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隠蔽された暴力 hidden violence

国家共同体には暴力装置が伴う。例えば、主に外向きの暴力装置として軍隊があり、主に内向きに治安維持のための暴力装置として警察がある。これらの暴力装置が執行する暴力に対しては、それが適正な手続きであるかどうか、法的な正統性や政治的な正統性あるかどうかが、たとえ事後的であろうと、あるいは実効性のある罰則があろうとなかろうと議論することができる。そうした議論の中でどうしても正統性 legitimacy を調達できなければ、長期的には内部分裂や外からの攻撃を受けやすくなってしまうし、反対に正統性を上手く調達できれば、適法的であるとして既存の秩序や組織が維持されることになるだろう。

これらの暴力装置は明示的なものであり、また私たちが犯罪者が引き起こす暴行傷害と同様に明確に観測できるものである。言い換えれば、通常の国家運用の中で生じる暴力の一部である。

一方、国家秩序がはじめて樹立されるときにはまた別の「暴力」が働いていたとも考えられる。なぜならば、仮に無政府状態(〝万人の闘争〟)から歴史的に最初の国家秩序が樹立されたとすれば、その中で国家秩序を樹立した勢力が他の勢力を抑え込むために使った「暴力」は、その外部を持たず、正統性をそれに先んじる何者からも調達できないからである。言い換えれば、そこには何の「物語」も無い。したがって、この国家秩序を樹立させた暴力は国家秩序の外側からも内側からも正統性を調達できないまま、秩序を樹立させたことになるだろう。

しかし、そこで内乱があって2番目の秩序を打ち立てようとする勢力にとっては事情はまったく変わってくるだろう。なぜならば、とにもかくにも1番目の秩序があって、それに対する様々な不満を糾合して打倒するという大義があり、物語を描けるからである。3番目以降の勢力も同様であり、これは通常の反乱や革命における暴力を構成する構図である。

だが、結局2番目以降の勢力や秩序というのは1番目の秩序の模倣でしかない。つまり、最初の混沌に比べれば何らかの秩序があった方がよいということについては2番目以降の勢力も引き継がざるを得ないのである。なぜならば、秩序がなく組織がなければ、力を合わせることができず、既存の組織を打倒する力を取得することができないからである。言い換えれば、無秩序に対して抑圧する暴力は支配的な勢力や秩序の内部構造、国際関係が再編成されたとしても、相変わらず機能し続け、しかもそれは通常の意味での「暴力」としては認識されないのである。すなわち、我々が「治安がいい」とか「平和だ」とか言うが、そこで実現されている治安や平和のさらに基盤になるようなものが一種の「暴力」によって実現されているが、それについて我々は気がつかないし、同時にそれが隠されているが故にその「暴力」について正統性を求めることもしないのである。

いや、そんな荒唐無稽なおとぎ話には納得できないという人もいるだろう。例えば、同意を重視する人は、我々の社会の成立には「社会契約」という何らかの同意にもとづく契約があって、それによって人民は政府に数々の業務を委託契約したのだと考える人もいるだろう。実際そういう社会も無いでは無いのかもしれない。とはいうものの、ほとんどの契約は非対称的であり、どちらにも利得はあるかもしれないが、どちらかが大きく得するような構造になっているものも少なくない。だから、たとえ同意にもとづいた契約が基礎になっているとしても、その契約の中で抑圧が無かったかどうかは疑問である。一方で、仮に抑圧があったのだとしても、それは今となっては見えなくなっている……そういう考え方もできるだろう。

(1,505字、2024.05.22)

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