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【私たちの軸足#2】~言語から、開かれた世界へ~

このnoteは、薮中塾生が普段の活動や専門性を生かした記事を発信する企画の第2弾です。

なぜ言語を学ぶのか——。

言語を勉強していると過剰に意味を問われる時代になったように思う。
「AI(人工知能)が翻訳できるようになるのに?」「外国語なんていずれ勉強しなくて良くなるでしょ」
私自身、大学でインド北部からパキスタン全域で話されるウルドゥー語を学び、度々こうした質問や時には嘲笑に近いニュアンスの言葉を浴びせられてきた。確かにいわゆるメジャー言語に限って言えば、翻訳機や翻訳アプリを使えば簡単に意思疎通を図れる時代。いずれは世界中の誰とでも機械を介して話すことができるようになるかも知れない。「じゃあ、言語なんて勉強しなくていい?」私はそうは思わない。言語を学ぶ意義とは、言葉とは一体何なのかそんなことを考えてみたい。

外国語を学ぶ意義ってなんだろう?

外国語の勉強というと多くの人の頭に思い浮かぶのは、電車の中で必死に英単語帳をめくった学生時代。中学校や高校で習う英語といえば、文法や和訳や英訳が中心で、その点で言えば確かに「こんなことするくらいならGoogle翻訳でいいじゃん!」と言いたくなる気持ちもわかる。でも、そもそも外国語を勉強するのは「これは、ペンです」を別の言語に”言い換える”ためなのだろうか。ここで、フランス語学者で近代言語学の父・ソシュールの研究者でもあった丸山圭三郎の外国語学習にまつわる指摘を参照したい。

外国語を学ぶということは、すでに知っている物事や概念の新しい名前を知ることではなく、今までとは全く異なった分析やカテゴリー化の新しい視点を獲得することにほかなりません。
—— 丸山圭三郎『言葉とは何か』(ちくま学芸文庫)

要するに、外国語を学ぶことは日本語から異言語への”言い換え”を知ることではない。よく見かける例ではあるが、フランス語の「パピヨン」は蝶という意味であると同時に、蛾に対しても使われる。日本語において区別され、私たちも当然別々のものとして認識している「蝶」と「蛾」だが、実は同じチョウ目で生物学上の境界は曖昧だ。言語でみると、フランス語やドイツ語、ロシア語ではこれらに区別はない。もっと身近な例を挙げよう。英語で「兄弟」は"brother"。でも、「弟」は?「兄」は?一語で表せる単語が存在しないのを不思議に感じたことはないだろうか。実は、日本語は家族にまつわる語彙が非常に多いことで知られる。姉、妹、兄、弟、おば、おじ…。おば(伯母、叔母)、おじ(伯父、叔父)やいとこ(従姉妹、従兄弟、従姉、従兄、従妹、従弟)など、漢字で区別するものも多い。

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意外にも言語の違いが最も大きく出るの色の表現だとも言われ、太陽光線スペクトラム、虹と言えば日本では「七色」紫・藍・青・緑・黄・橙・赤のことを指す。一方で、英語ではpurple, blue, green, yellow, orange, redの6色で区切る。科学的普遍性を帯びていそうな事柄ですら、認識によって違って見えるのだ。こうした意味範囲の違いを考えると、異言語を媒介して私たちの言語を完全に言い換えることはおおよそ無謀に近いことがわかる。Google翻訳にかけたとき、単語単位で微妙に違う翻訳が生まれてしまうのもこうした言語間の認識の違いが要因の一つに挙げられるだろう。

言語を学び、見えてくる世界

外国語を学ぶこととは、丸山の指摘する通りむしろ「新しい視点」の獲得なのではないかと私は思う。言語とは文化そのもの。例えば、インドの食生活を知らなければ、小麦でできたパン状のものは全てナーンだと思ってしまう。しかし、インド人に言わせてみればそれはチャパティー、ローティーかも知れないし、はたまたプーリーかも知れない。文化を知らずして言語を学ぶことは不可能であるし、逆もまた然りだ。異言語を学ぶことで見えてくる日本語への気づきもある。先ほどあったような日本語の家族にまつわる語彙の多様性も、外国語を学ばないことには見えてこない。すなわち、他の言語を知ることは相対的に自言語、自文化への造詣を深めることをも意味するのだ。外国語を学ぶという行為は、それまで自言語のみでみてきた〈単眼〉的な視界を〈複眼〉へと開いてくれる。

