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90年代のDA PUMPについて

DA PUMPは、1990年代後半にデビューした日本の男性アイドルグループm.c.A・Tの楽曲と同様にキャッチーなメロディーの歌唱を基本としながら、ラップも織り交ぜて歌うスタイルが特徴である。

●デビュー前
初期メンバー4人は全員、安室奈美恵やSPEEDでよく知られている沖縄アクターズスクール出身で全体的に女子生徒の数が多く、男子生徒の割合が少ない。1993年、一番最初に養成所に入学したのが玉城幸也だった。女子生徒の中で唯一の男子生徒として在籍していた。その後、奥本 健が入学し、スクール内で数少ない男子学生だったことから意気投合し、仲良くなる。

●KEN&YUKINARI 

デビュー前、知念里奈のバックダンサーを務める玉城幸也と奥本 健

1996年、玉城幸也と奥本 健が「KEN&YUKINARI」というデュオを結成。
養成所の先輩である知念里奈のバックダンサーを務めたり、2人で他のアーティストたちの曲をカバーしたりしながら活動をしていました。 それからしばらくして宮良 忍が沖縄アクターズスクールに入学してきて3人組となる。男子生徒が3人で踊っている様子を見ていたマキノ校長は「君たち、ダンスは上手だけど歌を歌える子はいないの?ダンスに歌が加わればもっと面白いと思うよ」というアドバイスをした。そこで玉城、奥本、宮良の3人は歌が歌えるボーカルを探すことになる。

●KOOZ

4人体制となって初のパフォーマンスを披露 

ボーカルを探していた3人だったが、そのような状況の中で1995年にMAX、1996年にSPEED、知念里奈、D&Dなどがデビューした後、再び沖縄アクターズスクールに男子生徒として邊士名一茶が入学してきた。邊土名は養成所に入学する前に沖縄市でエクスペルギャングというストリートダンスのチームを組んで活動していたことがあり、久しぶりに男子生徒が入ってきたということやダンス好きという3人と共通する部分もあったのですぐ仲良くなる。さらにダンスだけでなく、歌も上手かったことから邊士名一茶がボーカル担当となった。もしこのときに一茶が入学していなければ、ボーカルは女性で(女子生徒の中から選ばれていた)男女混成グループになっていた、或いは、デビューはできなかったとされている。4人組となった彼らはバックダンサーからダンスユニットという形で昇格され「KOOZ」という名前で活動することになり、メンバーの名前もISSA、KEN、YUKINARI、SHINOBUと英語表記にした。一茶は養成所に入学して3ヶ月でメンバーに加入、ボーカル担当、テレビ出演をするなどの経験をした。

●Billy The Kids 

デビュー前のテレビ出演

「KOOZ」という名前で活動した1ヵ月後に「Billy The Kids」と改名する。
グループ名は沖縄アクターズスクールの校長であるマキノ正幸が「お前たちはビリっけつだ!」という意味で命名したもので、アメリカ合衆国・西部開拓時代のアウトロー(強盗)であるビリー・ザ・キッドにもかけている。

デビュー前のレッスン風景 / 1996年5月「ルックルックこんにちは」で取材された

デビュー前から沖縄アクターズスクール初の男性ユニットとしてメディアで紹介され、Zepp OsakaとZepp Nagoyaでライブツアーも行っている。現在の日本の男性アイドルやK-POPアイドルとは違い、所属事務所から選ばれたメンバー構成ではなく、養成所から選抜された生徒によって結成されたグループであることも当時は珍しいことだった。また事務所にはダンススタジオやレコーディングスタジオといった部屋がなかったため、メンバーたちは自分たちが住んでいた自宅や別のスタジオ・場所等を借りて練習していたという。

●DA PUMP 

デビューシングルのジャケット 

1997年6月、グループ名を「DA PUMP」と改名する。
当初は1997年の7月にデビューする予定だったが、レコード会社の事情で予定日よりも1ヶ月早い、6月にデビューした。1stシングル「Feelin' Good -It's PARADISE-」は、m.c.A・Tこと富樫明生の13枚目のシングル¨Feelin' Good 〜恋はパラダイス〜¨のカバー曲。アーティスト的なイメージを持たれることも多いが、デビューしたときはメンバーの平均年齢が17.5歳で自ら作詞・作曲などの自己プロデュースもしていなかったため(ただし振り付けは自分たちで考案していた)、アイドルに分類された。

