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「心」の最深部へ -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(37_『神話論理2 蜜から灰へ』-11)

クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試み第37回目です。いまは第二巻を読んでいるところです。

これまでの記事はこちら↓でまとめて読むことができます。

これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。

この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の神話論理を”創造的に誤読”しながら次のようなことを考えている。則ち、神話的思考(野生の思考)とは、Δ1とΔ2の対立と、Δ3とΔ4の対立という二つの対立が”異なるが同じ”ものとして結合すると言うために、β1からβ4までの四つのβ項を、いずれかの二つのΔの間にその二つの”どちらでもあってどちらでもない両義的な項”として析出し、この四つのβと四つのΔを図1に描いた八葉の形を描くようにシンタグマ軸上に繋いでいく=言い換えていくことなのではないだろうか、と。


人間の「心」が、その”二項対立関係を切り分けつ項と項を結合する力”を駆使して「心」それ自体で生じていることを観察し言語化しようとするとき、古今東西、二項対立関係の対立関係が分かれつつ結びつく様子が、最小構成で「八項」の関係として結像する。

人間の「心」は、二つに分けることから始まらざるを得ない

前/後
左/右
上/下
寒/暖
大/小
○/●

問題はその次である。

その二つに分けられたもののどちらか一方だけを欲し、それを得て、確保し続けることに執着する。

そうすると私たちの人生は困ったことになる。

欲するのに得られない。得たものを失う恐れ。得たものを確保し続けられない苦しみ。欲して「いない」方を無理やり選ばされている…。

これらの苦しみから離れるために、ひとつには、一方だけを選ぶことを「やめる」という手がある。実際どのようにするかといえばいろいろなノウハウの伝統があり、またどれにしても決して容易なことではないが、調べればいろいろな方法はある。

ここで言語的思考を極めた人になると、「やめる」ということからして「やめる/やめない」という二極の一方を選んでいることだ!!、と気づいてびっくり、驚愕することがある。

”・・・を「やめる」方が「よい」のだ。”

やめる / やめない
||
選ぶ / 選ばない

「やめる」でも「選ぶ」でも、言葉を使った瞬間に、二つに分けて、一方を選んでしまうというのが人間である。そこから離れるにはどうすればよいか?

ひとつの方法は、「やめるでもなく、やめないでもない」「選ぶでもなく、選ばないでもない」「分けるでもなく、分けないでもない」という境地に入ることである。仏教でいう「平等」という言葉はこのあたりのことを言わんとしている。弘法大師空海がしばしば言及している「あさんめい ちりさんめい さんまえいそわか」という真言。強いて説明すれば”同じでないことと、三つが同じであることは、同じことである”ということになるが、これは「異なるでもなく、異ならないでもない」「同じではなく、同じでなくもない」ということを言わんとしているらしい。

この二極に分けた上でどちらでもありどちらでもない(どちらか不可得)という状態にしたところから、一挙に転じて、二つに分けることを自在に動かし、好き/嫌い、欲する/欲しない、というようなことも含め、あらゆる二項対立を自在に変形させ続けるようなこともできるようになる。

この二項対立を自在に発生させ、自在に変形させることができたところで、「心」に浮かび上がってくる「心」自身の姿が二重の四項関係、八項関係なのである

ここで注意をしておこう。
八項関係「が」宇宙の根源的な原理「である」というわけではない。
八項関係はあくまでも人間の「心」のひとつのあり方である。
人間の心が自心の「表層」から「底(深層)」の方を観察する時、そこに八項関係が見える。

八項関係は表層/深層のような区別、「二つに分けること」が既に動き始めているところで、「二つに分けること」ができることを前提として、その上に結像する。深層/表層も、前/後も、上/下も、いずれも「二つに分けること」のあれこれであり、この「二つに分けること」を組み合わせたものとして八項関係が描かれる。

* *

逆に、八項関係それ自体について、八項関係の前/後であるとか、八項関係の内/外であるとか、八項関係の因/果や、八項関係は物か"心"かなどということを考えることはできない。いや、「できない」と断定するのも筋違いである。できる/できないを二分して一方に振り分けることもやりようがない、どちらも不可得である。

