見出し画像

「私」は線の集まりでもあり、ドーナツの穴でもあり -井筒俊彦『意識の形而上学』を読む


このnoteは有料に設定していますが、最後まで立ち読みOK!
全文公開しています。


井筒俊彦氏の著書『意識の形而上学』を読む。

意識の形而上学の「意識」とは?

まずタイトルに入っている「意識」という言葉にフォーカスしてみよう。

この本で井筒氏がいうところの意識とは、私たちがふだん「意識がある」とかないとか「意識が高い」とか低いとかいう場合に考えているような「個々人の個別的な心理機構」では「ない」

井筒氏のいう「意識」は、個々人の意識や身体を超え、「超個的」である。

超個的意識。それは煎じ詰めると分節する操作が無数に集まり束になったものである。分節する操作とは、世界をあれこれ様々な単位に分節する「存在分節」としても作動するし、真偽、善悪、好き嫌い、価値の有無などなど様々な意味に分節する「意味分節」としても作動する。

意味分節でもあり存在分節でもある「分節する」動きが、個々人の意識や身体を超えているというのである

存在分節の動きの動かし方、意味分節の動きの動かし方は、家族や部族の歴史を通じて、共同体の歴史を通じて、同じ言語をしゃべる人々の集団の歴史を通じて、人類の歴史を通じて、さらには生命の歴史を通じて、連綿と伝承されながら、すこしづつその姿を変容させていく。

私たちひとりひとりが自分の意識だと思っている何かも、この連綿と伝わりながら変容していく複雑な「分節」する動きの動かし方のパターンの一部であり、それもとても小さな一部である。

この辺りの話については、下記のnoteにも書いているのでご参考にどうぞ。

ここで「わたし」ということを考えてみる。

井筒俊彦氏は『意識の形而上学』で、この超-個的で集合的な「分節」する動きの動かし方のパターンの伝承と変容について論じたのちに、これが私たちひとりひとりの「個的実存」の「内」においてどのように動き、どのような展開をみせるのかに焦点を絞っていく。

この課題を井筒氏は「真如=心形而上学に基づく個的実存内的メカニズムを探る」ことであると書く(『意識の形而上学』p.100)。

個的実存内的メカニズムもまた、あくまでも"分節する動き"が顕すひとつの姿である。したがって「個的実存の内的メカニズム」はあくまでも「力動的メカニズム」である(『意識の形而上学』p.103)。力動的、つまり「動き」であり、動いており止まっておらず、流れており固まって置いてあるものではない。

この動きが個的実存においてあらわれる姿には「アラヤ織」という名が与えられる。

名前が与えられると、即そこになにか固まったもの、名札を貼られるカタマリのようなものがあるという感じを私たちは抱いてしまうが、それはあくまでも私たちの意識がそういう感じ方をするように分節システムが動いているからである。

アラヤ織というのもまた、静止した容器のようなものではない。

動きが何か容器のようなもののなかで動くのではない。

容器のようなそれ自体で安定して止まったものはないのである。

「ある」のはただ「動き」のみである。

この動きの複雑な動き方から、なにかパターンが浮かび上がるようにも見えるのである。

パターンというのは、複雑な動きの中にある相対的に反復されるように見える動きである。それは、多様に変化する複雑な動きに対して相対的に安定しているように見える相貌を私たちの意識に刻みつける。それを私たちは何かのもの、それ自体として安定して静止した個物だと思う。

アラヤ織というのは、まさにこの動きの反復的な動き方のパターンのことなのである。

「覚」「不覚」「始覚」「本覚」。これら四つのキータームが、互いに接近し、離反し、対立し、相剋し、ついに融和する、力動的な意識の場、それが個的実在意識のメカニズムとして現象する「アラヤ織」の姿なのである。(『意識の形而上学』p.105)

