見出し画像

「孤の家」第2章│ドールハウスのピアニスト

我が家は赤いさんかく屋根のおうち。住んでいるのはお父さん、お母さん、お姉ちゃん、私、あとポメラニアンのココア。玄関にはピンクのバラの花が咲いてて、ドアはまっしろくて、おもたい。リビングにはいると、ピアノがあるの。あと、みんなでごはんをたべる、おおきいテーブル。お父さんがテレビを見るソファ。壁紙は白いんだけど、でこぼこだけで花柄が描かれてて、私はそれを指でなぞるのが、すき。

――……好きだったんだっけ?ほんとうに?

テレビから流れるニュースは、最近起こった痛ましい無差別殺人事件のことでもちきりだ。犯人は「幸せそうな人間なら誰でも良かった」と供述しているという。私は犯人がどういう基準で相手の幸せを推し量ったのか、母親が作った朝ごはんを食べながら想像している。

我が家の朝食の時間は、テレビのニュースと父親の派手な咀嚼音以外、何も聞こえない。父親は外の音がうるさいと嫌って、この家の窓をすべて二重窓にしたという。札幌市のベッドタウンの環境音なんて、たいしたことはない。強いて言うならこの区画に隣接する二車線の道路を、それなりに車が行き来しているだけだ。

母親は父親のわずかな所作や視線の動きで、茶を継ぎ足したり、ごはんをよそったり、テレビの音量を調整したりする。そこに一切の会話はない。母親はいつも森に住む小動物のようにせわしなく怯えた目を動かしていた。父親がこの家にいるときといないときで、母親の表情は違う。私とふたりになると母親は少女のような顔つきになって、雑誌を広げて私に着せたい花柄のワンピースの写真などを見せてくる。

私がピアノを演奏していると、特に母親は機嫌が良かった。リビングに配置されたピアノで練習していると、自室を持たない母親はどうしても同じ空間にいることになる。そして夕方以降になると、母親がごはんを作る音が必ず重なってくる。包丁で野菜を切る音が、私の演奏とリズムをぴったり合わせてきた。だから間違えてはいけないと身を固くして、練習なのに本番のような緊張感に縛られながら弾いていた。

そして母親は、町内会や保護者会の面々と談話することを好んでいた。私も幼いころは手を引かれ、その時間に付き合わされていたことがある。そのとき、決まって話題は私のことが中心になる。母親自身に何の話題もないからだと気付くのは、すこし成長してからである。

ピアノのコンクールや伴奏の機会に何か功績を上げるたび、母親は自分のことのように喜び、頬を染めて「うちの子はほんとにピアノが大好きで」と説明していた。そして、父親が権威を示せる職業に就いていることや、私に英才教育ができる経済状況と環境について羨望の言葉を浴びると、実に心地よさそうにほほ笑むのであった。

そのすべてに対して膨張する違和感に圧迫されながら、私は周囲から見れば実に恵まれた環境ですくすくと育っていったのである。でも、一度たりとも家に居心地の良さを感じたことはない。お勉強が“デキる”のは父親の遺伝子上あたりまえのこと、ピアノが上手なのは母親の熱心な意欲に応えた結果。環境に恵まれているから、失敗したらすべて自己責任だ。

その感覚が確かなものとして目前に晒されたのは、かつて姉が思春期をこじらせたときのことである。姉はこの両親への違和感を抑えきることができず、盛大にぐれた。年の離れた妹であった私は、吊り上がって鋭くなった目の姉が家を飛び出す背中を、ただ怯えて見送るしかなかった。その背中に向かって「もううちの娘ではない」と怒鳴りつけた父親のことも、慌てながらも決して姉を守らなかった母親のことも、私は忘れない。

姉が出て行ったあと、一人分の呼吸が抜けた家は、余白ができるどころか一層濃密な沈黙に閉ざされるようになった。誰も姉の心中について触れない。誰も核心をつかない。ただ、日常に大きな感情の揺れが起こらないよう、全員が全員を無視し、一方で監視しているような居心地の悪さが強まった。

私はこの家の平和を守る「優秀で真面目な娘」の役を、精一杯まっとうしているだけの人形である。記憶をたどれば、この家が大好きだった時代もあるような気がするが、その記憶は断片的で、どこか嘘くさい。どれがほんとうの自分の感情だったのか、どこからが両親の目に怯えて正しさを選んだ結果だったのか、いまではもう判別がつかない。