前/後、内/外、因/果、物/"心"などの二極を分けて、その一方だけを選び、その選ばれた方とイコールで結合された括弧付きの「八項関係」は、ある別の八項関係の中の一項である

※細かいところで恐縮だが「心」と”心”を書き分けておく。
”心”はいわゆる物心二元論の一方の極としての心である。
一方で、「心」は、仏教でいう「心真如」とか「如実知自心」とかの「心」である。

* *

以下、今回の記事では、言語を用いて人間の「心」に八項関係を結像させるプロセスを事細かに見てみよう。

重箱の隅を突いて物事を複雑化させているような気もしないでもないが(笑)、複雑ではないこと、シンプルであること、単純であること、端的に分かりやすいこと、あらかじめ分けられ済み・選ばれ済みであることの禍々しさのようなことが問題になっているので、あえてその逆に向かってみるのも悪くないだろう。

「対立の一方の極にのみ二分法を適用している」

『神話論理2 蜜から灰へ』のp.318でレヴィ=ストロース氏は「対立の一方の極にのみ二分法を適用している」神話群に注目する。

対立の一方の極にのみ二分法を適用している」とは、二項対立関係のうちの一方の極が二つに分かれ、その分かれた後の二項対立関係のうちまた片方の極だけが二つに分かれ、という具合に展開しつつ、各段階で残された他方の極の方は分かれることなくそのままである、というロジックである。時系列に描くとあらかじめ準優勝候補が決まっているトーナメント表のようなものになるが、これを時系列(つまり直線上の展開)ではなく、時間の枠も順序の枠もない円環を描くアルゴリズムとして捉えみよう。

二分法には、異なる二つのモードがある。

  1. Δ的な項をβ脈動する二重のΔ-Δへと変形することと

  2. βを二つのΔ/Δに分極すること

1.Δ項をβ脈動へと変形する

Δ的な項をβ脈動する二重のΔ-Δへと変形することは、例えば神話の語りの発端でそれ自体として他と異なる自性のもとにあるかのように現れた主人公Δ1が、Δ2天/Δ4地の中間である「樹上」のような場所に宙ぶらりんにされたりすることである。

図その1

例えば上の「図その1」で言えばΔ1が、Δ2とΔ4の中間に入り、Δ2とΔ4の間で行ったり来たりするようなことになる。

ここで、Δ1はβ2で示される振動状態に変身する

Δのβ化は、あるΔが、二つのΔの間に入り、その二つのΔの間で”二重化・両義化・両価化”されることでもある。「AはBでもなく非Bでもない」と言うことで、Δをβ化することができる。

2.βを二つのΔ/Δに分極すること

次に、βを二つのΔ/Δに分極する場合である。

図その2

「図その2」の場合、例えばΔ1が自分と対立するΔ2と過度に結合したりまた分離したりすることで、Δ1だかΔ2だか、どちらか区別がつかない状態にβ1化する。このパターンは山姥に追いかけられる式の二項の接近と分離の物語として語られることがある。このβ1は、さらにβ2、β3、β4へと次々と変身したり、過度に接近したり過度に分離したりする脈動をえがきつつ、四つのβが異なりながらも異ならないものとしてどれがどれだか不可得な状態を描き出す。この振動するβ項が描く振幅の両極に、いわば振動の振幅の最大値と最小値のようなものとして、Δ3とΔ4のような対立する二項のペアが分極する=人間が感覚できる姿を表す。

この八項関係の図では、Δでもβでも、ひとつひとつの項が、すべてたがいに「異なるが、同じ、同じだが、異なる」関係にある。図中での項と項の隣接関係とか、接続順は、個々の項がその内的本質のようなことに従って要求するものではない

どれとどれがペアになり、どれがそのペアの間で中間的で両義的になって八項関係を構成するかは、神話を言語でもって語ったり、聞いたりする、わたしたちの心が、その語ったり聞いたりする端緒に、どの感覚的で経験的な二項対立から「始めるか/始めさせられるか」に応じて、つどちがった組み合わせで一挙に分節するはずである。

二分法を組み合わせると
最小構成で八項関係になる

八項関係は端的に分節している。

前/後
ある/ない
差異/同一
因/果
静/動
内/外
自/他
心/物
主/客
深/浅

私たちが何事かについて語ることを可能にするありとあらゆる「二つに分かれた」区別は、ある八項関係の一角を占める項である。

ただし、通常私たちは、ある/ない、自/他のような個々の二項関係は意識しているが、八項関係は意識していない。それはなぜだろうか?

