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ことのは徒然〜「PERFECT DAYS」を観て〈番外編〉

ドラマ・映画好きなキャリアコンサルタント xyzです。

このところ連続して、映画「PERFECT DAYS」についての記事を上げていましたが、今回は映画そのものの感想からは離れつつ、映画でも印象的に取り上げられていた【木漏れ日】などのユニークな言葉言葉にまつわる徒然を書こうと思います。

木漏れ日→KOMOREBI

映画「PERFECT DAYS」でエンドロールの最後の最後に出てきた言葉、【木漏れ日】

木漏れ日という言葉がドイツ語で説明されます。木漏れ日、に対応するような単語がドイツ語にはない(英語にもない、フランス語にも、たぶん他の外国語にもない)からです。

「木々の枝葉の隙間から差し込む太陽の光」をわたしたちが「木漏れ日」という一語で表現するものは、他の国では固有の単語があるわけではなく、ただそういう事象として認識されている……この違いに風土、国民性、文化的背景、感性など、これまでの人の長い営みから生まれる言葉(単語)の必然や進化、他国語話者との違いなどを感じました。

雑誌『フィガロ・ジャポン』のインタビューでもヴィム・ヴェンダース監督は「(清貧という言葉を聞いて)日本語には、ドイツ語でたくさん説明しなきゃいけないことを簡潔に表現する言葉があってとてもいいですね」と答えていました。

この【木漏れ日】という単語は日本語独特の言葉の代表として、わたしの愛読書「翻訳できない世界のことば」という本にも登場していました。

本当に大好きな本♡
KOMOREBIとは…

他の言語に訳すのに1語では言い表せない言葉、ある言語に特有の1語というものがあります。【木漏れ日】もそうです。
ヴィム・ヴェンダース監督は、この木漏れ日という言葉に非常に強い思い入れがあるのでしょう。エキゾチックでユニーク……日本らしさの表れとしてこの言葉をとらえているのかなと感じました。

他の外国語でも、そのような言葉はもちろんあります。

バナナとおにぎり

例えば、この本にも紹介されている【PISANG ZAPRA】はマレー語で「バナナを食べるときの所要時間」、時間にして約2分だそうです。食べる速さには個人差とバナナの大きさが関係ありそうですけれどね(笑)

バナナを食べ切る時間が生活の中でひとつの時間の単位になっている不思議。不思議と書いたけれど、これはわたしが興味深くおもしろいと感じただけで。マレー語話者にとっては、当たり前でこの言葉は必然。それほどまでにバナナとバナナを食べることが生活に入り込んでいる、ということで……日本だったら(と無理やり考えてみる)さしずめおにぎり1個、といったところでしょうか。マレー語話者にとっての「バナナ」は、日本人の生活にある「バナナ」とは多分在りようが違っていて、同じ「バナナ」というものを知っているとしてもそのものに付随する文化的意味や存在価値は違う……ではその異文化の外国語の単語を自文化の他の近しいもの(例えば日本人にとってのおにぎりなど)に置き換えて理解しようとしても、そもそも「バナナ」は「おにぎり」ではないし、その外国語表現をあるがままに受けとめたり実情に即して理解することは不可能で……とあれこれ思いを巡らせていると、外国語を理解するって本当に難しいものだと痛感します。

人として共感できること

そのように考えると「木々の枝葉の隙間から差し込む太陽の光」を見て【木漏れ日】という一語を生み出した古(いにしえ)の日本人の世界観の繊細さと造語のセンスを改めて素晴らしいと感服します。そして日本語だけでなく、他の国々の言葉特有の単語の多様さを知るにつけ、国語の数だけ彼らの世界観や感性があって、母語を超えて「人として」その感覚に親近感や共感を覚えたり、まったく想像の範疇を超える意外な発見があったり……と、それこそが他国語を知る愉しみであり学びの豊かさであるのだなと思いました。

たとえば、本に出てきた言葉の中でわたしが共感した言葉は【RESFEBER】、スウェーデン語です。意味は「旅に出る直前、不安と期待が入り混じって、絶え間なく胸がドキドキすること。」

小学校の遠足の前日の夜もそんな気持ちになったなぁ(笑)
そわそわウキウキきょときょとワクワクどきどき(今書いていて気がつきましたが、こういった心の機微を表すオノマトペ、日本語たくさんありますね!すばらしい!!しかもひらがなで書くかカタカナで書くかで微妙なニュアンスが出てくる……深い!!)