4枚目のシングル「ごきげんだぜっ! 〜Nothing But Something〜」での活動時

所属事務所である平 哲夫氏は彼らを売り出すことには全然、苦しくなかったようで、4人のダンスとISSAの歌声を聴いて「この子たちは間違いなく売れる!」と確信したという。本来のアイドルグループとは異なり、「ヒップホップコンセプトのアイドルグループ」・「ボーカル・ダンス・ラップ・コーラスなどの分かれた構成」・「ストリートダンスを取り入れたパフォーマンス」・「R&Bやダンスミュージックを取り入れた楽曲」でジャニーズ系との差別化に成功した。

全盛期当時のテレビ番組出演シーン

バラエティ・音楽番組・CM・映画・ラジオなどにも多数出演。1stアルバムが累計で70万枚を売り上げ、3rdアルバムではシングル・アルバムを通じ初のオリコン1位を獲得、初のベストアルバム「Da Best of Da Pump」が128万枚のミリオンセラーを記録。さらにレギュラー番組を持つなど新たな新境地を確立し、「非ジャニーズ系の男性アイドルで初めて成功したグループ」という評価を受け、大人気を得た。

●メンバー

デビュー初期のDA PUMP 

・ISSA = カリスマリーダー・ボーカル 
・KEN =クール・男性らしさ 
・YUKINARI = かわいい 
・SHINOBU = 末っ子 
DA PUMPの4人は非常にハンサムでルックスが優れていることで有名だった。1人1人に個性があり、メンバー構成もバランスよく成し遂げた。

●デビュー秘話

デビューする前とデビューした後の衣装の違い  

・デビュー曲
1stシングル「Feelin' Good -It's PARADISE-」ではISSAとKENにソロのラップパートが与えられているが、もともとこのラップパートはKENが1人で歌っていた。しかし、練習生時代に原曲であるm.c.A・Tの¨Feelin' Good - 恋はパラダイス -¨でレッスンをしていた際にKENが言葉を噛んでしまったり、歌詞を忘れてしまったり、1人でラップをこなすのが困難だったため当時、沖縄アクターズスクールの指導役だった牧野アンナが「KEN1人だけでは苦しそうだからISSAとの掛け合いにした方が良い」と判断して、ラップパートを2人に変更したという。またデビュー前にm.c.A・T(富樫明生)や他の作曲家から10曲ほどのオリジナル曲を提供されていたが、その中で7曲が方向性が違うという理由でボツになった。その際にライジングプロダクションの平 社長は「いきなりオリジナル曲で勝負するのは難しいかもしれない」と考えており、残った3曲の中の1曲にm.c.A・TのFeelin' Good 〜恋はパラダイスがあったので最初はm.c.A・Tのネームバリューを借りる形であえてカバー曲を1stシングルに選抜したという。

・デビュー前のISSA

デビュー前、沖縄のテレビ番組でパフォーマンスを披露する邊土名一茶(1996年)

沖縄アクターズスクール時代、ISSAはごく普通の男子中高生のような低い歌声だったが、ライジングプロダクションの平 社長から「そんな声じゃレコード(CD)は出せないぞ!」という助言を受け、後に彼らのプロデューサーとなる富樫明生から歌い方も含めて多くの影響を受け、歌唱力を鍛えた。

・衣装 
デビューする前の練習生時代は、メンバーの衣装がそれぞれバラバラであったが、DA PUMPという名前になったときにメンバー全員がスーツを着用するようになった。これはKENのアイデアが採用されたものである。KENは工業高校の服飾デザイン科出身であり、ファッションにも関心があったことから「僕たちはHIP HOPコンセプトのアイドルグループということですが、ヒップホップ系のファッションで踊ると全体的にだらしなく見えてしまう(イメージが悪い)こともあるので、スーツを着て踊った方が見栄えが良いのではないか?」という意見からメンバーが自分たちで衣装を決めてスーツ姿でデビューしたという。

・楽曲
練習生時代は基本的に他のアーティストの楽曲を歌っており、久保田利伸、TRF、バブルガムブラザーズ、B☆KOOLなどの曲をカバーしていた。沖縄アクターズスクールに在籍していた頃、作曲家からオリジナルの楽曲を3~4曲ほど提供されたことがあるが、ライジングプロダクションの平 哲夫社長やメンバー本人たちも「自分たちに合わない曲だ」と判断して没になってしまった。その後、いろんなアーティストの楽曲を使ってレッスンしている中でm.c.A・Tの楽曲に出会い、「Oh! My Precious!」・「Thunder Party」・「SUPER HAPPY」に加え、後にデビュー曲となる「Feelin'Good~恋はパラダイス~」などをカバーするようになり、それがデビューのきっかけとなった。

●SMAPとライバル構図だった

SMAP(1996年) / DA PUMP(1998年) 

