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沈黙のなかにも

 今朝も半地下珈琲店で珈琲を飲んでいる。読書会に向けて、西村佳哲著「自分をいかして生きる」を再読していた。タイピングした文章をnoteの記事にしようと試みる。本の中にある図をiPhoneで撮って記事に貼り付ける。記事を読み直したぼくは、「こんな感じでどうかな?」と〈自分自身〉に語りかける。

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 〈自分自身〉と〈自分〉と〈他者〉の関係性。〈自分〉と〈自分自身〉の応答(コミュニケーション)。ぼくがずっと追いかけてきたことがこの図に表現されていた。

西村佳哲著 自分をいかして生きる p124

 とてもシンプルな図だけど、すぐに忘れてしまうし、忘れてしまった方が、上手くいくような気がしていた。実際、忘れて(諦めて)生き抜いてきたことがぼくの生きた実績としてあった。でも上手く行くのは一瞬、もしくは表面上だけで、自分自身との応答(コミュニケーション)を忘れた(諦めた)ぼくは、大切な何かを失った。それは〈自分自身〉が感じていることから〈自分〉が切れてしまった、ということだった。

同著 p129


 人生という旅を味わうための〈自分自身〉という羅針盤をなくしてしまったぼく〈自分〉は〈他者〉や〈社会〉に翻弄されながら世界を彷徨うことになった。それはそれで、面白いと思えれば良かったのだけれど。

 感じたいことを感じようと試みることが人生の面白さとしてあるとして。感じたいことを感じる試みを創り出せるよう、人の心と身体は成長し、できることが増えていくような気がする。

 〈自分〉と〈他者〉、〈自分〉と〈社会〉、それらのつながりをつくりながら、〈自分〉が〈自分自身〉とつながり、応答(コミュニケーション)していくことで、人生という旅は豊かになっていく。それら(自分、自分自身、他者、社会)はどれもあるし、どれも日々出会うことだから。

〈自分自身〉に「今どんなことを感じているの?」と言葉に出して問うてもいいし、沈黙のなかに〈自分自身〉を感じ取ってもいいんじゃないかな。その問いや、沈黙のなかに感じ取ることは、〈自分自身〉という羅針盤が示す方向で、こっちだよと、いのちが教えてくれていることなのだと思う。

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 たとえば自分に無理を強いている人は、他人にも同じく無理を強いる傾向がある気がするし、他人の話を聴けない人には、日頃から自分の声に耳を傾けていないんじゃないかという印象を覚えることが多い。〈略〉つまり「人づきあい」と同じく、「自分づきあい」とでもいうべき、ふたりの自分(自分と自分自身)の間の人間関係があるんじゃないか。

西村佳哲著 自分をいかして生きる p127

 私が私にしていることが、現実を創り出しているのではないかと。自分のことを丁寧に受け取れる人は、人のことを丁寧に受け取ることができるとか。そして受け取ってもらう体験を創り出すことができる。そういうことは、あるのではないかと思う。

読書会まであと3日。


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