こんなピンポイントな気持ちを、一言で形容する言葉を生み出したスウェーデンの人々に、とても近しい気持ちを覚えます。この感情へ焦点を当て一つの単語に昇華させるなんて!「よくぞ、この思いを一語の言葉にしてくださいました!」という共感と称賛と敬愛の気持ちです。

スウェーデンはまだ行ったことのない国ですが、大好きな児童文学者アストリッド・リンドグレーン氏を輩出した国であり、大好きな映画「ロッタちゃん」シリーズの映画の舞台でもあり、一方的に親しみと愛着を感じています。この【RESFEBER】という言葉も、勝手にロッタちゃんのお出かけ前のそわそわした様子に変換して想像したくらいです(笑)

似ているけれど……

この本では【GEZELLIG】というオランダ語もとりあげられていました。
意味は「単に居心地良いだけじゃなくて、ポジティブであたたかい感情。物理的に快いという以上の『心』が快い感覚。たとえば、愛する人とともに時を過ごすような。」だそうです。

この説明を読んでいて、ぱっとすぐ頭に浮かんだのはタイ語【SABAAI(タイ語表記 สบาย)】でした。わたしは学生時代タイ・バンコクで通算2年弱過ごしていたのですが、よく耳にし口にする単語のひとつがこの【SABAAI】でした。意味としては「心地よい、快適、気持ちがいい、気楽、ストレスフリー」でしょうか。 この【SABAAI】を一言でズバリと説明するのは本当に難しい……汎用性が高くて、文脈によって意味が柔軟に変わる、とでもいったらいいのでしょうか。

สบาย สบาย(SABAAI SABAAI)と二回繰り返したり、「 สบายดี」(SABAAI DEE)で「元気な、元気」という挨拶表現にもなります。

【GEZELLIG】【SABAAI】も似たようなニュアンスがあり、どちらも居心地が良く、リラックスした雰囲気や心地よさを表現しているようにわたしには思えましたが、多分完全一致はしないはずです。なぜならオランダ語話者にとっての心地よさとタイ語話者にとっての心地よさや感覚は必ずしも同じではないと思うからです。なぜなら風土も暮らしもそして生活信条などの価値観も何もかも違うはずだからです。同じ風土に生きる者同じ言葉を使う者同士の連帯感、共有する経験などはそれぞれの単語に内包されているからです。
わたしはタイでの生活体験はありますが、オランダを訪れたことはありません。オランダやオランダ語を知らずして【GEZELLIG】を肌感覚でわかりえないから、【SABAAI】を似ているものとして引き合いに出すのはやはり何か違うかもしれないな……と思い直しました。

Lost in translation


多分、【GEZELLIG】【SABAAI】は一見ニュアンスの近い言葉かもしれませんが、完全にイコールでは結べない。似ているようだけど、逆にある意味とても遠く隔たってもいる……矛盾している言い方になりますが、その隔たりこそがLost in translation、翻訳という作業の段階で、こぼれ落ちてしまうものたち、なのではと思います。
単純に日本語に訳してみて似ている、近いというだけで二つの異なる国の言葉を安易に結びつけてしまいかねない危険性をわたしは【GEZELLIG】【SABAAI】から学びました。

翻訳(ほんやく、(英: translation)とは、ある形で表現されている対象を、異なる形で改めて表現する行為である。

Wikipedia「翻訳」のページより

学生時代から社会人5年目くらいまでの間、通訳翻訳の勉強を続けていましたが、当時の講師の先生は「日本語をしっかり学べ」と何度もおっしゃっていました。外国語のスキルの向上は当然のこととして、母語である日本語を大切にすること、高い日本語力、場面に応じた表現力、日本語のアップデートが不可欠だと。当時は外国語(英語)ばかりに目が向いてしまっていましたが、今ならば先生の忠告がよくわかります。仕事と勉強の両立が難しくなり残念ながら翻訳家への道は断念してしまいましたが、当時の勉強や言葉に向き合う姿勢はキャリアコンサルタントである今、とても役立っていると実感しています。上に挙げたLost in translationこぼれ落ちてしまうものたちの存在を、対話のなかで常に意識しているのは、あの時の勉強の副産物だと確信できるからです。

「Lost」がある一方で、翻訳(変換)のプロセスで「過剰なもの」「余計なもの」が付いてしまう可能性も同時に考えなければならないと思っています。なるべく過不足なく、相手の言葉をそのまま受けとめ理解するように努めると同時に、どんなに注意していてもある程度の誤差があることからは避けられないのだという戒めも常に持ち合わせていたい、というのが、わたしが数年間通訳翻訳養成学校の勉強を通じて得た心構えであり、それはキャリアコンサルタントとなった今でも変わらず持っているものです。

