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何かを待ち望むことの構造

何かを待ち望むということは、その何かがまだ到来していないということであり、そうでありながらも、それが待ち望むことが可能な程度には手元に観念として、あるいは何らかのイメージとして獲得されているということである。言い換えれば、可能性としては手元にあるけれども、現実化していないということである。待ち望むということの中に、こうした可能性と実現という対立がある。なぜならば、待ち望むことの中には、それが未実現であることが含まれていて、未実現であることは可能性と実現との分離状態を意味するからである。

また、待ち望まれる対象はそれが将来のことである限りは偶然というあり方に置かれる。なぜならば、待ち望むことの中に、それが果たして実現するのかどうか気になる・心配するという態度も含まれているからである。例えば、戦争に行った子供が無事に帰ってくるかどうか、それを待つ親の気持ちはそういうものであろう。もしかしたら既に戦死したり行方不明になっているかもしれないし、重症や後遺症を負って帰って来るかもしれない。帰ってきても意思疎通できないかもしれない。さまざまな可能性の中に子供はおかれながら、その帰還を待ち望まれることになるのである。したがって、待ち望まれる対象が果たして戻って来るかどうか、望ましい状態で実現するかどうかは偶然であり、そのことは既に待つ側も重々承知しているのだ。

しかし、なぜまったく実現は偶然によるということを我々は待てるのだろうか? 別の言い方をすれば、我々は何かが実現するかどうかについて、それが自分のコントロールから離れていること(偶然性、外在性、独立性)を自覚するなら、むしろそれに無関心になってもよさそうなものなのに、それを敢えて待つことができるのはなぜなのだろうか?

私からの回答としては、たとえ対象や対象の到来が実現する経路に偶然が絡むとしても、もしそれが実現する見込みがある(無いと言い切れない)のなら、その未来の実現形式が我々の言葉、すなわち記号列によって先取りされているというつながりがある。というのも、いずれは対象はその目的の状態=実現を成し遂げるのであるから……ということを挙げておく。

仮にこれが妥当だとすると、鍵になるのは記号列(概念)による未来の先取りである。このことが可能になるとすれば、記号列と指示対象との関係が時間超越的である必要がある。例えば、りんごの実が木に成るのを「待てる」とすれば、それはただ時間を潰していたら偶然赤い果実が成っているのを見つけたということとは異なる。なぜならば、あらかじめ「りんご」という概念について、それ木に成る果物であるという特徴づけをそれがいつ成るのかというタイミングから独立に知っていたからこそ、これから成るかもしれない果実を待ち望むことができるからだし、「私が待ち望んでいるのは、りんごです」と自分が何を待っているのかを説明することも可能になるからである。

したがって、我々が何かを待ち望むことができるのは、すなわち、それも確実に到来するわけでもなければ、かつて一度も実現したことでないことすら待ち望むことができるのは、既にそれらを表す記号列を手がかりに概念という超時空的なアイテムを持っていることを必要条件とするのだ。このアイテムが無ければ、我々は未知の親戚を待ち望むことも、戦争中に援軍を待ち望むことも、神の救済を待ち望むこともできないのである。したがって、概念という基礎・基盤の上に、自分の思いのままにならない現実の到来を待つことが可能になるという構造もここには見つけられるのである。

(1,471字、2024.04.30)

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