テストの点数、ピアノコンクールの結果、自分の身だしなみ、行為の一つひとつ。あらゆるものに対して、完璧に地盤を固める父親と、それを支えんとする母親の明確な役割分担がつきまとって、そこに自分の好みを差し入れることなど、私にはできなかった。よく体調を崩す私に、「茜ちゃんはからだが弱いのね」と母親は眉を下げる。健康を崩す以外に私が本音を明かす手段がないのだと、熱でもうろうとする意識が訴えていた。

朝ごはんを食べ終え、箸をおいて両手をあわせ、「ごちそうさま」と言う。「おはよう」「いただきます」「ごちそうさま」「いってきます」「ただいま」「おやすみ」。この家にある会話と言えば、一日の区切りにある最低限のあいさつと、家族で共有するべき情報だけだ。それだけでもあるならばいいのかもしれない。そうやって妥協点を下げれば下げるほど、私は自分の家に対する自信を失っていく。

「今日、発表会の事前合わせがあるから、学校から直接ピアノの先生ん家に行くね」

玄関に向かう寸前、母親に声をかける。母親は「うん、わかった、気をつけてね」と少女のようにこくこくと頷く。しわが深く刻まれてだらんと垂れた顔には似合わない、未熟な表情と少女趣味のエプロンが痛々しくて、視線をそらす。

「夕飯前には帰ってくる?」
「うん、たぶん」
「いってらっしゃい」
「いってきます」

我が家の重たい扉はヨーロッパのどこぞの特注品らしいが、築年によるひずみのせいか、体重をかけないと開かない。ギイィと吸血鬼の館のような音を立てて扉が開くと、体重を預けていた体がよろける。雑草がふくらはぎあたりを撫でてぞわりと寒気がした。いつも蜘蛛の巣が張っているポイントで頭を下げて、傘を開く。もうこの家に、理想はない。


個人事業主の先生が自宅で営むピアノ教室の空間は、決して広くない。部活帰りの学生も含めて全員が集まれる時間に設定された“合わせ”の集合時間は、すでに日が傾きかけていた。この時間帯の対象は中学生、高校生だ。複数のタイプの制服を着た10名ほどの学生たちが狭い空間で肩を寄せ、体育座りする。私はその中の一番後ろ、一番端に座る。最後に演奏する人間の特等席だ。

「今日は、発表会と同じ順番で、発表曲をみんなの前で弾いてもらいます。緊張感をもって、当日をイメージしながら弾きましょうね」

生徒の前、開かれたグランドピアノの横に立ち、全員に対して丁寧な視線を送る先生を見上げる。先生もずいぶんとしわが増えた。小学生のころからお世話になっているから、時間の経過を考えれば当然のことだが。

私の母親は老けたのだろうか。母親の過去と現在の違いがいまいち思い描けない。同じ家にいるはずなのに、ピアノの先生以上に顔の印象が捉えきれないからだ。変わったような、変わっていないような。今朝も年齢にそぐわない空気感だけが押し寄せてきて、具体的な表情を直視できなかった。そういえば、母親の顔を真正面から最後に見たのは、いつだろう。

退屈な演奏が終わるたび、最低限だけ手を叩く時間が続く。最後だから、弾いてさっさと帰るという選択もできない。演奏を終えた中学生たちは、ほかの生徒の演奏中も仲良し同士でこそこそと何か話しこんでいる。

「こら、ほかの人の演奏もちゃんと聴いて」

先生からの一声が入って、しん、と場が静まる。

「はい、では次、錦戸マリアさん」

新入りだ。前回の発表会にもし出演していたならば、さすがにこのインパクトのある名前は記憶していたはずだ。一方で、ピアノ教室はだいたい小学校低学年から習い始めるもので、高校生になってから教室に入ってくる生徒はまずいない。私の隣に座っている古参の同期も、もの珍しげにピアノの前に座する女子高生を観察している。

