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いずれは書籍を執筆したいけれど…… I wanna a book-author but ...

自分の人生の中で願望としてはなにかの分野の著者あるいは権威 author として人々から認められ、また自分自身でもそれを誇りに思いたいというのがある。そうはいっても、そういうものはあまりに簡単に手に入ると自分自身でも拍子抜けしてしまって手に入れる甲斐が無いものなのかもしれない。しかし、私は欲張りである。というのも、因果関係があるかないかはともかく、「自助努力によって手に入れた」というストーリーと「みんなのおかげでここまで来れた」というストーリー、どちらも欲しいというのが願望としてはあるからだ。

手持ちの札としては「哲学」や「発達障害者」や「会計」や「英語」や「IT」がある。もちろん、どれひとつ取ってもそれぞれの業界においては大したスキルでもないし、完全に役立たないどころか、却って素人より妙なクセがあって使えない(話が通じない、指導しにくい)なんてこともあるだろう。

そもそも何を書くにせよ、調べる力が足りないどころか、毎日の他愛もない日常を書き綴る力、つまりこのnote記事のように定期的に一定量の文字列を出力する力も以前は無かった。繰り返し述べていることだが、2023年後半になるまで、生まれてから一回も日記というのがロクに続いた試しがない。もちろん、日記を書くときのアドバイスとして、例えば何もない日は「何もない」と書くだけでいいとか、もっと肩の力を抜いてゆるく書こうとか、そういうのも見ては見たけれど、実践はできなかった。一重に健康上の問題だった。

一方、旧Twitterはむしろ毎日、四六時中やっていたこともあった。なぜならば、短文で自分にしかわからない単語をぼそぼそ入れたり自分にしかわからない暗号のような言葉を連ねたり、ニュース記事をリツイートしているだけでもよいからだ。だが、これはこれでリラックスし過ぎというか、Twitterのシステムに飲み込まれて短文コンテンツを生成しているだけで、自分で考えてパラグラフの切り方とか順番を考える訓練にはまったくならない。というのも、少なくとも自分以外の誰かにわかってもらおうとする意図なしにとにかく投稿できてしまうし、或る意味ネタ帳やログのようなもので、忘れないうちに他人からは意味不明な言葉のサラダを入れておくと、後で自分で検索してつなげることができたりする用途が中心になるからだ。

そのような用途自体はいい。便利である。ただ、拾った過去ログをつなげてからどうするのか? その出口が無かった。なぜならば、たまに興が載って連ツイしてもどこで終わらせるかは誰にも何の締め切りにも制約されないからである。それは解放的でいいことでもあるが、やはり、文章を練るとか組織的かつ構造的に文章を組み立てるところからは遥かに遠い。むしろ僭越に言えば「筆が荒れる」ような行為ですらある。

ところで、執筆指南の本には例えば「最初に書きたいことをとにかく書けるだけ書いてから、後からセンテンスやパラグラフの入れ替えとか、重複の削除をすればいいのだ」という風に、言わばブレスト的な水平思考で書きまくる工程と、推敲して論理的かつ簡潔に筋の通った理解可能な文章にする工程とを分けよというアドバイスもある。しかし仮にそれにやってみたって私のTwitterの投稿はテーマ別に分けるとどれも小粒になってしまうばかりだ。なぜなばらば、少なくとも私の投稿はあまりに注意散漫でごちゃごちゃしていて、テーマ別に分けるとテーマ内でまとまった文章にもなるべき絶対量が確保できないからだ。

そう考えて比較してみれば、この毎日投稿しているnote記事も品質はまったく担保できていないのだが、しかし、脈絡の無さすぎる連ツイよりはマシになっていると思う。なぜならば、根拠や原因を何とかくっつけてやろうとか、あまりに支離滅裂だとなけなしの沽券(こけん)に関わるとかそういう思いが湧いてくるからだ。願わくば、これらのnote記事をさらに書き直して統合し、長い一続きの文章(ワンピース)を組織できると、私も執筆者としての「器」を大きくする道が開け、未来の扉を押し開けて新しい世界に旅立てるのかもしれない。その先に何が待っているのか、どこまで行けるものか、今はまったくわからない。

(1,722字、2024.01.28)

↓発達障害当事者として書いたもので比較的読まれている記事。

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