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「孤の家」第3章│結婚ごっこ

東京メトロ東西線の終電。一両目の一番端の席。そこが平日の私にとって、落ち着ける仮眠スペースだ。浅い眠りの中でなにか夢を見ていた気がするけれど、その内容はいつも忘れる。ときどき涙が浮かんでいるときがあるから、あまり嬉しくない内容なのだろう。

降りるひとつ前の駅名に体が反応して目を開けると、隣のオヤジが私の太ももと腕にしっかりと体を密着させていた。心臓が嫌な脈打ち方をする。ほかの席もがらがらなのに。のぞき込まなければオヤジの顔は見えない。ただ、そのじっとりと汗ばんだ体温だけが伝わってくる。

吐き気をおさえながら、自分が降りるべき駅の一駅前で降りた。スマートフォンを開き、LINEの一番上に固定した「そうた」を震える指でタップして、通話する。8回目の呼び出し音でようやくつながる。

「ねえ、聞いて。密着してくるタイプの痴漢にあった」
「……んん、なに」
「最悪だよ、感覚が残ってて、気持ち悪い」
「まじかあ……うわあ……」

総太の声がほぼ夢の世界から届いていることを脳が理解しはじめて、心も体も急速に冷えていく。時刻はもう0時を回る。

「ごめん、起こしたね。一駅前から歩いて帰るからいつもよりちょっと遅れるかも」
「んー……」

ねえ、総太。いま、あんたが交際し始めて5年になる彼女は、痴漢に遭って深夜の繁華街を歩いて帰るんだよ。心配にはならないの。でもまぁ、総太は一度寝るとほんと起きないもんな。そう自分に言い聞かせてスマートフォンを耳から離すと、泥酔して終電の存在すら忘れた人々の喧騒に包まれる。

ここは都内で偏差値がトップクラスの私立大学の最寄り駅であり、飲み屋街でもある。この時間帯のメインストリートは、子どもと大人のあわいに揺れる大学生たちが、未来も何もかも忘れて酒に溺れ、ゲロを吐き散らす。

一滴も酒が入っていない会社員の私は、いま、この街においてのみマイノリティだ。東京に来てから、マジョリティの一員であれるよう努めてきた。ステータスも、身なりも、恋愛も、仕事も。私がそうしてきたのは、ここでまっとうな人間として生きるための経済力と自由を手に入れるためにほかならない。そのためなら、多少自分を偽ったって構わない。しかし、そんな私の努力がくるりと反転してしまうのが、深夜の高田馬場だ。

「お姉さん」

なんて古風な声のかけ方だろう。振り返ると、いまどきの若者らしい、オーバーサイズのTシャツを着た青年が首を傾けてほほえみかけてくる。青白くてひょろりとした腕に、いろいろと機能がついていそうな時計をつけている。重たい前髪のせいでいまいち表情がわからない。

「もしよかったら一緒に飲みませんか」
「いや、ごめんなさい、もう帰るところなんで」

すると、後ろから数人、同世代の若者がわらわらと寄ってきて、「ほらやっぱだめじゃん!」などと騒ぎ始める。一人は観光客が持っているような自撮り棒にスマートフォンをつけて、こちらに掲げてくる。

「すんません、いま『オトナの女性、昔風のナンパしたら飲んでくれる説』を検証中で」
「お姉さんいかにも来てくれそうだなって思って声かけたんすけど……やっぱダメか~」
「あ、これTikTok投稿していいすか?」

胃の中からむかむかと黒いものがこみ上げてくる。今日はほんとうについていない。

「ごめんなさい、投稿してほしくありません」

声がわずかに震えたが、毅然とした態度を示したつもりだった。しかし彼らは不可解という顔をして目配せをし、「わかりました!」とあまりにもわかりやすい嘘をつく。

若さ、無知、相手を慮れない強引さ。それらすべてに対し、私はじめじめとした嫌悪感を抱く。せめて顔にモザイクはかけてほしい。べつに実際飲みに行ったわけではないから、知り合いに見られても痛手ではないが……。そういう思考を巡らせていること自体が馬鹿らしくなってきて、何も言わずその場を去ることを決める。

後ろから何か相談するような会話が聞こえた気がしたが、それらも含めて一切の騒音から逃げたくて、スマートフォンの音楽アプリを開き、イヤフォンをつけようとする。その動作を止めるように、「あの、すみません」と遠慮がちに声をかけられる。