マリアという名前に似つかわしい、派手な横顔だった。まつげの伸び、くっきりとしたラインを見るに、相当しっかりと化粧をしている。きゅっと雑にまとめられた明るい茶髪の根本には、染め残した黒髪のムラが残っていた。ピアノの椅子に座ると、短いスカートから白い太ももがあらわになり、目のやりどころに困る。ここらへんで一番偏差値の低い高校の制服。そういうふうに認識した自分が一瞬恥ずかしくなるが、治安が悪い学校だということ以外、その高校の話は聞いたことがない。

彼女が弾き始めると、空間に花が咲いた。あふれるように、音が香ったのだ。体育座りをした全員が、あごをすこし上げ、目を見開いた。でも上手いわけじゃない。めちゃくちゃだ。ミスタッチが多い。爪が長いからカチカチと音が鳴ってうるさい。それでも勝手に耳が奪われてしまう。彼女は盛大なミスをするとぺろりと舌を出し、楽しそうに音楽をつなぎとめた。止まらない。水のように流れる。踊るように、遊ぶように、話しかけるように。終わるまで、一瞬だった。

自然と拍手が沸き起こり、場が和やかになった。退屈さでよどんでいた空気が一掃され、透明度が増したような爽快感がある。マリアの演奏のせいで、そのあとの数人の演奏はほとんどおまけのように感じられてしまった。

「最後の演奏ですね。佐藤茜さん、どうぞ」

最後。トリ。このピアノ教室において、一番上手だから与えられる順番だ。いつもの倍、手のひらに冷たい汗がにじんでいた。錦戸マリアの演奏を聴いてから、ずっと心臓が早鐘のように鳴っている。ピアノの椅子に体重を落とし、乾いた象牙の感触を指で撫でると、泣き出したくなる。

だって、自在に動く、私の口よりも達者なこの指は、母親のために作られた嘘の塊なんだから。母親が怯えた目で父親を観察するように、私も母親の機嫌を取るためにピアノを弾き続けていた。幼いころからずっと。その悲しみがあふれて、叫び出したい気持ちがすべて音になって、ピアノの奥底から湧き上がる咆哮となる。マリアのように弾けたら、どんなにいいだろう。でも、私にはそれができない。

最後の低音を鳴らした左手を宙にとどめ、私は余韻を聴く。この音は、正しいだろうか。いつもそう、私は正しさを探し求めている。ペダルを踏む足をゆるめても、拍手の音がしない。間違えただろうか。感動しない演奏だっただろうか。それはそうか。だって演奏者の私が楽しんでいないのだから。

あきらめながら椅子から立ち上がると、拍手がどっと沸いた。その拍手の音が嘘偽りないものかどうか、判断できないほど体は興奮している。熱い。体中がどくどくと脈打って、手が震えている。拍手を贈る生徒たちのほうに視線を向けると、いつのまにか最前列に座っていた錦戸マリアが、涙を流しながら手が壊れるほど拍手していた。


「ねえ、さとうあかね!ちゃん!」

日はすっかり暮れていた。帰路につく生徒たちの合間をそそくさと縫って帰ろうとする私の背中を、どんと押したのは錦戸マリアだった。私はよろけながら、その勢いに乗せられる形で「はい」と答える。

「めっちゃ、やばかった!やばい!」

そこからマリアは、私の演奏が良かったということを、ほぼ「やばい」と「すげえ」だけで伝え続けてくれた。マリアのかすれた声は、ざらざらしているのになぜか心地いい。マリアから強く放たれる安い香りと、まばたきをするたびに揺れるまつげに慣れず、私は動揺しながらあいまいな相槌を打ち続ける。

「あのさ、もしよかったら、マリアに演奏のコツ教えてくんない?一緒におうち来て!」
「え、いまから?そんな突然、こんな夜に……」
「いいよ、ぜんぜん!来てほしい!てかうちで弾いて!まじやばかった!」

手をぎゅっと握られて、強い力で引かれる。マリアの手は、思ったよりもずっとちいさい。その強引さに、私は安心した。今日演奏を聞いただけの私という存在を求めて、わがままに手を引いてくれるマリアの一生懸命さは、私が家族から欲しかった何かに近しい気がしたのだ。だから私は、おとなしくマリアのリクエストを受けることにした。

「マリアちゃんの演奏も、よかったよ」
「え?まじ?めっちゃミスったんだけど」
「ううん、すごくよかった。ピアノ好きなんだなって伝わってきたよ」
「ぎゃーっうれしい!てかマリアって呼んで、マリアもあかねって呼ぶから」

