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「人生に意味があるのか」という問いに向き合うための、2つのアプローチ

記事の要約

人生の意味について、どのように考えるべきなのでしょうか。究極的には「個人の人生の意味」が問題になってくるのでしょうけど、まずは「一般的に生きる」ということがどういう事態なのかを考えることから始めようと思います。なぜなら、私たちはさしあたり他の人と同じように生きているからです。一般的な生について考えた後で、「自分の人生の意味」にアプローチしたほうがよいでしょう。

そもそも、人生の意味を問うてしまったのはなぜなのでしょうか。現代日本の構造上、人生の意味を考えざるを得なくなっているのではないかと筆者は考え、その理由を3つ挙げます。

人生の意味を考えるのにあたっては大きく2つの道があるように思われます。一つは、身体からの道、もう一つは言語からの道です。前者は生物学や脳科学といった自然科学的なアプローチ、後者は哲学や言語学といった人文学的なアプローチです。(要約終わり)


1. 人生には意味があるのか?

「人生には意味があるのか」

この問いについて長らく考えてきました。これは僕個人が保持してきた問いだけれど、少なからずこのような問いに向き合っている人は世の中に大勢いるんじゃないかなと思っています。そのような人たちに僕が考えてきたことを共有して一緒に考えていきたい!という思いから、noteに記事を書いていくことを決めました。

今回は、人生の意味をいきなり考え出すのではなくて、人生の意味を問わざるをえない理由と、人生の意味を探究するにあたっての方針を示そうと思います。

2. まずは一般的な人生について考えよう

人生の意味」について、古来より多くの人がいろんなことを好き勝手語ってきました。著名な哲学者や文豪のみならず、芸術家や有名人、はたまた僕みたいな一般人まで。このことを踏まえれば、「人生の意味への問い」というものには、様々なアプローチが可能ということがわかります。

僕個人としては、「人生の意味への問い」は「一般的に人生の意味はどのように捉えられるか」という問いと、「この私の人生の意味はどのように捉えられるか」という問いに分けたほうがいいんじゃないかなぁと思うんですね。

ちなみに哲学では、後者のような「オレの人生って何!?」みたいな問いを、実存的な問いと呼びます。

僕も、読者の皆さんも究極的に関心があるのは、自分の人生をいかに生きるべきかということだと思います。けれど、僕も皆さんも有象無象の大衆として「ふつー」に生きているわけだから、まずはそのふつーに生きるってどういうことかを明らかにしたいのです。

まずは一般的な人生というものを考えたい。その後で(パンピーの人生を意識的に分析した後で)、各々、自分の人生について考えていく!こういう方向で考えていきましょう。キャー、とんでもなく壮大な計画です。

つまり、僕がこれから示すのはあくまで人生の一般論的解釈だから、最終的には読者の皆さん個人の解釈に委ねられることになります。

3. 人生の意味を、各人がキチンと考えないといけない時代になった

僕が想定する一般人は、現代の日本で生まれ育った、日本語が母語の日本人です。さて、そのような現代日本人は、大多数とは言わないまでも、一定数「生きるのダルくね、長生きしなくてもいいわ」みたいに漠然と考えている人がいると思うのです。

僕は、このような考えに至るのは、現代日本に育ったらある意味必然というか、必然とまではいかなくともまぁまぁの確率であることだと考えます。

現代日本人が人生の意味を問わざるを得ない理由を、大きく3つ挙げたいと思います。すなわち、

①積極的に生を肯定する強力な宗教や思想が根付いていないこと
②代替可能な役割に押し込まれていること
③望まない長寿により保守的な姿勢になっていること

この3つです。以下、それぞれ説明します。

3.1 生をまるごと肯定できているか?

