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固着した妄分別から躍動する分節へ -井筒俊彦『意識の形而上学』を読む

今回の話はこちらの記事、レヴィ=ストロース著『遠近の回想』に読む「意味」の話の続きである。前回を読まなくても今回の記事だけでお楽しみいただけます。

続き、なのだけれども今回レヴィ=ストロース氏の話はほとんど出てこない。今日の主役は井筒俊彦氏である。レヴィ=ストロース氏の話と、井筒俊彦氏の話を、「意味」という点で繋いで読んでみよう。

意味するとは置き換えること

レヴィ=ストロース氏は『遠近の回想』のなかで次のように言う。

意味する(signifier)という動詞が何を意味するかを一般的に考えてみると、それが常に、何か別の領域に、我々が探している意味の形式的対応物を見つけ出す、ということを意味していることに気付くのです」(『遠近の回想』p.254)

意味するということは、ある語を別の語に置き換えることである

ある未知の語が、別の既知の語に置き換えられたとき、私たちは前者の未知の語の「意味がわかった」という。

これを図にすると次のような具合だろうか。

置き換えは、一回で「わかった」となるとは限らず、何度も繰り返し置き換えて、ようやく「わかる」言葉に辿り着くということもある。

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語には、言葉には、既知のものと未知のものがある

何を当たり前のことをと思われるかもしれないが、考えてみれば、私たちの人生のある時点で、ある一式の語たちだけが「既知」になっていて、他は「未知」のままというのはどういうことだろうか?

例えば2歳くらいの子どもであれば、大人の口から発せられる多くの語は意味不明であると思われる。しかし私たちは大人になってみると、いつの間にか気づけば色々な言葉を「知ってる」と思うようになっている。

既知と未知の区別はどのように発生したのだろうか?

この問いに想いを巡らせる上で、強力なヒントを貸してくれるのが井筒俊彦氏の深層意味論である。特に『意識の形而上学』に記された集合的アラヤ織個的アラヤ織の関係は、既知と未知の区別が発生するに至る経緯を解してくれる。

井筒俊彦氏の『意識の形而上学』は、文庫本で160ページくらい薄さである。気軽に持ち歩ける一冊である。

とはいえ、薄いの物質的な側面に限られたことであって、そこに記された文字たちの配列から発生する意味たるや、たいへんな厚さである。

意味するとは、未知を既知に置き換えること。あるいは置き換えを止めてしまう既知

さて、「意味」というのは、言葉Aを言葉Bに置き換える動きであった。

何かの辞書を手に取って適当なページを開いてみれば、知らない言葉がぞろぞろと並んでいることだろう。その中のひとつ、どれでもよいのでなにか適当な言葉を選んでみると、そこには例えば「パッションフルーツとは、南米原産のトケイソウ科の植物の果実である」という具合に書いてある。ここで「なるほど!トケイソウの仲間か!」とわかる人は良いが、逆に私のようにトケイソウなるものを知らないと、今度は「トケイソウとは何?」と思うことになる。そうすると今度は「トケイソウ」を辞書で引けば良い。

このように、次から次へとわからない言葉他の言葉へ置き換えていくと、置き換えを何度か繰り返すうちに「分かる」言葉に辿り着く。

そうして最初のわからない言葉の意味が、既知の言葉に置き換えられたところで「わかった」ということになる。

それが上にも示したこの図で言わんとすところである。

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試験でよい点数を取ったり、書類を読んでサインするといった表向きの渡世においては、こういう具合の「わかった」でもよい(「でもよい」というか、極めて大切なスキルである)。

しかし、ここで次のような疑問が湧き上がってきたのであった。即ち、「わかる」言葉が「わかる」言葉になったのはどうしてか?と。

「わかる」言葉が「わかる」言葉になったのはどうしてか??

未知の言葉を、既知の言葉に置き換えて「わかる」という処理ができるようになるためには、その下に、ある基礎的な大きな仕組みが隠れて動いていなければならない。

私たちは常日頃、わからない言葉に出会うこともあるし、わかっている言葉に出会うこともある。

誰しも幼い子供の頃には、大人同士が喋っている言葉や、テレビのニュースで流れてくる言葉など、そのほとんどが「わからない」言葉だったのではないか。

それが成長するにつれて、色々な人のさまざまな言葉を聞いたり読んだりしているうちに、その中に繰り返し現れる語から語への置き換えパターンに晒される事になる。

人間の場合、AIの強化学習とは少し違って、愛着のある、信頼している他者による言葉の置き換えであれば、反復頻度が少なくてもすぐに真似をするようになったりする。ビッグデータがなくてもよいのである。そうして愛着のある親しい他者が言っているのを聞いたことがある言葉であれば、そこで”よくわからないけれどとりあえずあの人が言っていた言葉と同じだから大丈夫だろう”という感じになる。 