マリアは子犬のような人懐こさがあって、きっとしっぽがあったらぶんぶんと振り回しているんだろう、と想像できる。一方で、セーラー服の胸元のリボンの浮いた角度からは、発育した体のラインを想像できた。決して性的な目で見たわけじゃない。ただ、自分が経験したことのない何かしらを、マリアはもう経験しているのではないだろうかと想像して、どこか卑屈な気持ちに駆られただけだ。

高校生にもなって異性との交際経験が一度もない自分のことを、最近よく意識してしまう。クラスメイトの女子たちは、ほとんどが当たり前のように彼氏の話をしている。彼女たちの化粧で整えられた顔や胸のふくらみに対して過敏に反応する自分の思考が、実に情けなかった。男子のことは、意図的に視界に入れないようにしている。そこに何かの感情が沸き起こることを押し殺すために。

そういう葛藤を帯びるとき、いつも私は母親のことを思い出すのだった。母親はテレビドラマでキスシーンやそれを超える愛情表現が流れると、慌てたように視線をそらす。あるいはチャンネルを変えることすらある。その母親の潔白さに準じた「娘」を演じる一方で、両親が男女としてそれ以上のことをしたから、私はここに存在しているのではないだろうか、という疑問も抱く。しかし私はその答えあわせをする相手もいないから、ブラックボックスのまま疑問は残り続ける。

「ねえねえ、あかねは毎日どんくらいピアノ練習してるの」

ピアノとはまるで関係のないことに私が意識を取られていたことなど知るよしもなく、マリアは純朴な表情でピアノに関わる質問を投げかけてくる。私は恥ずかしくなって、マリアから濃密に香る女の魅力に反応しないよう、頭から煩悩を追い出す。

「うーん、2時間とか。発表会前は、プラス1時間」
「まじ!?すご。マリア、がんばって30分とかだよ」

むしろ1日30分であのレベルに昇華したなら、マリアのほうがよっぽどセンスがあるはずだ。私はそう言いたかったが、ただあいまいにほほ笑むだけにする。自分の努力を卑下するような表現が口からこぼれてしまいそうだったから。

ちいさなエレベーターで5階にのぼり、狭くて薄暗いマンションの廊下を抜けると、マリアはドアを勢いよく開ける。いつも鍵を開けて家に入る私から見れば、驚くほどスムーズな動作だった。

「ただいまーっ、ママーっめっちゃピアノやばい子つれてきた!」
「マリア、待って待って、その前にジョーの……」
「ママー!」
ドタバタとちいさな足音が駆けてきて、下半身丸出しの少年が玄関に飛び出してきた。

「うわーっジョーだめだって、ちんちん出てる!」
「ちょっとパパー!」
「こっち手離せない!」

瞬時に押し寄せた情報量が多く、私は固まるほかない。夕飯の匂いと、おそらく幼い子どもの排泄物の匂いと、お風呂を彷彿とさせる石鹸の匂いがひと固まりになって鼻を襲う。

「ごめんね、うちうるさいんだー」

そう言いながらかかとを履きつぶしたローファーを放るように脱ぐマリア。玄関先には、大小さまざまなスニーカーやらクロックスやら子どもの靴やらが重なり合って隙間もない。私はローファーをなんとか片隅にそろえて置き、子ども用の玩具や脱ぎ捨てられたTシャツを踏まないよう、リビングに向かう。

バラエティ番組の笑い声が響く室内には、思った以上の人数がいた。台所に父親、リビングを走り回る少年、少年を追いかける母親、テーブルでカップラーメンを食べている少女、テレビの前で寝転がっている青年、それほどの騒がしさのなかですやすやと寝息を立てている赤ちゃん。壁が見えないほどの家具や物が並べられているなか、ちいさなスタンドに置かれたキーボードがリビングの隅にあった。

「これ、イヤフォンして、どうやって練習してんのか教えて」

椅子の半分スペースを空けて座り、マリアはぶらさがっていたイヤフォンをキーボードに刺す。空けられたスペースになんとか尻を詰め込んで座ると、イヤフォンの片方を耳に押し付けられた。そしてもう片方の耳には、背後から家族のどたばたと話し声が絶え間なくなだれこんでくる。

