のように流れる会話と自然な空気。これは、幼いころから交流という行為を学び、当たり前のスキルとして獲得してきた人たちのものだ。私はこういうスキルが著しく低いから、学校でも会社でも、組織というものになじめなかった。だから人間関係を閉じて、自分のペースでやりとりができる一対一の関係性を好む。香織とだって、一対一で飲んでいるときはそれほど違和感がないのだが……。そんなことを鬱々と考えながら、プラスチックのコップに並々と白ワインを注ぐ。私は炭酸のアルコールが苦手だから、こういう場では毎回ボトルのワインや日本酒を手元に置いている。

「だいじょうぶ?暑いから飲みすぎてない?」

耳元で小さく問われて視線をあげると、誠が肉を焼く手を止めないまま、私の目の奥を覗いてくる。その口調や視線はふたりきりでいるときのものと変わらなかったので、すこし安心した。そして、「お酒ばっかりじゃなくて肉も食べたほうがいいよ」と、誠は紙皿にこれでもかというほど肉を重ねてくる。私はその横暴な優しさに、笑いをこぼす。

「え?で、ですよ。ふたりはいま付き合ってんだって?ぜんぜん知らなかったんだけど」

澤口くんが身を乗りだし、私たちの顔の距離感を舐めるように見る。誠は一瞬視線を宙にさまよわせてから、うん、と頷く。

「いやー、まさかだよね。俺の最新情報では、佐藤さん結婚してるって聞いてたから」

心臓がきゅっと縮まる。その話をしなければならないのか。このさんさんと輝く太陽の光の下で。私が細く息を吸った瞬間、香織が手をひらひらと舞わせながら「それ、2年前までの話ね」と話し始める。

「茜、東京から連れて帰ってきた男と結婚したんだけど、すぐ離婚したのさ。年下の雰囲気イケメンだったけど、こっち来てからヒモになっちゃったんだって。まあ、茜も茜でめちゃくちゃ稼いでるし面倒見いいからさ、相手は何もやらなくていいやって思っちゃったんじゃない?こんなニコニコして優しい年上のお姉さんがさぁ、家で仕事も家事もバリバリしてくれたら、まぁ甘えるよね。私はそういう甲斐性のない男、死ぬほど嫌いだけど」

私が話したら一時間かかりそうな話を、数秒でまとめてくれて感謝している。そこにはたくさんの認識の間違いや省略された背景があるが、現状を理解するには十分な情報だった。私は「ざっくり言うと、そういう感じ」とだけ加えて、困り顔で笑う。

「なるほどね?で、誠とはなんで付き合いはじめたの」
「俺が2年前の同窓会で声かけた。そもそも茜が同窓会に参加してくれたの初めてだったし、気になってさ。一次会の終わりで帰ろうとしてるところを声かけて、ちゃんと話してみたら、ふたりとも一軒家に一人暮らしのバツイチ同士だねって、盛り上がって……そこからかな」
「あーっ、あのコロナ禍で中止するかとか相談してたときのね。俺、熱出たから参加しなかったんだわ。陰性だったけどね」

香織も誠も、私がこういう自分の身の上話を語るのが苦手であることを、理解してくれている。それぞれが、それぞれの形でフォローしてくれている。私はそのことを身にしみながら、乾き続ける喉をワインで必死に潤す。澤口くんは探偵が謎解きをするような神妙な顔で、身振り手振りを加えながら香織と誠の言葉を復唱した。

「つまりは、ふたりとも結婚生活とセットのマイホームがあったけど、相手だけいなくなって、一人暮らしになって。で、同窓会でばったり出会って、お互いの境遇に意気投合し……ってことね。え、それでこうして新しい恋を始められるって、めっちゃよくない?大人じゃないとできない形の自由恋愛でしょ?最高じゃん」

澤口くんは屈託なく笑う。そのフォローの仕方は決して嫌いではなかった。実際そうだ。私も誠も、不自由が一切ない。もともと家族を養うために培った経済力と生活力を基盤に、互いに一人で暮らしているのだから。こうして自分の自由さを他人が言語化してくれる瞬間、私は安心感を覚える。