そしてこのアラヤ織が動き、現象することで浮かび上がるパターンが、「個的実在意識のメカニズム」なのである。

私たちひとりひとりとは自分自身にとっての自分であり他者でないもの、他者にとっての他者であり自分ではないものとしての「わたし」とは「アラヤ織」の動きが生み出す効果として記述・分節化できるのである。

この話についてはこちらのnoteに詳しく書いているのでご参考にどうぞ。


私たちは「わたし」であることに苦しんだり、居心地の悪さを覚えたりすることがあるが、そういう「わたし」にまつわる諸々は、アラヤ織の動きの問題に変換されるわけである。

それでは、アラヤ織の動き方はどのようになっているのだろうか?

私たちが「いい感じ」の時のアラヤ織の動きと、そうでもない感じの時のアラヤ織の動きは、いったいどう違うのだろうか?

なによりもまず覚えておきたいのは、アラヤ織の動きは「双面的」であるということである。

双面的、つまり上昇と下降動かすことと止めること固めることと混ぜ返すこと、などなど、一見すると真逆の方向に向かう二つの動きが一つになっているということである。

上で引用した一節にある、「覚」と「不覚」、「始覚」と「本覚」も、この真逆の相対立する動きである。そしてこの真逆の方向の二つの動きが「互いに接近し、離反し、対立し、相剋」するところにアラヤ織が、そのうごめく輪郭をあらわす。

この双面性ということについては下記のnoteに少し詳しく書いているのでご参考にどうぞ。

アラヤ織において、真逆に対立しつつひとつである動きの第一は「覚」と「不覚」であるという。

まず「覚」というのはどういう動きであるか、井筒氏は大乗起信論の一節を次のように「翻訳」する。

「『アラヤ織』の「覚」の側面とはどういうことかといえば、それは心体(=心の本体、すなわち自性清浄心)が一切の言語的意味分節を離脱している状態…である。」(『意識の形而上学』p.107)

「覚」とは言語的意味分節を離脱している状態」である。

「覚」における、分節からの「離脱」とは、単純に分節化をしない、やめてしまったということではなく物事の区別が不明になっているということでもない。「覚」における「離脱」は、意味分節を行いつつ意味分節を行わない、あるいは意味分節を行わないわけでもなく、意味分節を行うわけでもない、というこれまた双面的な動きである。

この「覚」に対立するのが「不覚」である。不覚は「根本不覚」と「枝末不覚」に分けられる。

「枝末不覚」は…「真如」についての根本的無知の故に、「真如」の知覚の中に認識論的主・客(自・他)の区別・対立を混入し、そこに生起する現象的事象(現象的「有」の分節単位)を心の外に実在する客観的世界と考え、それを心的主体が客体的対象として認識する、という形に構造化して把握する意識のあり方である。(『意識の形而上学』p.113)

自他の区別、主体と客体の区別。私たちが現実だと思って生きている「自分」と、自分とは区別される物事からなる世界というのは、アラヤ織の動きが作り出した不覚なのだということになる。

私たちが通常「意識」と呼ぶものは、このアラヤ織の動きが形成する「不覚」の極みである。

分離織」(=感覚・知覚的対象をそれぞれ他から引き離し区別して立てること)とか「分別事織」とかの別名が示すように、『起信論』のこのコンテクストにおける「意識」の語は[…]言語的意味分節機能という意味での「意識」と、本質的に同義である。(『意識の形而上学』p.128)

井筒氏は『意識の形而上学』で、大乗起信論に記されたアラヤ織における不覚形成のプロセス(九相)を詳しく辿る。

井筒氏は不覚を「現象的現実の中に跼蹐(きょくせき)して生きること」であるとも書く。

跼蹐というのは窮屈な枠に閉じ込められて動きが取れなくなっている状態である。この文脈でいえば、「現実」そのものだと錯視され堅固に固定化されてしまった言語的意味分節体系の網目に刻まれ、閉じ込められ、動きを封じられている状態が「跼蹐(きょくせき)」ということになる。