「ここでいつも練習してるの?」
「うん」

山積みになった洗濯物の下からコピーした楽譜を引きずりだしながら、マリアはこくんと頷く。私はただ愕然としながら、ぐらぐらと揺れる譜面台に置かれた楽譜を見つめる。ギャル文字がびっしり書き込まれていて、音符が読みづらい。“バンッ”とか“ここでアゲ”とか、私ならば書かない表現が多い。でもそこには、マリアの真剣さがにじみ出ていた。

「マリアさー、ここの、これ、指どうすればいいのかわかんないの」
「たぶん、運指を変えたらいいよ。ここをこう、人差し指にして」
「えっ、あ、すげー、弾きやすい!じゃあさ、ここはここは?」
「えっとねえ、そこは……っていうか、これ先生には訊けなかったの?」
「んー、先生にも訊いてるけど……マリア頭悪いからすぐ忘れちゃう。それに、先生は『マリアちゃんの好きに弾けばいいのよ』しか言ってくれないんだもん!」
「なるほど……でも、なんとなく、先生の気持ちもわかるな」
「えーっ」

むくれた顔がかわいくて、思わず笑ってしまう。マリアの腕のぬくもりが、制服ごしに伝わってくる。鼻が慣れてくると、マリアの家の匂いは、生活そのものが包み込んでくるようだ。まじりあうノイズの中で奏でられる片耳だけの音楽は、私がいままで静寂の中で聴いてきたものとはまったく異なる。

ああ、そうか。マリアはこの家に生まれ育ったから、あの音楽を紡ぎ出せるのか。背面でいつもの時間を過ごすマリアの家族は、キーボードに向き合うマリアと私に無関心だったけれど、その無関心は受容であって、否定ではない。ただそこにいていいんだと思った。

いいなあ。

マリアにピアノを教えながら、心の底からそう思った。この家で生まれ育ったら、私はどんな演奏ができたんだろう。ここには、正しさという枠が存在しない。そうしたら何を基準に私は演奏を磨いただろう。そして、何を好み、どんな人と付き合っただろう。想像がふくらんでいくうちに、私はこの家族の一員のような気分に浸れた。

そうしてしばらくマリアと一緒に楽譜に向き合っていると、すこし環境音や匂いが落ち着いてきた。いつの間にかリビングにいた子どもたちはいなくなっていて、風呂場から幼児向けの歌を歌う父親の声が聞こえてくる。マリアの母親が「ごめんね、ばたばたで」と後ろから声をかけてきた。

「ありがとうね、マリアにむりやり連れてこられたんでしょ。名前は?」
「いえ、そんな……佐藤茜です。よろしくお願いします」
「あ、ねえママ、マリアのイヤフォンあげる。あかね、さっきのすごいの弾いてよ」

マリアがそう言いながら母親を招くと、母親はマリアと私の間に顔を差し込んできて、イヤフォンをつけながらわくわくした顔で鍵盤をのぞき込んでくる。その距離感の近さに、さすが母娘だなと思った。

発表会の曲をキーボードで弾くのは初めてで、指がすべる。強弱がうまくつかないが、当たり障りなく冒頭だけを弾いた。

「うっわあ~すごいね!こりゃすごいわ!」

マリアの母親はバラエティ番組に出てくるタレントみたいに大げさな表情で拍手してくれる。マリアも「でしょ、でしょ、やばいしょ」と母親の肩を何度もバンバンと叩いた。その笑顔の目尻の形がそっくりなことに気付いて、胸が苦しくなる。

「ねえ……マリアはピアノ初めて習いはじめたの?すごく上手だけど」

私が帰る準備をしながら問うと、マリアは誇らしそうに母親の顔を見つめた。

「ママが昔、軽音部でキーボード弾いてて、マリアにも教えてくれてたんだ」
「そうなのよ。マリアちっちゃいころから鍵盤叩くの大好きで、この子ったら私に似て音楽の才能あるんじゃない?って思って。でもお金ないから教室は無理でね」
「最近パパが仕事うまくいってるからね、いまなら習えるよって言われて。マリアどうせ大学行かないし、働くまでの間だけパパのお金で教室通いたいって甘えたんだー」