私はウルドゥー語を学んでいるが、ウルドゥー語と聞いてどこで話される言語なのか、どれほどの話者がいるのか知っている人はなかなかいない。あるYouTuberは動画の中で「そんな言語やって何になるん?」と嘲笑していた。ウルドゥー語は、冒頭でも軽く触れた通り北部インドからパキスタン全域で話されるインド亜大陸のリンガフランカだ。実は言語としては、インドの公用語であるヒンディー語とほぼ同じ。ヒンディー語がヒンドゥー教徒を中心にサンスクリット系の語彙で構成され、デーヴァナーガリーという文字を使って記述するのに対し、ウルドゥー語の話者はムスリム(イスラーム教徒)であり、ペルシア語系の語彙を基盤にアラビア文字で綴られる。ウルドゥー語とヒンディー語は「ヒンドゥスターニー語」とも言われ、両者間の意思疎通にはほぼ滞りがない。インドの人口が13億5,000万を超え、パキスタンの人口が2億1,000万を超えている現状を考慮すると日常的に言語を使う話者数は計り知れない。とは言え、言語を学ぶ意味は、たくさん人が話しているからといった有用性では決まらない。外国語学習は視界を〈複眼〉にし、世界を開いてくれる。この見地に立てば、学ぶ言語は”メジャー言語”だろうが、”マイナー言語”だろうが、ラテン語やサンスクリット語のように現代では使われなくなった古い言語であろうが関係ないのだ。

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(インドで見られるデーヴァナーガリー文字とウルドゥー文字のダイグラフィア:同一言語の多言語表示)

言語は常に「ひと」とともにある

「英語さえ出来ればインドは余裕」こんな話を聞いたことがないだろうか。確かに、インドの上流階級は英語を使うことが多い。加えて、イギリス領土だったインド・パキスタンでは日常会話レベルでもルー大柴か?というくらい英単語が混じる。では、インドは実際英語さえ話せればどうにかなるか、と聞かれると私はそうは思わない。むしろ「英語さえできれば〜」は現地の人々への敬意に欠けた暴論のようにも感じられる。忘れてはならないのは、英語が彼らにとってもあくまで第二言語に過ぎないということだ。私たちも海外から来た人に「このホテルはどこ?」と英語のみで詰め寄られて、自分が特に英語が得意なわけでもないのに一部終始英語でやりとりをした暁には"Arigato"の一言もなく、英語のみで去られてははっきり言って不愉快な気持ちになるだろう。言語を話すのはいつだってひとだ。今や機械に話しかける時代かも知れないが、あくまで話すのはいつだって人間だ。言語を介したコミュニケーションには必ず感情を伴う。仮に先ほどの会話の最後で"Arigato! Sayonara"の一言があったらどうだっただろう。きっと、拙い日本語でもうれしい気持ちや道案内して良かったと、ポジティブな気持ちになれたに違いない。馬鹿馬鹿しく感じるかも知れないが、そういった喜びや嬉しさは、異文化間のコミュニケーションにおいてことに重要と言える。実際、私はインドに行った際にちょっとしたウルドゥー語・ヒンディー語を喋って見せただけで、買い物が少し安くなったり、会話のタネになったり、良い経験へとつながった。


AI時代の到来。外国語なんて勉強しなくてもいいじゃないかという波は着々と威力を増している。果たして、機械を通した会話で本当に我々は深いコミュニケーションを図ることができるのだろうか。ただ、会話が成立するだけなら可能だろう。しかし、人と人がコミュニケーションを図るとき、そこに感情のタネを撒くのはその人の口から発せられる言語であり、ひいては現地語なのではないだろうか。

言語から、開かれた世界へ——。
言語を学んで、ともに世界へ繰り出しませんか。

【著者】
右谷 潮(みぎたに うしお)

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大阪大学外国語学部ウルドゥー語専攻に所属。外交に関心があり、薮中塾に6期生として入塾した。趣味は言語学習。ウルドゥー語をはじめ朝鮮語語、セルビア語、スペイン語、デンマーク語、ベンガル語…と様々な言語を勉強してきたが、話せるかと聞かれるとノーコメントである。「〇〇語で話してみてよ」というノリを「外国語ハラスメント」と呼んでいる。

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