見出し画像

誰の為でもなく、何かの為でもなく、自分の為ですらなく、ただ、咲きたい。

観劇は、好きじゃない。

一番の理由は

なんで、わたしは、舞台上に居ないの?

って、憤るから。

観劇するんじゃなく
出演したいから。


幼稚園児の時に、お楽しみ会で
演劇に参加して、その世界の虜になった。

何者かを、演じることが楽しかった。
未知の世界を、体感することが楽しかった。

言葉が好き
物語が好き
絵が好き
出逢うことが好き

演劇の世界には
当時(今も)好きだったものが
ぎゅっと詰まっていた。

自分の躍る心、感情を
体を動かして、声を発して
表現することが好き。

大勢の人に
注目され、見守られて
パフォーマンスするのが好き。

淡々と、過ぎていく
日常は、物足りなくて
何かが起こる
わくわくのファンタジーが好きだった。

自分じゃない何かになること
ここじゃない世界にいくことを
全力で、楽しんでた。

バレエ教室、ジャズダンス教室に通い
ダンスの専門学校に通い
舞台に立ち続けたけれど

ある時、ふと

なんで、自分は、舞台に立ってるんだろう?

と、疑問に思った。

その時、すぐに
「好きだから」とか「楽しいから」とかが
出てこなかった。

純粋に、好きなことを
楽しめなくなるような世界に
落ちてしまっていた。

生活のため
お金のため
お客さんのため

それらが、あったとしても

一番大切な
「自分のため」が、欠落して

そのことが原因で
舞台に立つ意欲を失ってしまった。

でも、演劇、エンタメの世界が
好きであることは
消えなかった、忘れなかった。

だから、ずっと
その世界のそばに、居続けた。

大好きな、役者さんが出演する舞台を
何度も観劇しに行った。

舞台制作、劇場運営
アシスタントディレクター
アシスタントプロデューサー
振付師

・・・出演すること、以外の
舞台に関わる仕事を
転々とした。

でも、立つ場所を変えても
ここがいい、と満足できる場所は無くて

やっぱり、舞台上の
出演者という場所が、最も好きで
最も望んでいる場所らしい
ということが
分かるだけだった。

客席で鑑賞する、という楽しみ方は
自分の演劇の楽しみ方じゃなかった。

自分にとっての演劇の楽しみ方は
舞台上で、表現するという楽しみ方。


長らく、抱えていた
演劇、舞台に対する、悶々とした
思いを言葉にすると
そんな感じ。


抱えている思いは
ずっと、変わらないけれど

意識、思考は、在り方、行動は
変わっているから
今回、3月10日の観劇は
感じ方が、全然、違った。

観劇して、気づくこと、感じることが
新しいものばかりだった。

「観客じゃなく演者がいい」という願望は
変わらないのだけど。


粛々と運針

舞台『粛々と運針』

お目当ては、主演の加藤シゲアキくん。

体を壊して
仕事を辞めて
人生に絶望して
死にたい、と、考え続けていた毎日から

彼の笑顔と存在が

死にたい、と、考えなくなる毎日に
運んでくれた。

図らず、勝手に、命の恩人(*^_^*)

