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この世界に、「この自分」が何を付け加えればよいのだろう ハッピーエンドのその先の生き方を構想する

1. 「たぶん、自分が死んでも淡々と世界は続いていくよね」と思う人に向けて

現代日本に生まれてよかったなーってすごく思うんですよね。歴史の教科書を読めばわかるけど「衣食住に困らないで暮らしていくこと」がヒトの最終的な目的だったわけで、そう考えると、まぁ大変だけど労働すればとりあえずは目的達成できるねって状況です。

「じゃあ、僕たちは何のために生きるのだろう?何をして生きていこう?」

昔話って、「こうして、いつまでもいつまでも平和に暮らしましたとさ」みたいなお決まりのフレーズで終わりますよね。物語はハッピーエンドの先を示さない。なぜなら、そこで物語はまさしく終わる(独enden)からです。

僕たち現代日本人は、衣食住を安定的に確保するというハッピーエンドを迎えた。もちろん、マクロレベルでの社会課題、ミクロレベルでの個人的な葛藤はあるわけだけど、とりあえず「生きること自体」は当然のこととして享受できる環境にあります。

そのような社会に、僕たちは何を付け加えたらよいのだろう。いや、「この僕」が何をしたらいいのかと問うたほうがいいか。

生物として生きることに必死だったホモ・サピエンス数百万年の時代の先頭に立つ我々は、どのように生きるべきなのか?そして、これからも平和を謳歌するであろう人間社会に、「この自分」はどのように関わって生きていくのか?

「この自分」が生きなくても人間社会は繁栄し続けるように思われます。おそらく、僕が死んでも淡々と世界は続いていく。このように考えている人に向けて、今回は記事を書いていこうと思います。

2. 自立した個人同士が「これやりたい!」「あれやりたい!」って言い合いながらわちゃわちゃ楽しく生きるようになったらいいよね

まず考えられるのは、みんなが楽しく暮らせたらいいよねという思いを持って協力し合って生きるということです。最近、「個の時代」、すなわち組織に埋没しないで自分で食べていく力をつけていかなきゃだめだよということをよく耳にするのですが、おそらく個の時代を経た後は現在とは違う形の「組織・共同体の時代」が来るんじゃないかなと僕は思うんですよね。

つまり、「組織に従属した人間」から「自立した人間」になって、「自立した人間同士が協力し合う」という段階へと進歩していくのではないか、と僕は考えています。例えば、現在のYouTuberの活動が既にそのようになっています。すなわち、YouTuberとして個人で活動しながらも、他のYouTuberと定期的にコラボするみたいなことです。

自立した個人がお互いに協力し合って生きるということは、やらなければならないことに常に気を配って心身ともに疲れて生きるのではなくて、大人になってもみんな子どもみたいにキラキラ目を輝かせながら「これやりたい!」「あれやりたい!」って言い合いながら生きるということです。

この考え方は、近年の行動科学の知見にも馴染むと思うんですよ。具体的に言うと進化生物学、動物行動学、心理学、脳神経科学、経済学での協調行動の研究によって、利他的な人って結局おトクだということが明らかになっているのです。

人生において、他者と協力して結果としての利益を分配するか、自分だけ抜け駆けしてオイシイ思いをするかの選択肢が提示される場合があると思います。行動科学の知見から言えるのは、短期的な利益確保なら抜け駆けをすることが得するが、中長期的な利益を考慮すると他者と協力したほうが得をするということです。だって、ずる賢い人より信頼できる人のほうがパートナーにしたいじゃないですか。

しかも、私たちには共感能力が備わっているから、他者の喜びは自分の喜びとして感じることができます(脳神経科学の研究によって、その証拠も提示されるようになりました)。

てことは、合理的に考えても、他人を蹴落としてまでも自分がのし上がるのではなくて、他人と協力して楽しく生きたほうがいいよねということがわかりますね!

まとめると、(先進国の少子高齢化はマクロ経済的な成熟という要因があるからひとます置くとして)生物の本来的な目的である「生存」と「繁殖」は全体としてはうまくいっているからその社会体制を維持しつつ、協力し合って個々の人間(個体)の主観的な意識体験の満足感をできるだけ上げていくことも考えていったらどうかということを、僕は提案したのでした。

3. 「この自分」は何をするのか

前章では、人類全体のざっくりとした方向性は示せたかな~と思うので、本章では「この自分」が何をしたらいいかを考えるポイントについて検討していきたいと思います。

ありきたりなんですけど、未来、過去、現在を反省的に捉えることが重要なのではないでしょうか。自己分析とか、キャリアプランのときに考えるやつですね(未来、過去、現在という順番に並べたのは僕がドイツの哲学者マルティン・ハイデガーに大きく影響を受けているからですが、以下の記述にはそこまで関係しません)。