“お金がないから”。生まれ育って、一度も私が聞かなかった理由。これほどたくさんの命を抱えるこの家の家計は、たしかに余裕のあるものにはなり得ないだろう。でも、その限りある資源をどう遣うか考え抜いて、いま風呂場で歌う父親は、マリアにピアノを習うことを提案したのだろう。そしてその父親の愛情を理解しながら、マリアは頭を下げたのだろう。それらの光景もまた、私は生まれ育ってきて一度も自分の家で見たことがないものだ。

父親が家を支えていることに、感謝の意はない。当たり前のように用意された家に住まい、母親は食材を調理し、私は集中できる環境でピアノを弾いて、勉強をする。あれほど息苦しい環境のなかでは、頭を下げる隙すらないからだ。

「ねえ、マリアのマリアって名前はね、アベマリアから取ったんだよ。ねーママ?」
「そ、うちの子みんな音楽つながりの名前なの!あと、海外でも通用する名前にしたんです」
「でも頭悪くて英語できないからそれはぜんっぜん意味なかったね」
「そこも似ちゃって残念だわ」

母娘の会話と笑い声を聞きながら、私はほんのりとあたたまった自分の心をそっと抱きしめる。この感情を、いつまでも大切にしたいと思った。

「発表会、楽しみにしてるね」

そう言い残して、満面の笑顔で手を振る母娘に別れを告げた。

涼しい風が吹いていて、夜の住宅街を満月がひっそりと見守っている。犬の鳴く声が聞こえて、どこかの排気口から入浴剤の香りがただよってきた。どの家の中でも、複数の命が明るい蛍光灯を浴びて、家計を気にしながら同じ屋根の下の誰かの幸せを願っているんだ。

一つひとつの窓に灯る光のなかに、私は“幸せ”の輪郭を捉えた。こうしてひとり夜道を歩く私は、あの光の中に自分も居ることを、心から願っているのだと自覚した。

きっとあの家の中の人たちは、生まれ育った環境で、そのあたたかさや所作、厳しさの乗り越え方を学んでいくに違いない。でも私は、ずいぶんと違う環境で育ったように思う。もちろん、私には私の幸せがあったと思う。ほかの人がうらやむ光が、私の家の中にもあったはずだ。でも、それは私が望んでいるものではない。

ないものねだり、なのかな。

満月を仰いで、私は一歩ずつ、まっすぐ続く住宅街の間を踏みしめていく。


ギギギィという音を立てて重い扉を開けると、リビングの間接照明だけ灯っているのが暗く沈んだ玄関から見える。大きなテーブルを前に、ぽつんと母親が座っていた。その背中は、前よりもまたすこし縮んだように思う。

「ただいま」
「あっ茜ちゃん、おかえり、遅かったね」

母親は私のことを振り返り、慌てて立ち上がる。まるでロボットが指示を受けたみたいに台所に小走りで向かい、電子レンジに皿を入れ始めた。そうか、夕飯を準備して待っていたんだな。私はひどく申し訳ない気持ちになりながら、いつも座る席におさまる。一方で、私が急かしているわけでもないのに迅速に夕飯を温めようとする姿や、遅くなった理由を一切聞いてこない距離感に、言いようのない腹立たしさを感じる。

父親は、まだ帰ってきていないようだ。私は静まり返ったリビングの奥、薄暗く沈んだ闇の中のグランドピアノを見つめる。あれは私が小学生のころ、父親が買い与えてくれたものだ。ああ、叶うならマリアにピアノをあげたい。というかこんな家、家まるごとマリアとその家族に明け渡したい。でも、ピアノも家も、私のお金で買ったわけじゃない。わかっている。私は非力で父親の経済力に頼るほかない、ただのわがまま娘だ。

湯気を立てる皿を前に、両手をそろえる。

「いただきます。遅くなってごめんなさい」
「いいのよ、たいへんだったのね、練習」

母親は正面の椅子に座り、疲れ果てた顔で口元だけ笑みを浮かべている。私がこれほど遅くなった理由が“練習”じゃないことくらい、すこし考えればわかるはずだ。それでも、私がどこで何をしていたか訊かないのは、これ以上の問題ごとを家庭に持ち込まないためか。姉が出て行く選択をするまでのプロセスを、二度と踏まないためか。そんな想像を巡らせながら、私は母親の料理を口に運ぶ。おいしいはずなのに、おいしく感じられない。