今度は何、と不機嫌をぶつけるような表情で振り返ると、ひよわそうな男が申し訳なさそうな顔をして立っている。そういえば集団の後ろのほうに、こいつもいたかもしれない。あの集団自体は、別の女を探してか、私が帰るのとは逆方向のメインストリートへと遠のいていった。

「さっきはごめんなさい。不快でしたよね」
「ああ、はい」
「俺、あいつらの動画編集を担当してるんですけど、ちゃんとあなたのところはデータ削除しておきます。約束します。それだけ伝えたかったです」

深々と頭を下げた彼のいでたちは、よく見ればひどいものだった。いかにも安い素材の黒いTシャツと、よれよれのサルエルパンツ、クロックス。なんのアクセサリーもしていないし、伸びきったぼさぼさの髪をセットすらしていない。先ほど声をかけてきた男と比べると、なぜ同じグループにいたのか不思議なくらいだ。きっとあのグループの中にも、カーストがあるのだろう。

「わざわざどうも」

すこし彼がかわいそうに見えて、無視するのも忍びないと思ったのだ。自身がカースト上位を経験したことのない人間がゆえに、こういう勝手な同情を抱いてしまう。

「……この時間、ここらへん、ああいう輩がいっぱいいるけど、大丈夫ですか」

大丈夫ですかって。じゃあ、あなたが私を守ってくれるんですか。鼻で笑いそうになって、大人として最低限の礼儀のボーダーラインを越えない、かつすぐに会話が終わりそうな返答を選ぶ。

「家すぐそこなので、大丈夫です。では」
「じゃあ、送っていきましょうか」

最近の若者は、何を考えているのかほんとうにわからない。何が魂胆なのだ。これも彼らの動画企画か。仕事で疲れ果てて思考が鈍っている女に声をかければ、家にあがりこめるか検証しているのか。私が露骨な疑いのまなざしを向けると、それを察して彼は慌てて両手を振った。

「いやいや、ほんとうにやましい気持ちは一切なくて。あの、ただ、なんていうか」

私はそのあとの言葉を待つ。ためが長すぎて舌打ちしそうになった。もう少なくともこの案件で10分は拘束されている。明日も満員電車を避けるために早めに出勤して、打合せに向けた資料を作らなければならないのに。

「その、すごくかわいいなって思ったんで」

頭の中身がぜんぶこぼれてしまいそうになる。少女漫画のセリフかよ。私は盛大に笑った。その笑いの9割は嘲笑だったが、1割は喜びだった。こんなに疲れきって化粧が浮いた30代まで秒読みの女の顔に、お世辞であってもそういう言葉がもらえるのだなぁ、と。

「どうもありがとうございます。じゃ」

くるりと背を向けて早歩きするが、彼は遠慮がちに、しかし確実についてくる。これ以上ついてこられると、ほんとうに人通りの少ない住宅街に入ってしまう。私はじわじわとふくらんでくる恐怖を抑えながら、いやいや立ち止まり、もう一度彼に向き合う。彼は申し訳なさそうな顔をしているけれど、だからと言って引く気もないようだ。

「ここでお別れしたら、たぶんもう二度と会えないですよね」
「そうですね」
「せめて、連絡先だけでも」
「あの、ごめんなさい。……私、彼氏と同棲してるんで」
「あ、そうなんですね。あの、これ僕の連絡先です」

顔面に「は?」という大文字が刻まれてしまって、いかにも手作りらしい名刺サイズの紙切れに対して明らかな侮辱の視線を送ってしまう。どうしよう、日本語で会話できないとしたら、何が彼を止められるんだろう。

「捨てていいです、でも受け取ってください。そしたら今日もう、ついていきません」

まるで理解ができないからこそ、私はその真意を探ろうと彼の表情を見た。真剣そのものだ。私を馬鹿にしようとか、だまそうとかいう色は、一切浮かんでいない。

「受け取ったら、絶対についてこないでください」
「約束します」

私はできるだけ嫌悪感が伝わるよう、ぞんざいに紙切れを手に取った。彼は満足そうにうなずいて高田馬場の駅方向へと走っていく。その背が見えなくなるまで、不審者に向ける視線を送り続けた。