まず、日本には積極的に生を肯定する強力な宗教や思想が根付いていないという点を指摘したいと思います。

宗教とか哲学と言われているものは、目に見えないし不確かだから一見見過ごされているけど、それら「考え方のまとまり」がその人の発言や行動の源泉になっているから、非常に重要なんです。

僕が問題にしたいのは、日本の思想というものが、どこか土台の部分が「否定から始めていて」、暗い雰囲気をまとっているじゃないかということです。

現代の日本人で「自分大好き!」と言う人はあまりいなくて、まず「他人ありき」である人が多いように思われます。つまり、他人や世間の評価から自分というものを見定める意識があまりに強いがために、自分を責めすぎている。

加えて、その責め方は、私が責任を引き受ける!という積極的なものではなく、否応なく、仕方なしに引き受けているという印象を受けます。

「自分が楽しんで生きる!」というスタンスよりも「他の人に迷惑をかけないように生きる」というスタンスの人が多いがために、結果としてネガティブチェックな生き方になっているのではないでしょうか。

もちろん他者と協力して生きるという姿勢は重要なのですが、自立した個人同士が協力するというよりも、「他人に合わせて否応なく」協力しているように僕には思われるのです。

一方、積極的に生を肯定する思想としてキリスト教を例にして考えてみましょう。めちゃくちゃざっくりキリスト教の信仰を捉えると、「神様と私は愛しあってます♡」ということなんですね。

誰かを愛するということは、そもそも愛される対象が存在していることを認めている、つまり存在承認があって初めてできることです。

善いところも悪いところも有する人間の存在を丸ごと認めるキリスト教が精神文化の土台にあるヨーロッパ諸国やアメリカでは、神様と私個人の関係が出発点だから「個人主義」になります。無神論者が昔より増えているとしても、文化の土台が「自立した個人」を要請するようになっている。

隣人愛は、神様が愛してくれたように、私も他の人のことを愛そう!ということなんです。自立しているという姿勢が、出発点なんです。

簡潔にまとめようとしましたが、少し長くなりました。日本人の宗教観や思想については、また別の記事で詳しく書こうと思います。

ひとまず、以下のことを押さえてもらえばOKです。すなわち、日々過ごす中で辛くなった時に、「そんなこともあるよ」「悩んでてもいいんだよ」みたいに自分を認められる精神的風土になっていないから、「人生って何?」と問いたくなるのではないかということです。これは、安易に宗教に頼れない、頼るのはちょっと...という日本人の心情も関係していると思います。(ちなみに僕はバチバチの無神論者です。)

3.2 代替可能な役割に押し込まれている

現代日本人として生きるということは、ある程度「代替可能な人」であることが求められます。代替可能な人というのは、「誰がやっても同じ考え方や行動をする人である」ということです。

すると、「自分じゃなくてよくない?私の人生って一体...」みたいなお決まりの負の思考のループに陥ってしまう人も出てくるでしょう。つまり、誰でもやれることを自分がやる必要があるのかという疑問があると、どこか倦怠感に苛まれてくるわけですね。

以下では、そのようなネガティブ思考に至る要因を2つ指摘したいと思います。1つ目は、社会的な要因、2つ目は、生物学的な要因です。

3.2.1 「社会の歯車」ではないかという感覚

現代日本に生きるにあたって、私たちは組織に「所属」しなければなりません。例えば、私たちは「◯年◯組の〜です」とか、「株式会社◯◯、△△部の〜です」みたいに自己紹介しますよね。この自己紹介は、改めて見てみると所属、地位を紹介しているのであって、名前はオマケみたいな印象を受けます。

社会的な役割や所属している人は、そのポストにふさわしい人が他にもいれば代替可能な存在と言うことができます。別にその人である必然性はない。この代替可能という性質には、よい側面と悪い側面があります。

メリットは、人の管理が効率化されること、ちゃんとした組織に所属していれば相手に信用してもらえることなどが考えられます。

一方で、デメリットとしては、自分のことを「社会の歯車」だと思うかもしれないということです。ただ単にそこに居合わせているだけで、「この自分」がやる必要ないのではないかという感覚です。