また言語以前の身体感覚による置き換えと直接重なる置き換え関係もある。例えば、「熱い」は「嫌」、「痛い」は「嫌」といった置き換えである。この手の身体がらみの置き換えの固着度はたいへんなものである。

私たちの「わかる」の終着点を突き詰めて行くと、大概はこのあたり、愛着のある他者が嬉しそうに、あるいは悲しそうに言っていた言葉だったり、身体レベルでびっくりした時に聞いた言葉だったりする。

このプロセスに仮になにか名前をつけるとすると、私に対する他の人々からの言葉の贈与、あるいは伝承。もしくは言葉というもののある人から、私への「感染」。あるいは言葉というものの「私」への「憑依」。などなどと仮に呼ぶことができそうである。

そういう現象こそが、私たちひとりひとりの日常素朴な「わかる」下に隠れて動いている、「わかる」を作り出す大きな仕組みである

私たちが日常「わかった」とか「わからない」とかいう場合の「わかる」は、物心ついて以来、私たちが耳にしてきた誰かの声や、私たちが目にしてきた誰かが記した文字たちによって刻み込まれたものである。

私が「わかった」とか「わからない」という時、それは「私」が主体として主語として、自律独立唯我独尊して分かったりわからなかったりしているのではない。わかったりわからなかったりしているのは、「私」という肉体がこれまでたまたま耳にし目にし接触し、そして感染した言葉たちがそうしていることである。

この個々人を超えた言葉と言葉の置き換え関係の連鎖を、井筒俊彦氏は「集団的アラヤ識の深層における無数の言語的意味分節単位の、無数の意味カルマの堆積の超個的聯合体系」と呼ぶのである(『意識の形而上学』p.60)。

この私に感染した言葉たちとは、集団的アラヤ識の深層における無数の言語的意味分節単位の、無数の意味カルマの堆積の超個的聯合体系のうちで、たまたま偶然、個的私がそれまでの人生のうちに接触した部分ということになる。

アラヤ識、集団と個、深層と表層、意味、分節、カルマの堆積。日常の渡世では滅多に遭遇することのない謎めいた言葉たち、「わからない」言葉が並んでいると思われるかもしれない。

この一文だけではない。

『意識の形而上学』は、160ページほどの全編を通じて、最初から最後までがこういう言葉たちのオンパレードになっているのである!

こういう文章を見つけると「もっとわかりやすい言葉で書いて欲しい」という声が上がることがあるけれども、実はこういうのはわざわざせっかく「わからない」「わかりにくい」言葉で書いてくれているのである。

なぜそんな「分かりにくい」ことをするのか?と思われるかもしれないが、これは間違っても嫌がらせではない

むしろ逆にこの「わからない」言葉たちの列は、地獄に下がってきた一本の蜘蛛の糸のようなものなのである。それは私たちのわかるをわからないへ変換し、新たなわかり方へと組み替えてくれるトリガになる言葉なのである。

こういう「わからない」珠玉の言葉たちにふれることで、わたしたちは、自分の「わかる」世界、自分がわかっている自分自身というものが、いかに小さく限定されて固まってしまった煮凝りの破片であるかを知ることができるのである。

もう少し詳しく説明してみよう。

集合的アラヤ織を二次元の平面に描くのは難しいけれど、強いてその影のようなものを描くとすれば、こちらのようになるだろう。

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小さな丸が、ひとつひとつ語、イメージ、概念などである。それを抽象的に「項」と呼ぼう。

ある一つの項は、他の項と、別々に異なりながらも対応するもの、同じと扱えるもの、という関係にある。この関係には、いつもペアになる関係と、滅多にペアにならない関係の二種類がある。高いと低い、暑いと寒い、長いと短いなど、人類の感覚知覚に起因する言語の手前の区別・分節と対応するかどうかで、二種類の関係の違いが生じるのではないかと思われる。

この項と項の関係は、個々人の脳を超えて、個々人の声を超え出て、個々人の文字から浮かび上がって、人間の「個」というものを超えて、時空を超えて、項と項で関係を結び合い、ネットワークを成している。これこそが「集団的アラヤ識」であり、それを構成する項と項のペアが「言語的意味分節単位」にあたる。

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辞書に見られる語から語への置き換え関係、一直線に並んでいる項と項の置き換え関係であるが、じつは一つ一つの項は他の項とペアになっている

さらにそのペアは、他のペアと対応関係に入ることで、始めて意味作用、意味するということを始める。

つまり上の図では赤丸で示した「意味分節の最小単位」は、実は二項の「ペア」が「ペア」になった四項関係である

○ - ○
| × |
○ - ○

この最小単位としての四項関係ということについては、下記の記事で詳しく書いているので参考にどうぞ。

さて、ここで私たち一人一人の「個」の言語アラヤ織は、このネットワークのうちのある部分である、ということもできる。

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