いつか、逢いたい
この目で、直接、姿を見て
この耳で、直接、声を聴いて
この体で、彼のエネルギーを感じてみたい

そう願って、その機会を、待ってた。

だから、厳密には
目的は、観劇じゃなく
彼に逢うことだった。

願ってから、この日まで
いくつもの奇跡を受け取って
漸く、辿り着いて

目の前に、彼が、現れた。

願望実現、成就、現実創造の瞬間
体が、ブルブル震えた。

待ち望んだその瞬間
わたしという物質的存在が
お祭り騒ぎ。

彼の存在
彼との出逢いを
最高レベルで味わうために

視覚、聴覚をはじめとする
すべての感覚のボリュームを
最大値まで跳ね上げた。

意志による
自分史上最高の「今ここ」に立つ
だった。


あんなに、今ここ、この瞬間に
集中したことは、多分、ない。

知識として
「今ここ、が、大切だよ」
「今ここ、に、全て在るよ」
ということは、知っていて

頭で、思考では
それをしようと努力していたけど

正真正銘の、それをやったら

これまで、やってると思ってた
「今ここ」という在り方は
ぜんぜん、それじゃなかったと気づいた。

なんでかって
体感が、全然、違ったから。

軽やかに生きたいと思うがゆえに
わたしは、ふわふわしてた。

ふわふわすることが
軽やかに生きること、ではないのにね。

ホンモノの「今ここ」は
驚くほど、重かった。

重力、引力が
十倍くらいに、感じられた。

いや、今まで、それを
感じてなかったのかもしれない。

ちゃんと、生きてるつもりだったけど
魂が半分抜けて、宙に浮いてるような
そんな浮ついた状態で
長い時間、生きてたみたいだ。

半分抜けてた魂が
今ここ、この場所に
ズン!!と引っ張り降ろされて
ズドン!!と、急に
自分の心と体の重さを感じた。

何だこれ、と思った。

感受性豊か、とか
繊細で、傷つきやすい、とか
感じやすい、とか
色々な表現手段で
自分の感性について語ってたけど

いやいやいや

なんか、それ、違ったな
誤解だったな

と、今は、思う。

感じる、という能力の
捉え方も、扱い方も、間違えていたな

と、思う。


彼の存在を認識してから
この日まで、ずっと
何かを通して、見てた。

ドラマ、ライブDVD、雑誌、写真
ラジオ、小説、文章、・・・
NEWS、アイドル、俳優、小説家、・・・

それらを通してでも
彼の魅力とか、人と成り、エネルギーを
感じられている、と
思ってた。


だけど、実際に、同じ空間に存在して
感じてみたら
全然、違う感覚を受け取った。

人間としての、彼、加藤成亮を
感じて

熱くて、重かった。

人生、命を持った存在としての
彼を認識した時

ガツン!と来た。

ふわふわしてた、自分の魂が
ズン!と体に引き戻された瞬間が
この時。

背、高いなー
体つき、ガッシリしてるなー
やっぱり、麗しいなー、とか
思うところは、色々あったけど

生きてる存在としての彼を
ズシン!と感じて
その重みで動けなくなって
今ここにロックオンされて
時が止まったみたいだった。


不思議だと思ったのが

彼は、役を演じているはずなのに
ちゃんと、そのキャラクターとして
物語の中に居るのに

ずっと、人間、加藤成亮が
視えてる

ということ。

演技って、演劇って
自分じゃない何者かに変身して
ここじゃない別世界を生きる
・・・そういうものじゃなかったっけ??

普段の自分じゃない
他者を演じているはずなのに
リアルな自分が存在していて

日常の世界じゃない
架空の世界に居るはずなのに
リアルな今に存在してる。

同じ物語でも
ドラマや映画では
そんな風に感じないのに

ナマの、LIVEパフォーマンスだから
なのか
演劇、という世界だから
なのか
分からないけど

フィクションとノンフィクションが
並行して、進行しているのを感じて

不思議、奇妙、マジカルな
体感の中に居た。

彼の人生や
彼の思考や感情が
透けて視えたわけじゃないけど

彼が持ってるものを
エネルギー、粒子、として感じた。


今、観劇していた時の
彼を、この目で視て体感した時の感覚を
言葉にしているけれど
全然、うまく書けてる気がしない。

難解だもん。

超絶シンプルに表現するなら

「重」「熱」

そして

「好き」

彼の、生き方、在り方、今のエネルギーが
好きだな、と思った。

すごくすごく思うのは
「直接逢う」という選択をして
良かった、ということ。


彼の、実在エネルギーを体感した後
今までのように
NEWSの楽曲を聴いたり
雑誌を見たり
ラジオを聴いても
「これじゃない」と感じるようになってしまった。

ホンモノのエネルギーは
これじゃない、って

間に、何か、媒体を挟むと
こんなに変わるんだ、と、愕然。

これまでみたいに楽しみたいのに
あれ?って感じて
満足できない・・・
ちょっと怒り(笑)