3.2.2 生物学事実から生まれる葛藤

私たちは動物ですから、なるべく長く生きて子供をたくさんもうけたいという本能的な欲求を持ちます。これは人類の全員(全個体)がそうだと断定しているのではありません。

けれど、人類のマジョリティーが異性愛者であり、生殖行動を行ってきたからこそ、社会が成立してきたのは事実として認めなければなりません。

そのような「生物学的事実」から、次のような考えに至る人が出てくるでしょう。すなわち、「あれっ、オレが生まれてきた意味って、子供つくるためだけじゃね?」という考え方です。

自分が生きている意味は、自分の祖先が何百万年も繰り返してきたのと同じように、子どもをつくることであり、それさえ果たせばお役御免、死が待っているだけじゃないか...。「この自分」として生きる意味がよくわからなくなってくる。

さらに、「地球上には既に多くの人間が暮らしているのだから、これ以上子孫を残す必要があるんだろうか。子どもが欲しい人がつくるのは構わないけれど、〈子どもをつくるのは絶対〉みたいな価値観を押し付けないでほしい」。

このように考える人も出てくるでしょう。

まとめると、私たちは生物学的に子どもをつくる役割を「担わされている」と同時に、別に考えようによっては子どもをつくる必要もないという状況にいるということです。

3.3 長寿による不安

日本人の寿命は延び続け、それに伴い退職後の時間が長くなっています。「人生100年」とも言われます。すると、そこまで長生きして何か意味があるのか、と思い煩う人も出てくるでしょう。

これは僕の意見(偏見)なのですが、現在高齢者の方は「生きてるだけで幸せ」と思う方が多いと思うのです。それには相応の理由があって、戦争を経験した、あるいは戦後の激しい時代を生き抜いてきたから、「どんなに苦しくても生き抜くんだ」という生への執着が強いのではないでしょうか。

一方、僕のような若い世代は、「どんなに苦しくても生きる」みたいには考えない。むしろ「人に迷惑をかけるくらいなら死んだほうがマシだ」とか、「病気で苦しんで死ぬよりは健康なまま、安楽死したい」と考えている人もいるように思われます。

長寿それ自体がネガティブというよりは、他人に介護をさせてしまうのが申し訳ないとか、病気で苦しむのは嫌だと感じるのでしょう。

また、長寿によって、資産形成をしなければなりません。ということは、若い時に「宵越しの金は持たない」みたいなスタンスではだめで、しっかりと、堅実に、コツコツと、収入の一部を貯蓄や投資に回す必要が出てきます。いつが終わりか(死ぬか)わからないわけですから、不安は募る一方です。遠い未来のために、いまガマンしないといけない泣

現在の学校教育では、ファイナンスや資産形成についてあまり学べませんから、自分から学ぶ必要があります。資産形成について馴染みがないことも、不安の原因でしょう。

まとめると、長寿によって、精神的、肉体的、金銭的な不安が生じるわけです。将来への漠然とした不安から、「人生への意味への問い」が生まれるのではないでしょうか。


4. 人生の意味を考えるための2つのアプローチ

前章では、現代日本人が人生の意味を問いたくなってくる理由を大きく3つ挙げました。僕が前章の議論を通して一番伝えたかったのは、現代日本の構造上、人生の意味に悩む人が出てこざるを得ないのではないかということです。

さて、本章ではどのように「人生の意味」を探っていくのかを示していきたいと思います。僕は「人生の意味」を考えるにあたって、「身体」と「言語」という2つの側面を見ていくべきだと提案します。

4.1 脳や身体の構造について知ろう!

まず、「身体」についてです。

意味があるかないか、意味を感じられるかどうかというのは、主観的に意識されることだけれど、その意識が生じているのは間違いなくあなたの身体」、特に「」なわけです。

人間の脳が現在のような機能を備えているのは、進化論的な背景があります。

つまり、私たちの心のメカニズムというものは、私たちの祖先が環境に適応するために生まれたものなのです。ちなみに、このように心は進化の産物だとして研究する心理学を、進化心理学と呼びます。

さらに、人間の善い/悪いという価値判断が進化論的に説明できるとする考え方もあります(進化倫理学)。

私たちの「心」を、進化論や脳科学の知見から「人生の意味」を捉えなおすことができるのではないか、と提案いたします。

4.2.2 言葉を信頼して突き詰めて考えよう!