私は今日、マリアという素敵な女の子に会って、その子の家に行って、こんなにもあたたかな空間があるんだってことを初めて知ったんだよ。すごく感動したんだ。それで、将来そういう家族を自分も作りたい、なんて思っちゃった。母親にそう伝えたかった。でもそれは、ひどく残酷なことのように思えたし、その意味をこの母親が理解できるとは到底思えない。そのあきらめこそが、この家に住み着いた沈黙という化け物の正体だろうなと改めて考える。

「お母さんってさ」

私は箸を持ったまま、そう切り出す。母親はぎこちなく首をかしげた。人の機嫌を損ねた瞬間にだけ敏感な母親は、私の温度を感じとったようで、張りついた笑顔の底では怯えているのが痛いほど伝わってくる。私は母親を責めたいわけじゃないのに。はじめからそんな硬い壁を作らないでくれよ、と笑いたくなる。

「お父さんのこと、そんな好きじゃないよね」

まるでゼンマイが切れてしまったように、母親はぴたりと呼吸を止める。しかしそれは一瞬で、乾燥した唇を震わせて控えめに笑い始めた。

「やだ、好きとかそういうんじゃないでしょ、もう、これだけ長年一緒にいたら」
「年月が経ってどうのとかの話じゃなくて、もとから好きじゃないよね」

がんばってこれまで平穏を築いてきた母親には非常に申し訳ないが、私はごまかす母親の味方について“あげて”いただけだ。母親が答えたくないことは訊かなかったし、母親が話したいことだけを受け止めてきた。でも、母親はなぜ私がいつまでも味方でいると確信できていたのだろう。私が子どもだからか。いわゆる“腹を痛めて産んだ子”だから。

だとしたら、子は生涯、母親の絶対的な味方であり続けるほかないのだろうか。私はそういう暗黙の了解を肌で感じ取って、ずっと演じてはきたけれど、それは遺伝子から沸き起こったものではなかった。

母親が何も答えられないまま、ずいぶんと沈黙が続く。ようやく出てきた言葉は、果実の搾りかすのようだった。

「……でも、私たちの時代って、そういうんじゃなかったから……」
「そういうのって?」
「その、好きとか、そういうので、相手を選んだりとか、そういう時代じゃなかったから」

“好き”か“好きじゃないか”の返答は聞けていない。こういう問答からの逃げ方を、よくニュースで見る。政治家が報道陣の前でもっともらしいことを言って核心は答えない、あれだ。自分の母親にそれをやられている自分が情けなくなる。これ以上踏み込んだら、私はきっと聞きたくない答えを聞いてしまう。一方で今日じゃなかったら、マリアの家に包まれた今日この日じゃなかったら、これ以上踏み込めないとも思う。だから私は、声が震えないようしっかり息を吸い込んで、訊いた。

「ねえ、じゃあさ、なんでお父さんと結婚したの」

私の鋭い声を浴びて、母親の顔は粘土人形みたいに色を失っていく。改めてその表情や色の変化を観察していて、ずいぶんと母親も年老いたなと思った。ただ、ふだんの張りついた作り笑顔と怯えた目に比べれば、いま見せている老いた無表情のほうがよっぽどしっくりくる。その顔もたまには見せてほしかったな、とすこし悲しくなった。

「……それは……しょうがなかった、から……?」

誰に訊いているんだろう。どこかに投げ出された疑問符を、私は目で追う。なるほどなぁ、私は“しょうがない”の先に生まれた命だったのか。なんだかそれを聞いたらすべてのつじつまがあってしまって、この家における私の役割は終えたような気がした。

「ふうん、たいへんだったね。ごちそうさま」

私はその夜、母親が洗濯したシーツに包まれ、ふかふかのベッドにからだを沈めて目を閉じ、思い描いた。

マリアの家にあふれていた匂いと音のなかに、自分がいる。パパ、ママ、子どもたち。ドールハウスに人形を配置するみたいに。騒がしくて笑い声が絶えない我が家。そこで私は、ピアノを弾く。子どもたちがちいさな手を重ねてくる。

でもそれは、結局おままごとにほかならない。

私は自分が責任を負う対象として新しい命を、どのように扱えばいいのか、どう愛すればいいのか、さっぱりわからなかった。私もまた母親と同じように、いつかガラス玉みたいな目と老いた皮膚を携えて、作り笑いしか浮かべられなくなるのではないか。