そうだ。私は、家、金、恋人、友人、時間、すべてを手に入れている。そうやって心の中で指折り数えて、なんと満たされているのだろう、幸せだなぁ、と再確認するのだ。

澤口くんはそのあといくつかの質問をして、私と誠の関係について聞くことに満足したらしく、話題はクラスメイトの近況に移行していった。

登場する人物ほとんどの顔が思い浮かばなかったが、自分の話をされるよりはよっぽどいいので、私は適当に合わせながら肉とワインを交互に口に運び続ける。

「サリナは今年3人目が生まれたってさ」

香織が切り出したその名前は、しっかりと思い出せた。私は思わず誠を横目で確認してしまうが、誠はなにひとつ変わらない表情で焼き牡蠣をすすっている。

「めちゃくちゃ大変そうだよ。あんなにネイルとかこだわってたのにさ、もうぜんぜん。このまえイオンで偶然会ったけど、普通のママになってた」

ケラケラと軽い笑い声をあげながら、香織はスーパーで子ども相手に四苦八苦するサリナちゃんの物まねをする。澤口くんは「まじかよ、あのサリナが!」と腹を抱えて笑う。

“普通のママ”。じんとワインで痺れている脳のなかに、その呼称がこだまする。この世にたくさんいる、普通のママ。SNSには彼女たちの悲痛の叫びがあふれていて、街中でも大変そうな姿をよく見かける。仕事の合間、空気を入れ替えようと窓を開けて公園から子どもたちの笑い声が聞こえてくるたびに、自分が何かから逃げているような気がした。

少子高齢化社会、子育て世帯に厳しい政治。そういう堅苦しいキーワードを突き破る選択をした普通のママたちの姿に、私は圧倒される。だから、いま香織と澤口くんが笑っているところに、私は便乗できない。普通のママは、私にとって畏敬の対象だ。

「でも誠とサリナが別れたときはまじでびっくりしたな……そのまま結婚するのかと思ってたよ」

香織がひとりごとのように言う。澤口くんは「ああ、長かったよね」と応じて、誠のほうに視線を送る。もう年月が経ったことだし、この話題に触れることはタブーではないのかもしれない。私も遠慮がちに誠のほうを見た。

「ああ、うん。結婚したい、子どもほしいって言ってたよ、向こうがね。でもさ……まだ学生なのにさ、生活とか想像できないじゃん。俺の実家、ぜんぜんお金ないから親の力に頼ることもできないし。それで、なんとなくあいまいに濁して、卒業後自衛隊入って、会えなくなったら自然消滅した感じ。だったかな。まあ、自衛隊きつくてすぐ辞めちゃったんだけどね」

“想像できない”んじゃないだろう、きっと逆だ。彼は深く想像したんだろう。そしてふたり……あるいはそれ以上の命を担うに足りる経済力をすぐに手に入れることは難しい、と冷静に判断した。でも、サリナちゃんは誠がその条件を満たすまで、待てなかった。

タイミングが違えば、ふたりは結婚していたのかもしれない。想像すると、いま誠の隣にいるのが自分じゃなくてサリナちゃんだったら、もっとこのバーベキューは楽しいものになったんじゃないか、と心が沈んでいく。

「ちょっとトイレ」と誠が立ち上がったことで、私は自分が放心していたことに気付く。香織と澤口くんの会話は途切れることなく続いていたらしい。いつの間にか誠とサリナちゃんの話は終わっていた。でも、相変わらず“結婚”というワードは頻出している。

「もうさすがに32歳になると、一緒に遊んでくれる人、少なくなってくるんだよね……みんな結婚して子ども生まれて、家族第一になって」

香織は大げさに嘆きながら、缶に残った最後の一滴まで飲み干さんと空を仰ぐ。その首元にはしっかりと日焼けの線が浮かび上がっていて、この夏も彼女がたくさんのアウトドアに勤しんでいることが容易に想像できた。彼女のオーバーリアクションに応じるように、おおぶりなフープピアスが揺れる。

「ねえ、茜は最後まで遊び仲間でいてよ?」

まるでかつてからの親友であったかのように、香織は私の腕にすがりついてくる。香織と私が会うようになったのは、それこそ誠と再会した同窓会がきっかけだ。たかが2年なのに。

かつては教室の中心で足を組み、友だちに囲まれて大声で笑いながら、きらびやかにデコられた携帯電話を弄っていた香織が、こんな地味な女に腕をよせて「最後まで遊び仲間でいてよ」と媚びた視線を送っている。

彼女の周囲の友人たちは、一人、また一人と新しい家族へと吸収されていってしまったのだろう。あのときの楽しい時間を過ごせる仲間がすこしずつ減っていくその期間を、香織はどう過ごしたんだろうか。

「え、でもさ。香織が頼んでるところ恐縮だけど。誠と再婚とか、考えてないの?」

澤口くんからの問いに、私の頭はカーンとハンマーで殴られたように揺さぶられる。誠はまだトイレから帰ってきていない。香織も私の腕からスッと離れ、不満そうな顔で私の答えを待っている。それはそうだ。香織はその問いについての私や誠の見解の方向性を知らないし、つい先ほどの懇願を跳ねかえす返答が二分の一の確率で返ってくるわけだから。

「……たぶん、ないかな」

絞りだした声は、あまりに頼りなかった。香織は肩をすくめて、新しいビールを探ってクーラーボックスに手を突っ込んだ。きっと、この場の空気にあわせて私が嘘をついたと思ったのだろう。でも、そうじゃない。ほんとうに、ないんだよ。