また、言葉についても考えることで「人生の意味」にアプローチすることを提案します。

そもそも「人生の意味」を問うために、言葉を用いているはずです。言葉がなければ、この問いに悩むことはなかった。ということは決定的に言葉が重要な役割を果たしてることがわかります。

言葉によって存在しているといえるものは、たくさんあります。

例えば、「日本」という言葉があるから、日本が存在していると考えられるのです。「日本」は、ペンや机が存在しているように、見たり手で触ったりして確かめることができません。「日本」は、二ホンとかJapanとか、そういう言葉があって初めて存在しうるのです。

また、お金も言葉があって初めて存在できます。

コインや紙幣、通帳の数字のような形で存在しているけれど、よくよく考えればお金がお金として価値を持つのは、私たちがお金が価値があると信じているからですよね。「信じる」ことができるのは、言葉で何回もその価値を刷り込まれているからなのです。

意識的に反省してみると、私たちは言葉に取り囲まれて生活していることがわかります。私たちが言葉を操ってはいるのだけれど、逆に言葉に操られているとも言えるのです。

5. 人生の意味について考え始めちゃった人はどうすればいいのか?

本記事は、僕個人が考えてきた「人生の意味への問いに応答するための方針を共有するために書かれたのでした。

第2章では、「ふつー」に生きるとはどういうことかを探求したいということ、第3章では現代日本で「ふつー」に生きていると「人生の意味」を問いたくなっちゃうんじゃないのということについて言及しました。第4章では「人生の意味」について考えるためには、物理的な身体構造からのアプローチと、言語の世界からのアプローチがあることを示しました。

これから僕は、僕が思索したことをnoteやYouTubeで発信していきたいと思います。「人生の意味について考え始めちゃった人」のひとりとして、言葉を紡いでいきます。一度考え始めてしまったら、考えるしか道はないように思うのです

思考の材料

参考文献

Heidegger, Martin, Sein und Zeit (1927), Tübingen: Max Niemeyer 2006.(マルティン・ハイデッガー『存在と時間』)

岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』、岩波ジュニア新書、2003年

大塚久雄『社会科学における人間』、岩波新書、1977年

小川(西秋)葉子・太田邦史編『生命デザイン学入門』、岩波ジュニア新書 、2017年

木田元『現象学』、岩波新書、1970年

倉田剛『日常世界を哲学する』、光文社新書、2019年

國分功一郎『暇と退屈の倫理学 増補新版』、太田出版、2015年

佐藤岳詩『メタ倫理学入門』、勁草書房、2017年

立川武蔵『ヨーガの哲学』、講談社学術文庫、2013年

田中克彦『ことばと国家』、岩波新書、1981年

戸田山和久『哲学入門』、ちくま新書、2014年

長谷川眞理子、長谷川寿一『進化と人間行動』、放送大学教育振興会、2007年

堀内勉『ファイナンスの哲学』、ダイヤモンド社、2016年

松尾豊『人工知能は人間を超えるか』、KADOKAWA、2015年

丸山真男『日本の思想』、岩波新書、1961年

吉田昌生『マインドフルネス瞑想入門』、WAVE出版、2015年

理化学研究所 脳科学総合研究センター編『つながる脳科学』、講談社ブルーバックス、2016年

脇本平也『宗教学入門』、講談社学術文庫、1997年

渡邊二郎『人生の哲学』、角川ソフィア文庫、2020年


アーティスト

Ayase

ONE OK ROCK

RADWIMPS

R Sound Design

キタニタツヤ

ゲスの極み乙女。

サカナクション

ツミキ

ぬゆり

バルーン(須田景凪)

有機酸(神山羊)


YouTuber

ゆうせい荘 

EvisJap


アニメ

PSYCHO-PASS


最後に、僕と関わってくれたすべての人たちに感謝いたします。僕の言葉は、今まで触れた情報や出会った現象をもとに紡がれているからです。


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