見出し画像

生存と繁殖の先に何があるのか?(人生の意味への問い)

記事の要約

人間社会は非常に複雑ですが、社会が存続するためには生殖活動が行われ、新たな個体がこの世界に参入し続けなくてはならないという事実があります。

社会や共同体でルールが定められている理由は、人々が平和に暮らすため、言い換えれば人々の「生存」と「繁殖」のためなのです。

では、人類が生存し、繁殖した先には何があるのでしょうか?... 

しかしそもそも、このような問いを立てること自体が、生物学的には「バグ」であるように僕には思われるのです。というのも、「生存と生殖」を円滑に行うことができるように言葉を用いて合理的な推論ができるように私たち人類は進化してきたわけで、その推論能力が「暴走」した結果、「人生とは何か?」というメタ的な問いを立てていると言えるからです。(要約終わり)

1. 生殖=再生産という生物学的事実

人間は、「生存」と「生殖」のために生きている !?


今まで身に着けてきた様々な偏見や学習してきたことを排してよくよく考えてみると、人間というものは、動物である以上、子どもを残して死ぬだけじゃないの、と思うのです。

「他の人ために生きるんだよ」とか「社会をよくするために生きるんだよ」と親や先生に言われてきた気がしますが、じゃあ一体どうして他者に尽くすべきのでしょうか。

結局、それは将来の世代子孫の繁栄のためになるからでは?

「幸せになるために生きる」というのも、「みんなで協力しながら生存を続ける」ということが前提とされています。なぜなら、安心して暮らすことができるということが保障されていないような状況では、「より幸せになるために生きる」という発想にそもそもならないはずだからです。

以上のように考えると、人間は、「生存」と「生殖」のために生きていると言えるのではないでしょうか!?

この私の「人生の意味」は、命を繋ぎ社会を存続させること?

僕が疑問に思うのは、そのように「命をつないでいくことの意味はなんなの?ということなのです。
僕がめっちゃ頑張って毎日生きる「目的」が、めっちゃ頑張って生きる人(僕の子ども)を数人増やすこと。その様にして生まれた子どもたちも、めっちゃ頑張って生きる人(僕の孫たち)を増やすために頑張るために生きる…

この私の「人生の意味」は、命を繋ぎ社会を存続させるためにあるのでしょうか?

この時点で「そんな問いを立てること自体、生命に対する冒瀆だ!」みたいに憤慨する人もいるんだろうな~と思いつつも、このnoteでは、この「生殖=再生産の生物学的事実(biological fact of reproduction)」について検討し用と思います。

事実と思想は、はっきりと区別しなければならないでしょう。事実(fact)というのは、誰がどのように認識しようとも同じように捉えられるものだからです。例えば、僕やあなたが生きているということは事実です。
一方思想(idea)は、ある特定の価値観を現している言葉のまとまりです。思想は、各個人ごとにその認識が異なります。例えば、僕は人生の意味を否定的に捉えていますが、一方で肯定的に捉える人もいるでしょう。
生きているということ自体は認識に関わりなく事実であるはずです。また人が生殖活動をし、子どもが生まれ続けることによって人類社会が営まれているということも事実なはずです。
今回のnoteは、「事実」を受け止めたうえで、どのように捉える
いい/悪いという価値判断、こうすべき/すべきという道徳判断は事実に関する言明とは異なるんだぜということを、ぜひ押さえておいてください。
事実と思想の区別については、また別の記事を書くこととします。)

2. 社会制度や倫理は何のためにあるのか?

人々が平和に共存するためのルールが社会制度と倫理(道徳)

社会制度や倫理(道徳)というのは、人々が平和に暮らすためにあるということができます。
法や集団内のルールのような、「~すべき」という命題の形で記述されたものを、規範(norm)と呼ばれます。

規範は、僕たち人間が自分とは異なる価値観を有する他者とも協力して生きていくために(少なくとも殴り合いをせずに生きるために)生み出したものに他ならない、と僕は考えています。この考えには、いくつかの根拠があります。

画像6
狩猟採集時代のイメージ

いま、生物学や心理学、脳神経科学等の経験科学によって、ヒト(ホモ・サピエンス)は生得的に利他的(altruistic)であることが明らかになってきました。
つまり、人間は、利他的、道徳的に振る舞うように、ある程度生まれつきなっているというわけです。

ヒトは、数百万年前の狩猟採集の時代から群れ(group)で暮らしています。
狩猟採集時代は、100人前後のゆるやかな血縁・地縁関係で結ばれた集団だったそうです。
群れで暮らすということは、みんなで協力して狩りをしたり、子育てをしたりしていたということです。
その頃は、サボってる個体や周りに危害を加える個体には、制裁(sanction)が加えられていたのです。

僕たちは人間は、「生きたい」「子どもを安全に育てたい」「他人を助けたい」と感じてきた個体の子孫です。
そう思わない(思えない)ほとんどの個体は、集団から排除され、子孫を残せずに命を終える運命にあったからです。
「利他的な性質」に関係する遺伝子を持つ個体が、子孫を残しやすかったのです

やがて集団が大きくなり、言葉を操るようになると、明文化された規範(ルール)が登場することになります。
すると、外側にあったルールを内面化することで社会的に望ましいとされる「倫理(ethic)」や「道徳(moral)」を身に着けるよう、子どもは大人に「教育」されるようになります。
望ましいとされる価値観や行動パターンは、地域や時代ごとに様々なバリエーションがあることは、歴史の教科書が教えてくれますよね。
歴史の教科書以外にも、教室の前に掲示してあるような標語や公共の場所での注意書きの看板のようなものを思い出していただければ、と思います。