受け取った薄っぺらい紙切れには「カメラマン 高本蓮 Ren Takamoto」というしゃれた文字と、電話番号が書いてある。あんな少年がカメラマンなどという大層な肩書きを掲げていることに、滑稽さを感じた。

ようやく帰路につき、マンションのドアを開けると真っ暗だった。同棲を始めて1年目のころ、総太に「帰ったとき暗いの嫌いだから、玄関の間接照明だけはつけておいて」とお願いしたことがある。スマートフォンを睨みながら「わかった」と頷いた彼は、その後も丁寧にすべての電気を消して先に寝ている。

バッグを引きずりながらリビングにたどりついて、ソファに沈む。閉ざされた寝室のドアからは、盛大ないびきが響いている。電気をつけないまま、時計の秒針といびきが織りなす不均衡なリズムに耳を傾ける。ときどき道路を行き過ぎる車のライトが窓に反射して、部屋を右から左へと泳いでいった。

ソファの前のローテーブルには、総菜を食べたあとの空箱とビールの缶が放ってある。きっと総太は言う、「明日片付けようと思ってた」と。そして缶の下には、以前買った結婚専門誌『ゼクシィ』が置いてあった。べつに私のほうがプロポーズを急かしているわけじゃない。むしろ総太のほうが結婚には前向きだ。

先日、実家の長崎から東京に観光旅行に来たという総太のご両親とあいさつした。予約した小料理屋の座敷で、当たり障りのない話題を選んで数時間を過ごす。たったそれだけの時間で、九州に生まれた男が、いかに家族から大切に扱われているかがよくわかってしまう。

「次の年末年始と盆は、茜さんも総太と一緒にこっちに帰っておいで」と、総太の母親は満面の笑みを浮かべていた。その笑みの底にあるのは、私の母親に似た薄気味悪さだ。生唾がせりあがってくるのを抑えられなかった。

でも、総太のいいところはたくさんある。まず、私が仕事に精を出すことに対して文句を言わないところ。いままで観察してきた限りは子どもや周囲の人間にやさしくて、なんとなく“いい父親”になりそうなところ。そしてほどよく仕事をし、ほどよく休み、ほどよく人と距離を取るところ。実にバランスが取れていて、トラブルの少ないパートナーだった。

私の中の家族像には、人ではなく家が先にある。赤いさんかく屋根のドールハウスだ。そこに私の人形を置いて、次にパートナーの人形を置く。そのパートナーの顔は描かれていないが、総太は限りなくそのイメージに近い気がした。きっとこの人なら、子どもと笑い合ったり、休日の時間を楽しんだりできるんだろうな、と。

でも。

深夜1時に近づいているリビングで一歩も動けなくなっている私は、結婚という言葉からも、そのドールハウスの生活からもかけ離れている。日常は続く。この延長線上に結婚生活があるはずなのに。

ある日突然、女は良い妻になれるのだろうか。あるいは良い母に。この空虚な空間は、結婚という一線を超えると家族が住まう心地いい家へと育つものだろうか。そう想像すると、そのためには何か大切なものを手離さなくてはならない気がした。

いつだったか思春期のころ、自分が描く理想の家族像について悶々と考えていた。あのときは、自分が幸せな家庭を築くことなど無理だろうと想像すると悲しくて、ただひとり泣いていた。

それからずいぶんと長い年月を重ねて、私の感性もずいぶん鈍くなっている。というか、鈍らせておかないと東京の生活など続けていられない。答えのないことを深く考えて泣くこともほとんどなくなった。北海道から離れて東京の時間に追われ、仕事に明け暮れるようになってから、家族がどうのなどと考える余裕はない。

だから忘れかけていたものがある。黒くて毛羽立っていて、勝手にうごめいて暴れ出す感情。こんな深夜にその手触りを思い出すと、またその感情が息を吹き返しそうだから、私は顔に精一杯力をこめて、仕事のタスクにだけ集中しようとする。

いつの間にか、総太のいびきは静まっていた。秒針がこち、こち、こち、と、もう始まってしまっている今日を1秒ずつ削り取っていく。


クリスマスが近づいてきたことよりも、年末年始が近づいてきたことを思い、からだが重くなる朝のことだった。総太は珍しく私よりも早く起きて、リビングでコーヒーを飲みながら、テレビのニュースをぼうっと眺めている。スウェットに収められたシルエットが朝日に照らされているのを見て、ちょっと太ったな、と思った。