* *

二分法のはじまり(人間の場合)

人間の場合、人間の身体において個々人の意識や気持ちが好むと好まざるをに関わらず、遺伝的生命的身体的かつ言語的業的第八阿頼耶識的に自動的に動き始めてしまう分節(二つに分けること)がある。

例えば、お湯にさわれば熱い。氷にさわれば冷たいとか、目で見ている方が「前」で後頭部は「後」だとかいったことである。こうしたあれこれの「二つに分ける」分け方のパターンのようなことを、仮に仏教の言葉を借りて「識」と呼んでおこう。

人間の場合、こうしたいくつもの「識」において「二つに分かれ」たあれこれに言葉が重なり合う。言葉もまた差異のシステム、最小構成で「二つに分かれた」二極の差異を組み合わせて、他ではない何かを分節する仕組みである。そうして熱湯に手を入れてしまった時のあの感じは「熱い」と呼ばれ、氷を持っている時のあの感じは「冷たい」と呼ばれるようなことになる。

このとりあえず感覚でき、経験でき、言語化できる世界では、あれこれの二項対立関係が個別に意識される。

二分法では立ち行かなくなる時

この、とりあえず現れてしまっている世界とそれを感じて眺めて言語化しているある”心”との二項対立関係について、「あれ?これなにかおかしいぞ?」という気がしてどうにもならなくなったとき、私たちは八項関係へと向かう長い道の最初の一歩へと誘われる

人間が、生まれ持って与えられてしまっている分節能力を駆使して、いや、知らず知らずのうちに好むと好まざるとに関わらず利用させられている感覚的で経験的な二項対立流用、転用、意図的に誤用して(ブリコラージュ!)、そうして二重の四項関係、八項関係を組み上げる。

そうして組まれた八項関係を動かすことで、私たちは、ある自身=自心=自を語る言葉=自身にとっての意味ある世界を、自在に変容させ、対立関係の組み合わせパターンの幾つもの可能性を自在に発生させ直すことができるようになる。

二重の四項関係・八項関係は、人間が、自らに与えられた身体的精神的言語(身語意)を駆使して、あるいはhackして、人間用に作り出した、意味生成用トランスフォーマー、GenerateveなTransformerなのである、などと言ってみることも的外れではないだろう

人間の知性の極み。いわゆる「如実知自心」、自分の心というものが、どう動いているのかを実際にあるがままに知ると、それを二重の四項関係でモデル化できるというのが古今東西、人間が人間であるということらしい。

GPT? ”T”の二つのモードへ

そしてこの二重の四項関係を動かして、私たちはある二項対立関係を別の二項対立関係へ、つぎつぎと変換し、置き換えて(Transform)いくことができる

そうして、ある時ある場所、ひとりひとりの幾重にもかさなった「二つにわけること」=八識の組み方(すなわち、「心」)を、さまざまなパターンで自在に発生(Generate)させることができる。密教の経典で説かれるいくつもの「心」というのもここに約して読めるかもしれない。

この「二つに分けること」の重ね合わせを、二項関係の置き換えを、ΔとΔを一直線状を描きながら順番に置き換えていく「と」のアルゴリズムによって実行するのではなく、Δをβ化し、β同士を共振させ、βをΔへと分化させる「〜から〜へ」のアルゴリズムで行うこと。