人生という事実を単純に捉えると…

したがって、人類が一生懸命社会をよりよいものにしようと生きてきた、今まさに生きている、これからも生きていくであろう、この「生」という出来事の意味を単純を捉えると以下のようになります。
すなわち、「生きること=生存」と「子どもを生み育てること=繁殖」を、安全に、持続的にみんなで協力して行っていくことです

3. バグとしての問い

「何のための人生?」とか「なんのための社会?」ということを、生物学的な事実をヒントに考えてみたら、人類の目的が「生存」と「繁殖」だということが判明しました。

聖書の中でも、「産めよ、増やせよ、地に満ちよ」と書かれてますしね(創世記第9章)。

人類(いま現存しているあらゆる生命体)は、遠い昔から命を繋いできたのであり、これからも繋いでいくでしょう。

画像6
幸せな家庭のイメージ

さて、このnoteで僕が一番問いたいのは、「生命のバトンをつないでいくことに何の意味があるの?」ということです。

長生きしようがしまいが、子どもをつくろうとつくらなかろうと、みんな死んでしまいます。自分の子どもたちも死すべき運命にあります。
とするならば、そこまで「生きるぞ!」みたいに頑張る(我を張る)モチベーションがどこから生まれるのでしょうか。

おそらく大半の人は、「素朴に」人生をやり過ごしているのでしょう。
「まぁ別にそんな考える必要ないっしょ~」とか、「生命の神秘だから考えても仕方ない」とか、「ご飯食べてディズニー行って楽しいからOK」みたいに、「素朴に」生を肯定しているのでしょう。

画像6
満足しているイメージ

ヒトの中で一部、「問いを立て続ける」僕みたいな変人がいる。

そのように「何のために?」を問い続けることは、推論のバグと言えるのではないかと思うのです...
なぜなら、生存のためにヒトは賢くなってきたのですから

ヒトが考えられる脳を持っているのは、自分が生き延びる方法や家族をつくって育てていくための方法、仲間で協力して生きていくための方法を考えるためでしょう。単純に言えば、脳とは、私たちを生かすための器官なわけです。

つまり、「生きること」や「子どもをもうけること」のために感情が生じたり、理性的な思考ができるようになったりしているわけです。

なので、「生きる必要ある?」みたいに問うてしまうのは本当はおかしいわけです。
強いて言えば、「よりよく生きるために」、自分の人生の意味をとらえ直すために「生きる必要ある?」と問う場合は、ある意味で「生きるためにそのように問うている」と言えるかもしれません。

でも、僕は「何のための人生か?」と問うてしまうんです。「よりよく生きる」ためではなく、心のうちから問わずにはいられない──「こんな人生意味があるのか?」、と。

とはいえそのようなネガティブな思考も、「生きながら」行っているわけです…

「人生の意味とは何か?」という、「バグった問い」を持つ「バグった人」が取れる選択

バグった人が取れる選択肢は、極端なものも含めて大きく5つあると僕は考えます。

1つ目は、自殺することです。僕は自死を、生存しろ!と遺伝子によって命令された運命から解放されるための選択肢として考えてもいいと思っています。(今後積極的な安楽死について考えたいと思っています...)

2つ目は、何らかの宗教や世界観を自分の精神的土台として採用することです。
たくさんの選択肢を比較考量して考えるよりも、「これだけやればOK」と言われたほうが安心する人ってけっこういませんか?
「お金を稼ぐ!」とか「褒められたい!」とか「健康でいたい!」とか何でもいいんですけど、一つの軸を自分事にするのが、良くも悪くも精神の支えになるのではないでしょうか。

画像6
自分の人生を意味づけてくれる何かを崇拝するイメージ

3つ目は、苦悩しながら問いと向き合い続けること、すなわち「これ(人生)に意味があるのか」という問いを保持し続けることです。
この選択肢は苦しいけれども、実はまぁまぁ多くの人が採用しているものだと、僕には思われます。

4つ目は、人生を楽しむ技術(テクネー)を身に着けることです。
人生がおもしろくないのは、面白く感じるための技術がないからなのではないでしょうか。
ゲーム(人生)を楽しめないのは、ゲームのルールを知らないことやゲームのノリにハマれないからかもしれません。
趣味とか、何かにやりがいを持つというのは、人生を楽しめる技術(テクネ―)を持っていることと言えそうです。

画像6
何かに打ち込み、楽しんでいる人のイメージ

5つ目は、日常を受け入れて生きていくことです。
日常を繰り返すことを愛するのです。
最後に死が待ち受けているとしても、結局は淡々と日々を過ごしてゆくより他はないからです。

画像6
日常生活を支える人のイメージ

思考の材料

参考文献

一ノ瀬正樹『英米哲学入門』、筑摩書房、2018年 
「事実」と「規範」についての微妙な関係について、解説された本。

亀田達也『モラルの起源』、岩波新書、2017年 (2章の記述は、特に本書を参照しました)

リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子 40周年記念版』紀伊国屋書店、2018年
「人間とは“遺伝子の乗り物”のようなものだ」という衝撃の表現!人生の意味や価値観を揺さぶる本。

佐藤岳詩『メタ倫理学入門』、勁草書房、2017年

長谷川眞理子、長谷川寿一『進化と人間行動』、放送大学教育振興会、2007年

深川宏樹「身体とサブスタンス」、前川啓治他『21世紀の文化人類学』、新曜社、2018年

他に参考にしたもの


生物が生きる目的を、自己保存ではなく時間と共に在り続ける事自体に見出すと、淘汰される個体にも救いが生じるということ https://togetter.com/li/1035488

キタニタツヤというアーティストの曲

それでも僕らの呼吸は止まない

クラブ・アンリアリティ


最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

この記事が参加している募集

私のイチオシ

記事をお読みいただきありがとうございます。いただいたサポートは、YouTubeの活動費や書籍の購入代として使わせていただきます。