つまり、どういう経緯で自分が形成されて、普段どんなことをしていて、これからどのように生きていくかということを自分なりに言葉にして意識化するということが重要なのです。

さらに僕が指摘したいのは、「自分」というものが、遺伝子の発現と生育環境に大きく規定されているということです。遺伝子と生育環境は、現在の技術だと変更不可能です(将来ゲノム編集技術が許されるなら、「若返り」も可能ですが)。

僕たちは変更不可能な遺伝子と過去の体験に縛られています。例えば、食べ物について考えてみましょう。遺伝的にアレルギーを起こしてしまう人は遺伝子に、過去の記憶と結びついてどうしても嫌いな食べ物がある人は過去に縛られているわけです(過去については克服可能と捉える人もいるかもしれませんが、過去に「まずかった」という主観的意識体験があったことは事実なのです)。

これからどのように生きようかと考えるときに、依拠するのは「現在の好き嫌い」だと思いますが、その「好き嫌い」は過去の体験によってできあがったものだと言えないでしょうか?

プロ野球選手になりたいと現在考えている少年がいるとしましょう。では、この少年はなぜ「プロ野球選手になろう」と思うようになったのでしょうか。別に、サッカーやバスケでプロを目指してもいいわけです。この少年には、きっと「プロ野球選手はかっこいいものだ」と思わせる環境があったのでしょう。もし運動能力に関係のある遺伝子を有していたら、サイコーですね。この例からもわかるように、よくも悪くもやっぱり遺伝と生育環境って自分で選べないのに強烈に自分を制約してきますね~。

まとめましょう。僕たちにはそれぞれ、遺伝子と生育環境という「縛り」があります。それが「好き嫌い」や「自分らしさ」を生むわけです。それをもとに(遺伝子だと特定すぎるから「体質」と置き換えてもいいかもしれません)、現在の「当たり前の日々」やこれからの「したいこと」を考えていったらどうでしょうか。

(本章の議論は、選好形成[the construction of preference]の問題と言います。僕はしっかり勉強していないので、議論が雑な感じになちゃったかなと思います、すみません。気になる人は参考文献に挙げた藤井さんの論文を参照してください。)

4. 自己の捉え直しと他者貢献

本記事では、既に成熟した人間社会に「この自分」が何を付け加えればいいのかという問いに向き合いました。第2章では、社会に生きるにあたっての前提条件として「利他的であること」を挙げました。利他的であることが自分及び自分と関わった人みんなが幸せだし、得をするから合理的なのでした。第3章では、「どのように自分のしたいこと」を見つけるかについて検討しました。そこでは、自分がどのように構築されているかを反省するということが提案されました。

第2章と第3章の記述をまとめれば、自分の未来、過去、現在を捉えなおして「自分のしたいこと」を意識的に取り出しつつ、その「したいこと」が他者にも「おトク」になるにはどうしたらいいか考えたらいいんじゃね!ということです。

思考の材料

参考文献

Heidegger, Martin, Sein und Zeit (1927), Tübingen: Max Niemeyer 2006.(マルティン・ハイデッガー『存在と時間』全四巻、熊野純彦訳、岩波文庫、2013年)

亀田達也『モラルの起源』、岩波新書、2017年

長谷川眞理子、長谷川寿一『進化と人間行動』、放送大学教育振興会、2007年

藤井聡「「選好形成」について」、京都大学大学院工学研究科、2010年


他に参考にしたもの

RADWIMPS シュプレヒコール 


ゆうせい荘 (YouTuber)



ひとまず、ここで本記事は終わりです。以下は、僕個人の想いです(ネガティブすぎるかなと思ったので、ネガティブになりたくない人は読まなくてOKです)。

自分の「存在の重み」を引き受ける覚悟が定まらない者は、ただ日々を漠然とした不安を抱えながらやり過ごしていくのだろう

本記事では、自分の遺伝や環境について「捉え直す」という表現を用いたが、筆者としては「自分の遺伝や環境を運命として引き受けること」という圧力を感じる表現のほうが適切であると考えている。

我々人間の生には、意識的に統制できない偶然性と運命というものが、本質的に組み込まれている。この「偶然性と運命」を、自覚的に引き受けることが、自分の存在を荷うことなのだ。

だが、この「存在」は相当に重い。この重さに耐えかねて、ひとは「ふつう」に生きることを目指すのだろう。だが、「一般的な生き方」に生きるということは、自分という存在を一般的な人間という存在に希釈させることになる。

一般的な生き方をする人間は、社会に何かを付け加えるというよりも、ただ社会のシステムの一部として組み込まれているだけだと言えるだろう。もちろん、そのような人々のおかげで社会はまわるのだが。

自分の存在を荷う覚悟を決めるか、それとも存在の重さから逃避してルーティンワークに身をやつすかは、他ならぬ「自分」に委ねられているのだろう。


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