「おはよ」
「おはよう。ねえ茜、今日、雪けっこう降るって」

総太の言葉に促されて画面を見ると、『関東地方に大雪のおそれ』というキャプションと共に、キャスターが外出時は注意するように、と呼び掛けている。一部では交通網の乱れが、というお決まりの警句に、どうせちいさい雪だるまを作ってはしゃぐ程度の雪だろう、と私は小さく笑った。北海道の豪雪が肌になじんでいると、これらの注意はすべて冗談のように感じられてしまう。

そのまま洗顔と化粧のために洗面所へ向かうと、リビングから「ねえ、前から言ってるけど、年末年始の飛行機、もう取るからね?」という呼びかけが届く。私は聞こえないふりをして、蛇口を多めにひねる。水の音がすべてかき消してくれることを願いながら。すると総太は、わざわざ洗面所まで移動してくる。鏡を見ると、ずぶ濡れになったすっぴんの自分と、すこし表情の硬い総太が並んで映る。

「あのさ、うちの母親もそろそろ決まらないと困るって」

11月の初旬から総太の母親が頻繁に電話してきていた。親戚一同が集まる場に、私もいなければならないのだという。年末年始と盆。毎年総太が実家に帰り、私が連休を取れる、自由で心地のいい期間。今年からは、そこすら休めなくなるのだ。なんとかして断れる理由はないだろうかと考える一方、毎年新規性のある嘘など到底ないわけで、先々のことを考えるとどうにも呼吸が浅くなる。

「うん、ごめんね」

私はいつもの顔を作るルーティンをこなしながら、こわばった顔で謝る。

「……孫の顔見たいってさあ、最近そればっかで」

呼吸を止めて、鏡に映る総太の顔を盗み見た。なんでそんな、嬉しそうな緩んだ笑いを浮かべてるんだ。手が震えて、コンシーラーがいつもシミを隠す場所にうまく乗らない。

「え、もしかしてさ……それが理由なの」

私の声は冷え切っていたけれど、総太が「何が?」と応じる声にはまるで危機感がなくて、私は絶望して首を横に振る。私はてっきり、自分との未来を想って、総太が積極的に結婚について考えているんだと思っていた。でも、そうじゃないのかもしれない。あの母親が孫の顔を見たいというから、総太は結婚を急いでいるのかもしれない。

私は、自分のドールハウスに総太を配置していた。でも私は、総太のドールハウスに配置される側の人間なのかもしれない。そしてそこには、孫の顔を楽しみにしている『おばあちゃん』という、想像もし得なかった人形が増えて、頻繁に出入りするのだ。パパ、ママ、子どもたち、おばあちゃん。ルールをすべて総太の家族が決める、おままごと。

化粧を終えても、私の顔はすっぴん以上にひどい顔だった。


その日の雪は、珍しく北海道を思い出させる類のものだった。粒が細かくて多い。白い空を神様がすり下ろし続けているように、静かに、でも確実に降り積もる。昼休みに入る前からオフィスは騒々しく、何線が止まっただの、打合せが中止になっただのという声が耳に届いた。

まだたくさんのタスクが山積みだというのに、帰宅の指令が出た。私が使う路線は動いていたから帰れるけれど、ほかの路線が動かないから流れてきた人で駅は混雑している。厚着の人間がひしめいている地下の空間は息苦しくて、すぐ外に戻った。

みんな傘をさしているなあ。北海道なら傘をささないのにな。

ただただ家に帰りたくないという気持ちだけが、降りしきる雪の中で強まっていく。私はスマートフォンを取り出して、総太に呼びかける。出ないでほしい気持ちもあったが、一方でもう総太のことを何も考えたくないという欲求が先走る。私はただ、本能で自由を求めていた。

「もしもし?どした?」
「ああ、総太。ごめん仕事中に。今日、雪で帰れない」
「……やっぱりねえ、そうだと思ったよ」

その声には、どこか嘲笑や哀れみの色合いを感じる。彼の背後からは、薄くテレビのバラエティ番組の声が聞こえた。

「俺の会社は今日リモートワークになったからさ。家にいんだけど。茜はどうするの?」
「……どっか泊まる」
「宿泊費、経費で出るの?まさか自腹じゃないよね?ってかもう転職すれば?こんな雪の日に出社って、馬鹿みたいじゃん」