アラヤ織の動きを眺める境地へ

こう言うわけで、私たちは日常、固着化した言語的意味分節システムの中に閉じ込められ小さな型枠の中に「跼蹐」することになってしまう。けれどもそこから離れることも可能なのだという。

言語的意味分節システムは固着化した不動の何かではなく、分節「化」する動き、ダイナミックな作用をその本来のあり方としていること。そして一見固定しているかにみえる分節体系もまた、そういうものを波紋のように浮かび上がらせる動き・流れの動き方ののパターンなのだ。そのように気づくことも私たちにはできるという。これこそ人が「本覚)」に達するということである。

『意識の形而上学』では、この本額に達する道は「始覚」の四段階の進展プロセスとして説明される。

最初の段階は、まず自分が、自分とは区別される(自分とは異なる)他なる何かの対象に執着しそれを求めて止まない状況にあると気づくことである。

第二段階は、この何かに執着している自己というものを「払い捨て」「離脱しよう」とすることである。

第三段階は、執着の対象である客観的実在と誤認される事物を、じつは「非実体的な妄象」であると知り、離れること。

第四段階に至り、自他の区別、執着する私と執着される対象とがどちらも即自的に存在する実体ではなく、そのように分節化された「意味」なのだと知る

これについて井筒氏は、別のところで次のような図を用いて解説をしている。

スクリーンショット 2021-05-20 11.45.13

井筒俊彦「事事無碍・理理無碍」,井筒俊彦全集 第九巻 コスモスとアンチコスモス p.46

ひとつひとつの矢印は、XとA、XとB、XとC、XとD、などなどを結んでいるが、これはXとAのペア、XとBのペア、Xと何かのペアを表している。Xというのは多数のペアの一方、二項対立関係の一項なのである。

しかもこのペアは、予めそれ自体として存在するXとAが後から連結したというものではない。この矢印が、XとAを区別しつつ結びつける、分節化する働きを表しているのである。

こうしたいくつもの分節化する働き(矢印)がたまたま重なり合い集まったところがある「X」という存在者であり、その「意味」なのである。

この「X」でも「わたし」でもなんでも、ある「個」、他とは異なる、他と区別される何かだと思われる事柄は、ちょうどこの図の中央の X で示された場所のようなものである。このXはドーナツの穴のようなものである。

ドーナツの穴がドーナツの穴であるのは、周囲を揚げたもので囲まれているからである。

では、揚げた部分がドーナツの「本体」「正体」であるかというと、そういうわけでもない。ドーナツの穴がなければそれは何かの揚げ物ではあるが、ドーナツではない。

「わたし」はもちろん、他者も、あれこれの事物も、あらゆる「もの」をこうした矢印の集まるところ、ドーナツの穴のようなものだとみること。

それが上に書いた「覚」の境地、意味分節を行いつつ意味分節を行わない、あるいは意味分節を行わないわけでもなく、意味分節を行うわけでもない、というこれまた双面的な動きが自在に躍動する様を知ることができるようになる、というわけである。

・・・

しかしことによると、このドーナツに喩えるというのも、あまりよろしくないかもしれない。ドーナツというと、どうしてもあのショーケースに行儀よく並んだ個物を想像させてしまうからである。

ここでドーナツの穴というとき、ショーケースに並んだ姿ではなく、油のなかで泳いでいる姿をイメージして欲しい。それもまだ生地の状態で油に飛び込んだばかりの姿だったり、あるいは揚げすぎて焦げてしまう寸前のものだったり、そういうものを。

ドーナツも、矢印の集まりも、動き、変化しつづける過程なのである。


このnoteは有料に設定していますが、全文無料で公開しています。
気に入っていただけましたら、ぜひお気軽にサポートをお願いいたします。
m(_ _)m

関連note




ここから先は

0字

¥ 230

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が参加している募集

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 いただいたサポートは、次なる読書のため、文献の購入にあてさせていただきます。