困るよ、これ(笑)


ホンモノを体感したら
ホンモノじゃないものでは
満足できない。

似たもの、は、ニセモノ、と
思ってしまう。


お母さんが、死んで
その遺体の前に立った時
「お母さんは、もう、ここに居ない」
ということを、痛いほど強く、感じて
抜け殻の体に縋る気には
全くならなかった。

お葬式とか、お墓とか、お盆参りとか
もう、ここに居ないのに、って思った。

もう、ここに居ないから
泣いて縋っても
逢いたいと叫んでも
行かないでと望んでも
全部全部、意味がない、って。

魂が入っている、生きた体と
魂が抜けた、死んだ体は

当たり前だけど
体感が、全然、違う。

「その人」って、結局のところ
「魂」なんだな、と思う。

体は、この世界で生きるための
一時的な借りもので
その人の、存在そのものじゃない。
名前も、然り。

だけど、この世界で生きる時に
体を授かって
名前を持って
その「人物」を生きる。

「生きること」は
授かった体と名前を持って
「その人物を演じること」だと感じる。

だから

演劇を見て、演技を見て
その人のリアルを、感じたのかなと思う。

今、認識している、目の前の人
=他者の、キャラクターは
今回の人生限りのもので
その人の本質、魂そのものじゃない。

演劇を見ると
その事実、真実を
思い出すのかもしれない。

演劇という世界では
自分ではない他者を演じることが
本分で、醍醐味だけど

実際の人生では
自分ではない、何者かを演じている
場合じゃない。

「ありのままに生きろ」は

「今の自分を、存分に演じろ」だ。


みんなと同じになろう、とか
憧れのあの人になろう、とか
もっと、素晴らしくなろう、とか
もっと、優秀になろう、とか
正しく生きよう、とか
間違えないようにしよう、とか

そういう考えは
要らない、要らない
本当に、要らない。

「今の自分」という配役があるのに
他の役を演じてどうする(笑)

物語が、ヘンなことになるのは
簡単に想像できる(笑)


観劇して、後、思うのは

自分を、演(や)ろう

って、こと。


自分というキャラクターを
完璧に把握しているわけじゃないけど
心が、体が、起こる出来事が
そのヒントをくれる。


正解も、真実も
自分の中にしか、ない。


外側の世界で、正解を探そうとしたって
見つからない。

外側の世界では
他人の正解しか見つからない。

他人の正解を見て
それを自分の正解として生きても
うまく事は運ばない。

自分だけの正解の道しか
うまく進めないように、なってる。


だから、自分らしい生き方を
外側の世界で探さない。

あの人みたいになれない、出来ない、って
そりゃそうだ。

あの人は、自分じゃないもの。

自分にしかなれない自分
自分にしか出来ないこと
自分にしか歩けない道が、在る。


今回の、観劇、出逢い、旅について
書けること、書きたいことは
まだまだあるけど

お腹が空いたので、ここまで(笑)


シゲくんに逢いに行くことに関しては
自分の中にあるカケラが
どんなものなのか観に行くんだ♪
って、うきうきしてたのに

そんな浮足は、見事に
地面にめり込んだ(笑)

また、死から生に、引き戻されたなぁ
やっぱり、命の恩人だなぁ
と、思う。


舞台、物語では
桜の花が舞っていて
それを見た時

桜の花みたいに

誰の為でもなく
何かの為でもなく
自分の為ですらなく

ただ、美しく咲きたい

と、思った。


ただ、咲きたい


今の願い。


画像2


桜舞



読んで頂き有り難うございます😊 わたしが見たもの・感じたこと・考えたことについて、思いつくままに書いています。めっちゃWonderな地球暮らし、わたしもあなたもFantasista!ここにある言葉たちが、人生を楽しむヒントになれば嬉しいです☆