総太から畳みかけられた言葉に、私は絶句する。すこしずつ、すこしずつ自分のルールが崩されはじめている。わかっている、総太だっておなじことを考えているんだ。私がこのままの働き方をしていたら、いわゆる“結婚生活”は始まらないということを。どんどん自分の幸せが、自分の築き上げたものが浸食されて、いつかなくなってしまうんだ。

「……ごめん、考えとく」

そう言い残して、スマートフォンを切る。涙を抑えることができない。私は母親と何が違うんだろう。総太が思う通りのレールに乗ってこのまま走っていけば、いつか子どもから冷めた質問を浴びせられるだろう。「なんでパパと結婚したの?」って。そうしたらきっと言ってしまう。「そういう時代だったから」って。

私はただもう、消えてしまいたい気持ちに押しつぶされそうになる。無風のなか降りしきる雪は、上から下へと落ちているのか、下から上へ昇っているのか、ときどきわからなくなる。巻き戻したい。時間を。じゃあ、どこまで。どこまで戻れば、私はやり直せるんだ。

わからない。

ふと周囲を見ると、雪の中で涙を流している私に、幾人かの好奇の視線が向けられていることに気がつく。だめだ、変な人間だとばれてしまう。私は顔を隠せるよう、バッグの中の折り畳み傘を探る。すると、いっぱいに詰め込まれた資料や化粧ポーチの合間から、紙切れが出てきた。まるでたったいま、見つかることを望んでいたように。

カメラマン 高本蓮 Ren Takamoto

私の指はすがるように、電話番号を押し始めていた。


「ほんとうに連絡くれるとは、思わなかったです」

高本蓮はきしむ扉を開けて、「汚いですけどどうぞ」と私を自室に招く。彼から指定された住所は、東京の端の端、ほとんど千葉に位置する街だった。遅延する電車に乗るのが億劫でタクシーで移動したが、料金は思った以上に高くついてしまう。てっきり高田馬場近くに住んでいると思い込んでいたから、その立地にも、あまりに安い建付けの住まいにも驚く。それを思ったまま口にすると、こともなげに彼は言う。

「ああ、高田馬場にいたのは撮影のためで。あそこだと、勝手に有名大学の学生だと誤解して撮影OKしてくれる人が多いから。なんなら俺、高校も不登校で中退してますし。あ、通信は通ったけど」

まるで機能していない物置と化した狭い台所と、ペットボトルの山。一人がなんとか通れるそのスペースを抜けると、敷かれた薄い布団とプラスチックのローテーブル、それらとまるで不釣り合いな高価そうなパソコンやカメラなどの機材が置かれた、ちいさな正方形の空間があった。冬だというのに湿気を感じる。カーテンが閉め切られていて、天候に関わらず日差しが届いていないことを想像させる。身に染みる寒さが、そこにはあった。

唯一ほこりをかぶっていなそうなローテーブルの前のスペースに、私は正座する。「あ、お尻痛くなるだろうから」と手渡され、薄いクッションを尻に挟んだ。

「改めてごめんなさい。いろいろ事情があって、一泊する場所がほしくて……高本くんしかいなくて」
「蓮でいいです。で、何か嫌なことがあったんですか」

彼は私の隣に座って、私の顔をのぞきこんでくる。狭い部屋だから、その距離も許されると言わんばかりに。それがいけないことだとわかっていても、私は「この相手になら何を話してもいい」という安心感に吸い寄せられてしまう。

私の口からそのあとこぼれた言葉たちは、総じて「自分がいかに我慢してきたか」ということを伝えたがっていた。

彼氏の愚痴を自分に好意があるとわかっている男に話す女。そういう構図を、浅はかだと笑っていた自分が、同じことをしている。自分でそれをやってみて思う。きっとそういう女たちは、別れる理由を積み木みたいに積み上げて、がしゃんと崩すその瞬間に向けてしっかりと準備をする。それを分析している時点で、もう総太との未来を期待していないことに気付いてしまう。

「もっと自由に生きたらいいのに」

蓮は私が落ち着くまでひとしきり傾聴したあと、ぽつりと言った。何も知らない若造め。自分ですべてを明かしておきながら私は腹立ち、一方でそこに正しさもあることを理解する。