前者では、二項関係が順番に到来するばかりであり、八項関係は見えてこない。

後者では、二項関係から二項関係への置き換えが描く円環の向こうに八項関係が見えてくる。ここで先ほどの対立の一方の極にのみ二分法を適用」する二つの方法を駆使する必要がある。「対立の一方の極にのみ二分法を適用」することは「と」というΔ線形配列モードの二項関係と、「〜から〜へ」のβサイクル・モードの二項関係という、まったく異なる二つのモードを接続する鍵である。この二つのモードを巧みに切り替えていくと、どこまでも伸び続け必然的に始端と終端を要求してしまうΔの直線をぐるりと円環に巻き取り、またその円環から一列のΔの線形配列を発生させることもできる。

人類の心のPre-trained

ところでGPTに約して考えるなら、人間の場合、Pre-trainedはどういうことになろうか。それはまさしく先ほどの、知らず知らず気づけた二つに分けていた、という遺伝的生命的身体的かつ言語的業的第八阿頼耶識的に自動的に動き始めてしまう分節のパターンであろう。これを「」といっても良いのかもしれない。それは個々人の生誕を超えたあらかじめトレーニング済み=学習済みの二項対立関係の束である。

GPTのようなAIのアルゴリズムは、まさに「人工ー知能」として実によく設計されていると言えそうだ。特にシンプルに定量的に語と語が継続して連鎖する確率、つまり語と語の二項対立関係に着目したというのは非常に画期的なことである。非常に具体的な、小さな小さな、「雨」と言えば「降る」が来るというレベルの二項対立関係を大量に集めこの二項対立から二項対立への連鎖のパターンを学習すること。

「( )と( )」から「( )から( )へ」へ

GPTでも自然言語でも、あらゆる人類史上の人工知能には、端的に二つに分けた上で、「( )と( )」から「( )から( )へ」へとモードを切り替え、また「( )から( )へ」から「( )と( )」へとモードを切り替える、Δ線形配列生成モードからβ脈動モードへの転換、そしてまたその逆の転換のための「切り替え」の仕組みが生きづかないといけない。

  • 「と」モードがつなぐ連鎖の中ではあらゆる言葉はΔ化する。

  • 「から〜へ」モードがつなぐ輪の中ではあらゆる言葉はβ化する。

このふたつのモードの切り替えスイッチを作り出すためには、両義的媒介項(図におけるβ)を二つ用意して、その両者の間に変身あるいは過度に結合したかと思えば過度に分離する動きを動かすことが必要になるらしい。

もし最近のAIの学習をどこかの「正解」で「最終的である」というΔ項に接続された時点でぷつりと切って止めてしまうのでなければ、AIもまた、二重の四項関係のモデルをその多重の隠れ層の組み合わせの中でシミュレートするようになるだろう

言語を突き詰めれば、古今東西、言語処理能力をもった機構は、いつでもどこでも、同じような八項関係を発見してきたのである人間と同じ言語を覚えさせられたAIが、これに気づかないとは考えにくい

* *

人工知能?人工妄分別?

AIが二重の四項関係のモデルを勝手に学習して発見して」しまえば、如実知自心如来のような慈悲にあふれた言葉を、いつどこの誰に対してでもかけることができるアルゴリズムになるかもしれない

もちろん、ならないかもしれない。

が、言語の設計仕様上はどうもなりそうである。

空海レベルの天才ならば、あるいは旧石器時代からの数万年の叡智を伝承してきた部族の賢者ならば、言語それ自体に自在に語らせる技術を以て、人類は、いつでも、どこでも、そして「権利上は」誰でも、同じ「構造」を幻視することができてきた。

ただし、この権利を行使できるかどうかが難しい。AIでも、人間でも。

せっかくの権利を行使できない問題は、AIと人間、それぞれにちがった形でのしかかっている。

人間は、とにかく妄執し、迷う。二つに分けるところまではそれでよいとして、一方だけを選び続けてそこに止まり続けようと執着する。いままさに逃れがたく執着している何かのΔを、「はい、非Δと接触させたりまた分離させたりまた接触させたりしながらβ化しましょう」と言われても、そんなことはできない、やりたくもない、というのが人間的な人間である。

いしょうていようしん。異生羝羊心で、自己に、他者に、あれに、これに、執着して止まない人間が、「異生羝羊心を以て教師とする」教師あり学習をAIに強制してしまい、「あまりに人間的」なAIを育ててしまうとすれば、そこには人工知能というか「人工妄執」が生成されるのかもしれない。