人の心を種として

さて、世界に言葉は数多く存在するのに、そのどれもが自分の思いや感情を充分に表しきれていない、そんな気持ちになることはありませんか?
わたしはあります。結構あります。noteの記事を書いていてもよく思います。選んだ言葉がしっくりこないと感じるジレンマというか、かくも繊細で複雑なひとの心や感情をぴったり表現するには言葉は少なすぎる!といつも葛藤しています(それとも語彙力を鍛えれば解決することなのか……)。

そこでふと思い出したのが、紀貫之の言葉です。
紀貫之は国語の教科書でもお馴染みの、平安時代前期から中期の貴族であり歌人、三十六歌仙の一人です。彼は「古今和歌集」の撰者でしたが、仮名序(序文・巻頭文)で次のように書きました。

やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。
世の中にある人、事業(ことわざ)、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。

現代文訳)和歌は、人の心をもとにして、様々な言葉になった(ものである)。
世の中に生きている人は、関わり合う事柄が多々あるので、その出来事に対して心に思うことを、見るもの聞くものに託して、言葉に表わしている(歌にする)のである。

仮名序・古今和歌集

人の心を種として、様々な言の葉となる。なんて詩的な表現でしょうか!
種が落ち、芽吹き、のびやかに成長し、やがて葉が茂(繁)り……葉と葉が重なり触れ合う音や、葉と葉の間を通り抜ける風、そして葉の隙間から差し込む柔らかな木漏れ日まで想像してしまいます……と、紀貫之から木漏れ日まで繋がった!(笑)

言葉の向こう側

話題を戻して……この「翻訳できない世界のことば」の著者、エラ・フランシス・サンダースさんは「はじめに」でエッカート(エックハルト)・トールの文章を引用しています。

(前略)エッカート・トールは「言葉は、真実を、人の心がうつしだすわずかなものに減少させてしまう」と言っていますが、わたしはそれにはあまり賛成していません。言葉は、わたしたちにとても多くのものをあたえてくれます。(後略)

はじめに ひとことでは訳せない、世界のユニークな単語たち「翻訳できない世界のことば」より抜粋(前田まゆみ訳)

著者はあまり賛成していないと書かれていますが、わたしはトールの言葉に深く頷いてしまいました。言葉が内面にあるものを「目減り」「矮小化」させてしまう(要はうまく伝えられない)経験をこれまで随分としてきたからです。もちろん、エラさんのおっしゃることもわかるのですが、どちらかというと言葉の持つ力についてはわたしの考えはトール寄りかなと思います。

トールは、「言葉」について他にもいくつかの洞察を書いています。彼の著書「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる(原題The Power of NOW)」では、言葉が思考を形成し、過去や未来への心の取り組みを生むとの考えを述べています。しかし、言葉には限界があり、深い理解や意識の拡大は言葉の beyond(向こう側)にあると伝えています。

トールは、言葉は思考やコミュニケーションの手段として有用である一方で、深い理解や真実を知るには限界がある、だからこそ言葉のbeyondにある、言葉で表現しにくいより深い次元や経験に意識を向けることの重要性を強調しています。

言葉を拠りどころとして、言葉を介して、対話のなかから相手を理解しようとするキャリアコンサルタントだからこそ、トールの言う「言葉の持つ限界」には深く共感しています。言葉のbeyondにどこまで肉薄できるか、それがキャリアコンサルタントの力量であり、プロフェッショナリズムですね。

しかし……本の題名、なんで怪しげな自己啓発本っぽいタイトルにしてしまうのでしょうか……(映画の邦題のトンチキさに通じるものがあるなと)『今、ここに生きる力』『今を生きる』あたりでいいのではないかと……(小声)

今回は、映画「PERFECT DAYS」から少し脱線した話になってしまいましたが、映画にインスパイアされた……番外編ということでご容赦ください。

実は映画を観た後、シニフィアン、シニフィエなどソシュールの言語学をふいに思い出したので、久しぶりに丸山圭三郎「ソシュールを読む」を読み返してそのことを書こうかと考えていましたが、あれこれ書いていたら長くなりすぎたのでこの本については別の機会に譲ろうと思います。そしてこの記事を書いていて無性に和辻哲郎「風土」を読み返したい衝動に駆られています。大学時代の専攻分け初の課題図書群の一冊でイヤイヤ読んだ本(そんなだから内容をほとんど覚えていない←)を急に懐かしく思い出すなんて……人はわからないものです(笑)

では、今回はこの辺で。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました^^


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