「要は、自分の好きなように生きられて、それを愛してくれるパートナーがそばにいれば、いいんですよね?」

私はこくりと頷く。その自分勝手がまかり通らないから、いまこうして見知らぬ男の家に転がりこむほど、追い詰められてしまったのだと思いながら。

「じゃあ、俺と結婚しましょう」

私はぽかん、と口を開けて、蓮のことを見た。

何も、知らない、若造め。

でもそこにあるのは、怒りではなかった。だんだんと蓮の思考回路の根幹にあるものが、わかってきたから。

この人は、自分の欲に純粋で、そこに何ひとつのルールや常識が介入してこない脳をしているんだ。それはもしかしたら、このルールだらけの世界においては欠落なのかもしれない。でも私の目から見たら、それは極めて自由で、美しくて、シンプルであるように感じた。

「あ、待って。いまさらだけど名前教えてください」

ほら、順番がめちゃくちゃだ。名前を呼ぶ必要にかられて名前を今さら初めて聞くような男だ。でも私は、「佐藤茜」と素直に答える。その先にある話のほうに興味があったから。

「あざす。えっと、茜さん。俺はこの通り、ボロアパートに住んでいて、なにひとつ失うものがありません。親ともほぼ絶縁状態です。で、俺は茜さんが好きです。出会ったときに『あ、この人だ』って思いました。だから、何のしがらみもなく、ぜんぶ茜さんに合わせられます。どう生きたいか、教えてください」

そのあと、私の口は、まるで言葉が夢遊病にでもかかったように、とめどなく理想の生活への願望を語ることになる。そして心臓は高鳴って、いてもたってもいられなくなった。長年枯渇していた“自由”という燃料を急にあふれるほど注入されて、心がいかれてしまったんだ。


北海道に引っ越して初めて迎える冬、雪が降りはじめた空を窓から眺めながら、私はすでにひとりだった。

蓮とは通算4年間の月日を共に過ごしたことになる。総太と過ごしたマンションを飛び出してボロアパートに転がりこんだ日から、ほぼ毎日冷えた鼻をつきあわせながら、「愛している」「かわいい」と溺れるような言葉を浴びせられ続けた。

私が“初めて”だという彼の若い体を自在に扱えたことも、私の抑え続けてきた欲を存分に満たしてくれた要因のひとつだ。伸びきった髪の毛を美容室で整えさえて、私の好みの洋服を着せたら、周囲から注目を浴びるほど彼は“イケメン”に化けた。その“イケメン”に愛され、すべての意思決定を自分の好き勝手にできる自分は、世界で一番幸せだとすら思えた。

場所にも時間にも縛られないWebライターという仕事を選び、堅実さと真面目な仕事ぶりで着実に年収を積み重ね、帰りたいと心の中で願っていた北海道に移住する。

そんな不安定かつ流動的な人生のすべての選択に私は蓮を連れていった。蓮は当初の約束通り、すべてを快諾して私の隣から離れなかった。そうだ、これが何の束縛もない理想の結婚生活だ。

私はすべてを叶えた万能感に浮き立ち、気が狂ったように金を稼いだ。そのストレスをぶつけるように蓮の体を求め、自由を謳歌するべく酒を飲み、いままでできなかったすべてを取り戻すように大声で笑った。

そして彼との婚姻届を出すとき、予想外のトラブルが起こった。「俺、母親の名前知らないや」と、彼は空欄を前に途方にくれたのだ。戸惑いながら私が「じゃあお父さんに電話して訊けば」と提案すると、「父親の電話番号もわかんない」と、からっぽな笑いを浮かべるのだった。

母親に捨てられ、父親も新しい家庭を作り、幼少期に預けられた祖父母に育てられたという蓮は、一緒に暮らしても生活臭がまったくしない男だった。ほとんどの野菜が食べられなくて、洗濯機のスイッチの押し方すら知らない。そのすべてが、「捨てられたかわいそうな孫」という寵愛を受けて彼が生まれ育ったツケなのだと思うと、私は彼を責められず、すべての家事を自分で受け持ち、彼の好きな肉料理だけで餌付けしてしまう。

蓮はほんとうに思考がシンプルだった。私が望んだとおり、私の選択に一切の文句を言わず、愛を伝え続けることを決してやめない。でも、それ以外のことは一切やらなかった。仕事も、生活も、何一つ責任を持たなかった。ただただ私が思う通りの人形を演じることだけに全神経を集中させていたのだ。