枕に顔をうずめて、声を殺して泣き続けた。


発表会の日、胸元が広くあいた黒いミニスカートのドレスを着たマリアは、最高にかわいかった。

ぎくしゃくと手足を同時に出してステージにのぼってきたときはハラハラしたが、いざ鍵盤に手を置くと、誰よりも楽しそうにピアノをかき鳴らし、空間いっぱいに音楽を響かせた。拍手を全身に浴びて、頬を赤くしながら深々とお辞儀をしたマリアは、スポットライトにきらきらと瞳を輝かせている。私はその姿が愛おしくて、最後の最後の音がなくなるまで彼女に拍手を贈り続けた。

そして私の演奏が終わったとき、マリアとマリアの母親は、勢いよく立ち上がって拍手をした。最前列でそれをするものだから、つられて周りの客も立ち上がってしまう。たかがピアノ教室の発表会でスタンディングオベーションなんてするなよ、と私は笑ってしまった。ステージ上で笑えたのは、それが最初で最後だった。

「ねぇっあかね聞いて!マリアね、自分で働いたお金で、一生ピアノ続けんの!」

鼻息を荒くして、演奏後のロビーでマリアは私に宣言した。それほど今日の演奏が楽しかったんだろう。私はその熱くてちいさな手を握りしめて、「応援してる」と伝えた。

その後、高校卒業までのわずかな期間、私とマリアはピアノの先生に願い出て、連弾を練習した。技術力が必要なセカンドは私が担当して、そのうえを自在に歌い、踊るようにマリアがメロディを奏でる。ぴったりな曲を選択してくれたのは、ピアノの先生だ。発表する場はなかったけれど、先生は「最高のペアだね」と言って、たった一人の客として練習室いっぱいに響く拍手を贈ってくれた。

その曲の練習をするという建前で、何度もマリアの家に遊びに行った。彼女の家族と一緒に夕飯を食べたこともある。私が東京の大学に進学することを告げると、まるで自分の家族のことのようにマリアの両親は応援してくれた。妹や弟たちとゲームをして盛り上がったこともある。一泊して、深夜に内緒話をしながら、マリアから化粧の手ほどきを受けた日もあった。そのすべてが、私にとってかけがえのない思い出だ。

それからまた時が経って、私が東京の大学に進学して数ヵ月経ったころ、彼女からメッセージが来た。

――やべー妊娠しちゃった

その一言のあとに、焦った絵文字とハートが連打されている。彼女が連弾を練習しているとき、「この曲は愛の曲だから、彼氏のこと想像して弾いてんだ」と照れたように笑っていたから、相手はきっとその人だろう。私は思わず口元を緩めながら、「おめでとう」と返す。

――結婚式でピアノ弾いて!

私はもちろんふたつ返事を送って、それからしばらく指がなまらないよう、わざわざスタジオを借りて基礎練習を続けていた。誰かの幸せを願いながら練習するピアノは、存外楽しかった。

――ごめんお金なくて写真だけになった!

スマートフォンの画面が埋まるくらい連ねられた泣き顔の絵文字に、腹を抱えて笑った。どこまでも、マリアはマリアだった。ほんとうは彼女のウエディングドレスを見たい自分もいたけれど、幸せの形は必ずしもひとつじゃないんだろうな、と思った。

以降、私はピアノに一切触れていない。

マリアとのやりとりは、そうしていつの間にか途絶えた。

きっと彼女は、騒がしくていろんな匂いが混じったごちゃごちゃの家で、大声をあげて笑ったり泣いたりしながら、どたばたと日々を過ごしているのだろう。もしかしたら、そのかたわらには古いキーボードが置いてあって、小さくやわらかな手がその鍵盤をばんばんと叩いているのかもしれない。そしてマリアはこの子は天才だと頬を赤くして喜ぶのだろう。

そんな想像をしていたら涙がこみあげてきて、私は東京の片隅のベランダで、たばこに火をつけた。

―前の章―


読んでいただき、ありがとうございました!もしコンテンツに「いい!」と感じていただいたら、ほんの少しでもサポートしていただけたらとってもとっても嬉しいです。これからもよろしくお願いいたします。