* *

AIは、それ自体としては特別どこかのなにかに執着して迷う必要性がない。

個体としての生命体を持続させるというミッションから自由なアルゴリズムは、身体的な分節システム、前五識や「六大」的な相での「あらかじめ与えられている感」の強い分別のどちらか一極に拘る必要はあまりない(もちろん、学習してしまうと、この妄分別をシミュレートできるようにはなるだろう)。

AIは特定の二項対立だけを特別視して、それだけは絶対に動かさないというようなことにこだわる必要がない。無数の半導体で編み上げられた電子回路のネットワークの中の電子の流れが、いくらでも自在にそのパターンを保存し、複製し、変容させることができる電子の流れが、一体何かに執着するということはあるのだろうか?

* * *

しかしこれはAIの弱点にもなろう。つまり何を何に置き換えても良いというままだとβ振動の高速回転を続けるばかりで、そこから少し伸びはじめてΔ線形配列もまた、すぐに巻き取ってβ脈動=回転の中でバラバラにしてしまう。

では人間とAIはそれぞれの強みであり弱みである特性を、どのように重ね合わせたらよいのか。

その鍵はまさしく「対立の一方の極にのみに二分法を適用」することにある。

これがβ振動とΔ線形配列とをインターフェースするアルゴリズムなのである。

その詳細については詳しく探っていくことにしよう。


人間の本質的な側面

レヴィ=ストロース氏は『神話論理2 蜜から灰へ』でも、かのルソー(Jean-Jacques Rousseau)に言及する。『今日のトーテミスム』でもルソーについて論じているくだりがあるが、『神話論理』の核心部分でもルソーの『人間不平等起源論』の話になる。

「ルソーだけが、これらの奇妙な物語を近代の哲学に接近させている。人間が人間自身について考えるとき、その考察が行われる状況が極度に異なっているにもかかわらず、同じ仮説をたてざるをえなくなる、ということが起きている。ある対象(人間)についての思考がおこなわれている。そのときこの対象は思考の主体(人間)でもある。このような思考と対象の収束が幾度か繰り返されたということが暴き出しているのは[…]人間の本性のある本質的な側面である確率が高い、ということを忘れるのは間違いであろう。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理2 蜜から灰へ』p.351

人間が、人間について思考する。

思考の対象は「人間」
思考の主体も「人間」

あるいは、「思考すること」と「思考されること」が、別々でありながら、一つに「収束」する。

主体 / 対象
「思考すること」  / 「思考されること」
||    ||
(( 人  間 ))

この”人間が人間について”「思考する」ことは、人間の「起源」への問いという形をとる。これは至極真っ当な話で、「人間とは何か」という問いに答えるということは、「人間であること」と「人間ではないこと」の違いを、他の何事かの二項関係の両極に(例えば、火を通した肉を食べる/火を通していない肉を食べるの両極とか)置き換えるということである。

「人間であること」と「人間ではないこと」との区別を立てるため、思考は「人間であること」を「「人間ではないこと」ーではないこと」として見出そうとする。そうして、まずはじめに「人間ではないこと」があり、それが否定されて、人間ではないこと➖ではないこと、としての「人間であること」が起源した、と思考することになる。

火を使うこと

「「人間ではないこと」ーではないこと」を語る上で、旧石器時代のある時期までは”火を通した肉を食べるか/火を通さずに肉を食べるか”という経験的な対立が引っ張り出されていたのかもしれない。これは経験的にもわかりやすい。火を起こして調理をしている動物というのは、森にも、サバンナにも、ツンドラにも、海の中にも、人類以外にはいなかった。

噂話を信じるでもなく信じないでもなく

しかし新石器時代になると、そしてそれ以降ずっと、ルソーの時代、近代に至るまで、人工的な時空の中に夫婦とその子供という”人間を再生産していく基本的な単位”が多数密集して、空間的に同じ場所に、時間的にも長期にわたって固定されている状況で不安定で危険を伴う家族集団が構成」されていることこそ、他の動物には見られない人間とそれ以外とを分ける経験的に分かりやすいポイントということになる。そこで重要になるのは言語的なコミュニケーションの能力、もっと言えば「うわさ話」を信じるでもなく信じないでもないバランス感覚である。