いつの間にか蓮の目は、私の母親のようなガラス玉になっていた。私の所作一つひとつを過敏に感じ取って合わせ続ける。たとえ私が理不尽な雷を落としても、ただただ泣きそうな顔をしながら「それでも愛してる」と繰り返すだけだった。

自分のドールハウスに誰かを住まわせるということは、つまり、そういうことなんだ。私は出会ったころよりも痩せこけて白くなっていく蓮のことを、やがて直視できなくなっていく。彼が大切にしていたカメラは、使われることなく埃をかぶっていた。

「幸せな家族って、どんなだろう」

蓮と裸で抱きしめ合いながら、そう訊いたことがある。

「絶対に裏切らないこと、そばを離れないこと、それを死ぬまで続けること」

蓮は自分に言い聞かせるように、そうつぶやいた。私は彼の髪をそっと撫でて、「ごめんね」と言った。両親という存在をほとんど知らず育って、私みたいな人間と出会ってしまって、その呪いに縛られているんだね。蓮には蓮の理想の家族の姿が、きっとあったんだよね。

私は自分の金で建てた新築の家のからっぽな空間のまんなかで、蓮と強く抱きしめ合いながら、彼との別れを心に決めた。それが人生で一番満たされた瞬間で、きっとそれを上回る瞬間はもう二度とないだろうと、確信したから。

離婚届を出すときも、泣いてすがる蓮を追い出すときも、私はただただ彼に「ごめんね」と繰り返す。「嫌だ、絶対に離れたくない」という蓮の言葉を振り切って、この罪悪感はすべて自分が負うから、どうか私のことなど忘れてくれ、と心の中で叫び続けた。

この先にあるのは地獄以外の何物でもないことを、私は自分の家族から学んでいたから。この不幸は、もう誰にも継ぎたくない。

そして私は、自分が築き上げた空間の中で、一人暮らしを始める。ぜんぶ自分が決めたこと。ぜんぶ自分が選んだ失敗。それでも日々は続くし、あの雪の日みたいに、どうしたって巻き戻らない。

私はせめて忘れかけていたマリアの家の匂いを思い出そうと、不確かな記憶をたどる。あのときに心に満たされていた感情があれば、今日を生きることを許せる気がする。

……もう一度、あのころ感じていたものを掘り返したい。

そう思っていた私の手元に、高校の同窓会の誘いが届いた。

コロナ禍で中止にするか悩んだけれど、こういう時期だからこそ会ってストレス発散しよう、という頭のわいたような誘い文句が誤字と絵文字に彩られて並んでいる。これを書いた幹事は、きっと私が高校時代、苦手だと思って避けていたタイプだろうと容易に想像がつく。けれど、私は「参加します」と返信した。自分と向き合うために、一人で北海道に根をおろす覚悟を決めるために。何か自分の心を支えるものが欲しかった。

安い居酒屋に集まったのは6名ほどだった。私にとっては珍しく大規模な飲み会だったが、この同窓会に毎年参加しているという隣に座った香織は、「えーっまた少なくなってんじゃん」と文句を言う。「そりゃあコロナ禍だからね」と、誰かが笑って突っ込んだ。誰かにとがめられるんじゃないかという罪悪感がわずかにあったが、それもしばらくしてアルコールに溶けていく。

飲み始めた序盤だけ、私は話題の中心になった。「これまで一切参加しなかったのにどうして参加したの」とか、「東京行ったんじゃなかったっけ」とか、身の上に触れる話題を次々と振られ、その一つひとつにしどろもどろしながら答える。その一連の流れで、相変わらずノリが悪いやつだと判断されたらしく、ほどなく話題の中心はそれていく。

彼らが語り合う身の上話を肴にしながら、私は自分がこれからどう生きようかと、そればかり考えていた。やっぱり彼らと私は生き方に大きな差があるなあ、と悲しくなりながら、一方でこういう生き方をする人ともつながらないと私は孤独死するだろうなあ、とも思うのだ。

寒空の下、次はカラオケだ、と盛り上がる輪から抜け、帰路につく。マリアの家に行ったあの日ほどの気付きや心の動きはなかったけれど、私は北海道に帰ってきたんだな、という実感がほんのりと心を満たす。

そういえば、隣に座っていた香織と、帰り際に連絡先を交換した。香織はクラスの中心人物だったから、まさか私の連絡先を欲しがるなんて思ってもみなかったけれど、「こんど飲みにいこうや、暇でしょ」と親指を立てられた。その距離の近さに、マリアのあたたかい距離感をふと思い出して、私はそれを懐かしく思う。

