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待つことができるのは終わりがあるから

会社という組織形態の歴史を読むと、欧州の初期の貿易会社は一回の航海ごとに積荷(商品)も船(仕事道具)も一切すべて現金化して、それらを出資者に分け前として配分して解散していたそうだ。こうした組織のことを継続企業 going concern ではなく当座企業と呼ぶこともあるという。なぜならば、このように一回の航海ですべて清算をおこない組織として解散してしまう企業には継続性がなく、最初から終わりがあることがわかっているからである。言い換えれば、当座企業には寿命がある。

当座企業の場合、出資者たちは航海の完了と清算でいい結果が聞けることを心待ちにするうことができる。航海の途中で追加出資することは(その船に自分自身も乗り組んでいるのでなければ)原則難しいだろうし、最初に出資すると決断した後はせいぜい航海の無事を祈るばかりである(これは要するに遠くにある船に対して、航海中は何もできないことの言い換えである)。

ところで、ここでまた妙な連想ゲームをさせてもらうと、思想家のローゼンツヴァイク(1886-1929)という人は真理にはいくつかの種類があるが、その中に待つことによってわかる真理というのがあることを挙げている。例えば、子供にとって大人は一種の謎であり大人とは何なのか?というのは問いかけであるが、その答えは文字通りに待つことによって、彼が大人になることによって示される。また、休日や祝日、死についてもそれらが何なのかを言葉で先取りして考えてもわからない部分があり、それらが実際に到来してはじめて体得できる部分があるという意味で、待つことによってわかる種類の真理があると言えるだろう。

当座企業の清算の場合、出資者たちはそれを待つことができる。それは当座企業には終わりがあるからである(ちなみに継続企業━━現代の会社のほとんどがそれだが━━には理論上「終わり」が無いので当座企業と同じ意味では待つことは不可能である)。そして当座企業の終わりにおいて、出資者たちはその重要な結果、つまり真理について知ることができる。大袈裟に言ったが、要は自分たちが出した金額に対して儲かったのか、損したのかということである。言い換えれば、利益が出たのか、「得」したのかということだが、「得」は意外と難しい。名目上の金額としてはプラスになっていても物価上昇があって相殺されたり、航海の日程が予定よりも遅れ、自分自身の人生で多額のキャッシュが必要になる場面(例えば冠婚葬祭やマイホーム取得が典型的だろう)でタイミングよくそれが手に入らないと事実上の「得」にはならないからである。だから、航海に出資することで事前に期待した真理(=真の利益)を、仮に航海が無事に終わったとしても本当に手に入れられるかどうかは終わってみないとわからない。自分自身の手元に金貨銀貨が来て、それらを誰にも盗まれずに最終消費支出に回せるまでは安心できないとも言えるだろう。

現代ではこのような苦労はほとんどない。あるいはそのように待ったり待っているあいだに祈ったりすることに価値を見出す人が減ったとも言えるかもしれない。なぜならば通信技術が発達して、遠くで働いている人々の様子がリアルタイムでわかるようになったし、もし出資した会社の証文(つまり株式や債券)を現金化したければ、資本主義国家では豊富な買い手がいるからである(市場の流動性)。言い換えれば、短期主義を実現できるだけのテクノロジーと社会インフラとしての市場が発達しているということである。

もちろん、これらの進歩は非常に便利なもので、一度或る水準を超えてしまえば、もはや二度と不安定な技術で不確実性しかない遠洋航海に出るなどという危険を誰も犯したがらないだろう。つまりこれは不可逆な進歩である。一方で、我々は「待つ」ことによって得られる学びの機会を失ったとも言える。もちろん現代でも待たされる機会は多い。これだけテクノロジーが発達したのに、鉄道駅に行くと人々がおそらく疑問を持たずに相変わらずお行儀よく行列をつくって待っているのには或る意味驚くばかりである。ただ、それらは単なるムダな時間として認識されていて、暇つぶしのために利用されている。つまり、タイミングが悪くて待たされているだけといったネガティブな捉え方が優勢で、積極的に何かを待ち望むという姿勢は控えめになっている。

もちろんこれは待っている間に何かをしてはいけない、ということが言いたいのではない。救済の到来を説教する坊さんですらそんなことは言わないだろうし、当座企業に出資した人たちも幾つもの会社に出資をしつつ、自分自身の手仕事をして日々を過ごしていたであろう。私はローゼンツヴァイクの言葉を借りて、待つことによってしか得られない結果のことを真理という認識論的な言葉で表現したが、この真理は到来以前に頭の中で心配したり計算したりしても致し方のないシロモノである。だからここでイイタイコトとしては、慌てず騒がず良い結果を祈るぐらいにして待とうじゃないか……、という程度のことでしかない。そして実はなぜか多くの人間はその程度のこともできずに余計なことを考えたり悪あがきしたりしてかえって損ばかりしているのである。

今日はかつて数多く存在した当座企業もまた、人々に「待つ」ことを可能にし、そこから汲み取られる真理もあったであろうが、それが現代ではほとんど見られなくなったという話をした。

(2,223字、2024.03.31)

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