元々、DA PUMPはSMAPをお手本に作られた男性グループである。
デビュー初期は「SMAPの対抗馬」と考えられており、1990年代後半に男性アイドルとして全盛期を経験したという共通点があった。1980年代後半からアイドル冬の時代を迎え、アイドル人気が下火となっていた状況の中でジャニーズ事務所からデビューしたSMAPがブレイク。更にTOKIO、KinKi Kids、V6など後続グループもデビューし、活躍を広げた。ライジングプロダクションはこのジャニーズ人気を見て「アイドルが売れない中、男性アイドルの人気が復活してきた。うちの事務所も今のうちに男性グループを売り出そう!」と男性アイドルのプロデュースに力を入れるようになった。

レギュラー番組でコントを披露するDA PUMP

実際にDA PUMPはSMAPの人気絶頂期だった1996年に結成されていて、バラエティ・ドラマ・映画・CM・ラジオなどSMAPのやり方をベンチマークした。レギュラー番組「DA!DA!DA!PUMP!」は、SMAPのレギュラー番組「SMAP×SMAP」をお手本にしたものでスマスマと同様、自分たちのグループ名を番組のタイトルに付けていた(パパパパパフィーに似ているという意見もある)。さらにDA PUMPメンバーたちもSMAPファン(スマヲタ)であり、学生時代に「夢がMORI MORI」や「愛ラブSMAP!」を視聴していたという。特にリーダーのISSAは木村拓哉のファンで木村が出演していたドラマ「ロングバケーションが一番好き」だと明かし、YUKINARIは「紅白歌合戦に初出場したときSMAPに会えて嬉しかった」と発言したことがある。

●ジャニーズとの共演について

ミュージックステーション初出演 / 長瀬智也(TOKIO)と共演  

1990年代当時、ジャニーズ系との共演はNGという噂が出ていたが実際にそのような証拠はなかった。4人時代のメンバーだった玉城幸也(YUKINARI)は後年のインタビューで、「ジャニーズさんとの接触はNGなどと言われていましたが、あったとしても僕らが知るところではなかった。店で食事をしていた際、たまたまTOKIOの松岡昌宏さんと遭遇し、そのまま合流したりしてましたから(笑)。紅白に出場した際も、舞台裏でSMAPさんと一緒にダンスを踊ったり、普通に接していただいた。」と語っている。また全盛期の頃は、多忙なスケジュールだったため、ジャニーズに限らず女性アイドルや他のアーティスト、タレントとは番組で共演することはあっても実際に交流すること自体はほとんど出来なかったという。4人組の頃、「芸能界で唯一、交流があるのは和田アキ子さんしかいません」とよくバラエティで言ってましたね。

●ミュージックステーション 

1986年からテレビ朝日で生放送されている音楽番組

1997年、ライジングプロダクションの平 哲夫氏がDA PUMPをデビューさせるときに男性アイドル同士の競合を避けるためにジャニーズ事務所へ赴き、「ジャニーズ事務所さんのタレントさんたちが出演している番組にはDA PUMPは出演しません。」と約束を交わしていました。当時、ライジングプロは所属しているアイドルたちを¨アーティスト的なイメージで売り出す¨という意向があったため、メディア露出を控える傾向がありました。さらに彼らがデビューした1990年代後半は、ヴィジュアル系バンドが全盛の時代でした。「アイドル冬の時代」と言われ、アイドル人気が下火となった代わりにX JAPAN、LUNA SEA、L'Arc〜en〜Ciel、GLAYといったヴィジュアル系バンドに人気が集中しました。

90年代に活躍したヴィジュアル系バンド

彼らは派手な外見と華やかなステージで若い女性ファンを中心に人気を博し、アーティストとアイドルの両方の側面を持っているため事実上、男性アイドルのポジションを埋めるような役割を果たしていました。全体的に男性アイドル自体の数が少ないこともあり、それならばジャニーズの他にバンドが出演することで自然と女性視聴者(女性ファン)も増え、視聴率が取れるので番組としては成立していたのです。 つまりMステ側から「DA PUMPは番組に出るな!」という命令があったのではなく、所属事務所の方針で自らミュージックステーションへの出演を自粛していたということだったのです。

第51回NHK紅白歌合戦 出演時

また、当時の新人アーティストたちの目標は「紅白歌合戦に出場すること」でした。1990年代は紅白に出場すれば世間から「売れた歌手」として認められるという風潮があり、子供からお年寄りまでいろんな層の人が視聴するので、「視聴者層が10代~20代までの中高生や若者が中心」であるミュージックステーションよりも影響力が大きい番組だったことが理由です。DA PUMPはその「NHK紅白歌合戦」に5年連続出場し、高視聴率を獲得していたので十分な活躍を果たしたと言えるでしょう。

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