それだけで十分な収穫としよう、と私はマフラーを巻きなおす。札幌駅の電光掲示板を確認すると、あと1時間も待たなければならない。これだから田舎は……と改札前でため息をついていると、「佐藤さん」と声をかけられる。

振り返ると、先ほど一緒に飲んでいた元クラスメイトがいた。口を開いたものの名前が出てこず慌てていると、「工藤誠」と、自分から名乗ってくれた。あ。この人、笑うと目がなくなるタイプの人だ。その温厚な顔に、ふ、と心が緩む。

「電車、この時間になると少ないね」

私は自分が乗る予定の線を指さして、困り顔を作る。

「1時間……一杯だけなら、すぐそこで飲めそう。佐藤さんの気が乗れば」

私は彼の誘いに乗った。今日は自分のこれからを考えるために、わざわざ慣れない飲み会に参加している。だから、これも気付きのきっかけになればいい。そのくらいの気持ちだった。

私はそのあとの時間を想像以上に楽しく過ごした。ちいさなカウンターバーで、誠は「俺も離婚したてなんだ」と話を切り出す。その一言に親近感がわいてしまって、私は強めのカクテルをいつもよりハイペースで飲んでしまう。

「ふたりで離婚の理由を同時に明かそうよ」と誠が提案してくる。さきほどの同窓会では、離婚したことしか私は言っていない。「いいけど、絶対にかぶらないよ」と、私は意地悪く笑う。「言ってみないとわかんないよ。……せーのっ」

「嫁の浮気」
「旦那がヒモ化」

同時に言ってから、お互いの言葉を頭の中で反芻して、同時に笑いだしてしまう。重たいワードのはずなのに、それが重なったらなぜか心がすっと軽くなった。

「うわあ悲惨!」
「え、まってまって、ヒモってどういうこと!?」

それからお互い過去の話をして、ときどき涙が出るくらい笑った。誠は大層な失敗や重い過去を、なんの重大さも感じさせない口調で語る人だった。唯一、誠の言葉がずしりと重くなったのは、「それでも親権はとれなかった」と振り返ったときだけだ。それほど子どもが彼にとって大きな存在なんだと、私はそのときすでに知っていた。

「嫁の浮気は、悪いことだと今でも思う。けど、俺も彼女を大切にしきれたかって言われたら、そんなにいい夫じゃなかった。それは反省してて。だから次に好きになる人は、後悔しないように大切にしようって、そのとき心に決めたんだ」

この人はそこにある事実と自分自身の行動を明確に切り分けて、反省するところは反省して乗り越えてきたのだろう、と想像できる。その軸足の重さに、私は惹かれた。

その日、酔ったふりをして私はわざと終電を逃した。それなのに誠は、丁寧にタクシー代を渡して私を帰らせる。そういう真面目なところがムカつくなあ、と、私はタクシーに揺られながらため息をつく。窓ガラスに反射した私の目元は、なくなるくらい細かった。


それから季節がひとつ巡って、春の陽光の下をドライブデートしているときのことだ。出会った日に帰らされたときの心情をすこし盛って明かすと、誠は慌てて弁明した。

「いや、正直どうでもいい相手だったら、そういう流れで……ってのもあるかもしんないけど。あの日、まじで茜と真剣に付き合いたいなって思ったから、我慢して帰したんだよ……え、だめなの、そういうの?」

いつになく焦る口調がおかしくて、私は笑う。

「ぜんぜん。いいと思う、そういうところ好きだから」

蓮のような強引さや孤独の影がない、不器用な誠だから、私は時間をかけて考えて、自ら選択した。この人と新しい幸せを探していこう、と。

あの同窓会の日から、コロナ禍は思ったよりもずっと長く日々に影響し続けていて、正直いつ明けるのかわからない。もしも誠に出会っていなかったら、私は誰にも知られないまま、ひとり新築の家のなかで呼吸することをあきらめていたかもしれない。雪解けと共に、誠は私のことを青空の下に引っ張り出してくれた。

だからこの日々の先に、私はドールハウス以外の幸せを見つけたい。もう、ごっこ遊びには疲れたんだ。窓の外を流れる自然豊かな緑道に目を戻す。

私なりの幸せが、この先にありますように。そう、新緑の光に願った。

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