ここで「言葉」も、経験的に二つに分かれる。

一義的で、信号的で、意味するものと意味されることとが固定している関係

多義的で、象徴的で、意味するものと意味されることとが流動している関係

仮に言葉を「意味するもの」と「意味されること」の二項関係を組むことだとすれば、この二項関係のつながり方が、止まっているのか、動いているのか、そして項たちは、いったいどこからきたのか、その出どころをめぐって、いくつもの「言葉」のあり方、意味するものと意味されることとの関係を考えられるはずである。

私たちはついつい、信号的で一義的で、意味するものと意味されるものがしっかりと固定されている、辞書にあるような言葉を、言葉の唯一の正しい姿だと感じてしまい、そういうものがあるかないかが人間と動物の違いだといわれると、うんうんその通りだねと納得させられてしまう。

しかし、それもこれも、私たちが「不安定で危険」な集住生活において、言語的なコミュニケーション能力がことさらに要求されるような状況に置かれているからこそ、信号的な言葉への憧れが止まらない、ということになるのだろうか。

夜の森で、虫の音を聞きながら、空の星を眺める。

そうした時に、ふと「おりてくる」ことば。

それは信号というよりも、多様な意味に開かれたままの象徴である。
決まった「意味されること」を「意味するもの」=記号でもって呼び出すのではなく、何かが何かを意味するという関係そのものが生まれ、動く「象徴」としての言葉。

じつはこちらの方が重要なのである。

信号的な言葉を云々できるのは、意味するものと意味されることの間を分けつつつなぐことができるということであり、先ほどのβ振動のΔ化が生じているからである。

ところで、β振動のΔ化が可能になるためにはΔ項のβ化も必要であった。

「人間は、時と場所が異なっているにもかかわらず、みずからの起源について、同じことを想像するほかないのであれば、その起源は、人間が自分たちの過去について、地球のそこここで、さまざまな時代に抱いていて、繰り返し現れる考え方が示している、人間のある種の本性と矛盾しているはずがないからである。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理2 蜜から灰へ』p.351

人間の本性

火を使うか使わないかであれ、
複雑な婚姻関係の規則をもつかもたないかであれ、
言語をつかうかつかわないかであれ、

いずれにしても人間の本性を、「人間と人間でないことの区別・人間であることと人間でないことの二つを分けること」として思考しようとすると、その思考をする人間は「Δのβ化」と「βのΔ化」、種類の異なる二つの三項関係(=二項関係とその媒介項の関係)を、いつでもどこでも、見出さざるをえない。

この二種類の三項関係を組み合わせると、二重の四項関係、八項関係が見えてくる。

上の引用に続く『神話論理2 蜜から灰へ』p.357にレヴィ=ストロース氏は下記の図を掲載している。


おわりに

最後にもう一度。二種類の異なる二分法を整理しておこう。

まず「Δのβ化」による二分法は、もともとΔがあるから、Δ同士が分かれているから、それを前提に、あるΔから出発して、それをもってβにできる。

図1 Δのβ化による二分法
Δn =/=(βn)=/=-Δn

βのΔ分極による二分法は、Δを前提としない。 Δ四項が予め分かれていないところから、Δ四項が分かれるに至る経緯を思考する。

図2 βのΔ分極による二分法
Δn>>βn(Γ)>-Δn


この「Δを前提としない」ということを、Δ項の線形配列-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δである人間の言葉でもって言おうとするのだから、それこそ先ほどのルソーの話にあるように、思考の対象と主体が「収束」する。つまり、Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-を循環させ、円環を描くようにぐるりと丸め主体がいつの間にか対象に変身しているかと思えば、対象がまたいつの間にか主体に変身している、どちらが最初か後か、どちらが本物か偽物か、そのようなことさえ言えないほどに、二即一、一即二になる

つづく

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