「いや、お互いさ、一度は結婚して失敗してるから。やっぱり慎重になるよね。思い描いていたようにはいかないこともわかってるし。それに、誠には子どもがいるし。一緒に暮らしてないけど、子どもがいるし」

おなじ言葉を繰り返して、自分の目の奥がじんと熱くなっていることに驚く。子どもがいる。それが、誠と私の決定的な違いだった。

「誠は、パパなんだよ。もう家族の形は変わってしまったけど、生まれた子どもは元パートナーのもとで育ってて。いまも定期的に会ってて。彼らにとって、誠は一生パパなんだ。だから、私が新しく結婚して、とか、子ども産んで、とかは、無理な話で」

「ただいま」

降り注いだ声で、私はぷつんとスイッチが切れたように閉口する。隣の空いた席に、大柄な体がどしりと座った。澤口くんは慌てた口調で、「ごめん、佐藤のこと泣かせちゃって」と謝る。それで初めて、自分が泣いていることに気付いた。すさまじい質量の羞恥心に押しつぶされて、私は顔を覆う。

「飲みすぎちゃったんだね。おうち入る?」

誠は涙の理由を聞かなかった。その言葉と背中に回された手に促されて、私は家に入る。

ひっそりと静まり返った誠の家には、まだ家族の匂いが残っている。私の家にはない、なまあたたかい匂い。玄関の壁には、父の日に送られたであろうクレヨンで描かれたいびつな絵や、紙粘土で作られた何なのかよくわからないものが飾られている。

私は、いつも私に向けられる誠の笑顔が大好きだ。でも、もっと彼が幸せそうに笑う瞬間を見たことがある。子どもたちの話をするとき。その表情はすべてを物語っていて、私には超えられない“家族”という存在の圧倒的な強さを、まざまざと突きつけるのだ。

今年の私の誕生日、彼と子どもたちが会える数少ない候補日が見事に重なってしまった。子どもたちがデリケートな状況にあって、できれば会いたいという現状もつぶさに聞く。精一杯落ち着いた表情で私が「子どもたちと会って」とほほ笑むと、誠は「ごめんね、ありがとう」と頭を下げ、子どもたちを選んだ。そうしてぽかんと空いた自らが産まれた一日を、私はベッドの上で過ごした。子どもはいつ大人になるんだろう。私はどうやらまだ大人になれていないみたい、と笑いながら。

そんなあらゆるちいさなことの積み重ねが、涙になって流れていく。何度も「ごめんね」と繰り返す。

面倒くさい女でごめんね。場に溶け込めなくてごめんね。うまく会話ができなくてごめんね。大人になれなくてごめんね。この瞬間に満足できなくてごめんね。

「謝らないで。俺のほうこそ、ひとりにしてごめんね」

誠の抱きしめ方は、私がいままで経験してきた男の抱きしめ方とは違う。欲が感じられなくて、いつでもふりほどけるような余白がある。きっと泣きじゃくる子どもたちのことも、こういうふうに包むのだろう。想像すると、余計に涙が止まらなくなる。

この家で、誠は過去、4人で暮らしていた。誠の身長にあわせて高めに作ったというあのキッチンカウンターで、誠はいいかげんだけれどおいしい料理を作っていた。元パートナーはきっと、ふたりの子どもたちの対応でてんやわんやしながら、このリビングでせわしなく動いていたんだ。そしてこまごました色とりどりの玩具が、この家のそこら中に散らばっていたのだと思う。それらすべてがなくなったこの家で、私は子どもみたいに泣いている。

誠は離婚の理由を、「俺が彼女を満足させられなかったから」と振り返ったことがある。私は誠の優しさを一身に浴びて、この彼の何に不満があったんだろう、と過去に思いを馳せる。でもきっと当事者にしかわからない、どうしても救いのない質量の不満がそこには必ずあるのだ。そういうものが、“家族”というゴールを遠ざけたり、定義を崩したりする。

そんなあまりにも壊れやすくて不安定なものに、どうして私はこんなにも焦がれてしまうんだろう。自由であることのほうがよっぽど確かな幸せであるはずなのに。その理由を考えれば浮かぶのは、ほんとうに些細なものばかりで。

私は町内会の人たちから逃げたくない。公園から響く幼い声に罪悪感を抱きたくない。スーパーで必死に子どもの手を引く女性たちに負い目を感じたくない。

ほんとうにくだらない。見栄、体裁。常識。私が心底大嫌いだったものたち。でもそれらは、生きていればまるで酸素のように私の生活を脅かして、当たり前の責務を果たしていない私をじっとりと見つめてくる。

そういうものに縛られない人生をずっとめざしてきてきたのに、やっぱり縛られている。

「私、は、これで、いいのかな」

誰か教えてほしい。私が選んだ道は正しかったのか。私が描いた幸せはほんとうに間違っていなかったのか。

誠はただ私を抱きしめる腕の力を強めただけで、答えてはくれなかった。

―以下、次章―

#創作大賞2023 #オールカテゴリ部門




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