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人間の世界が発生する場所にふれる -中沢新一著『精霊の王』を精読する(6)


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中沢新一氏の著書『精霊の王』を精読する連続note。第七章「『明宿集』の深淵」を読む。


(前回はこちらですが、前回を読んでいなくても大丈夫です)

『明宿集』というのは室町時代の能楽師 金春禅竹によって記された書である。善竹はかの世阿弥の娘婿でもあり、「芭蕉」など珠玉の能楽を生み出した人である。

翁とは

その善竹が、能楽において最も重要な作品である「」の意味するところを明かすのがこの『明宿集』である。中沢新一氏の著書『精霊の王』には『明宿集』の本文の現代語訳が付いているのでじっくり親しむことができる。

さて「」とはどういう者で、何をする者か。

「翁」は、かの秦河勝が聖徳太子の命により舞ったのがその由緒であると善竹は伝える。翁の舞には荒ぶる国土を鎮め穏やかにする力があると信じられたという。

『明宿集』の冒頭、善竹は、この翁とは即ち「胎蔵界と金剛界を共に超越した法身大日如来である」と書く。いきなりすごいことを書いている。

大日如来というのは弘法大師空海によれば次のような如来である。

「法身大日は虚空に等しいほどの規模で法界に遍満しているのですから、あらゆる現象は法身大日のあらわれだとも言える」(加藤精一 編 空海「即身成仏義」)

法界、つまり私たち人間が見たり聞いたり考えたりできる事柄すべては、大日如来の「あらわれ」であると考える。そういう大日如来と翁は同じだというのである。

大日如来としての翁(あるいは翁としての大日如来)は、さまざまな神や人の姿で「垂迹」すると善竹は書く。住吉大明神、海幸彦山幸彦の神話に登場する山幸彦を龍宮に送り届ける媒介者である塩土翁、そして和歌の在原業平までもが「翁」のあらわれであるという。さらに山王権現、三輪明神、春日明神も、聖徳太子、秦河勝も始皇帝も「翁」であるという。さまざまな、あらゆる神的な存在が、軒並み「翁」であるという。

つまり「翁」は、さまざまな名前で呼び分けられる以前の神的な存在それ自体の働きが、人類という生命システムに写像する影の最初の揺らぎといったところになる。

翁は、(人間が知覚できる存在者として)発生する「こと」それ自体

では、人類が経験できる限りでの、神的な存在の最も基本的な姿とはどういうものか?

これを明らかにするために中沢氏は、折口信夫による沖縄先島への採訪旅行の話を本章の冒頭に置く。先島にはアカマタ・クロマタやユマンガナシ、パーントゥといった仮面来訪神(まれびと)の祭りがある。

仮面来訪神たちは、海岸の洞窟(しばしばそこは集落の死者の風葬地でもある)から出現する。その身体は水分を含んだ土砂(泥)をおびただしく付着させた植物に覆われた姿で人々が日常を営む集落を訪れては、その泥を村中に、村人達に塗りたくったりする。折口信夫はそこに、お寺や神社の神仏や、文字に書かれた宗教の神々のような姿とは異なる、人類にとっての神的な存在の原初的な姿を見ることができる。


(折口信夫について知るには、下記の安藤礼二氏の著書がおすすめです)

こうしたまれびとの祭りは、人界以前の混沌から人界の秩序が区切り出されてくるプロセスを演じ、反復する。

静的な区別と差別の秩序として固まった人界は、放ってくと平坦な土地に滞って溜まってしまう水の流れのように、徐々にその生命力・躍動力を削がれてしまう。

そこで、ある周期で人界と人界以前の混沌との間に再接続の通路を開き、混沌の区別以前のところから人界の方へと、区別を生じる力を引っ張り出しては、人界に注ぎ込まなければならない。その力によって改めて区別の線を引き直し、秩序の体系としての人界を再生させるのである。

仮面来訪神(まれびと)たちがそこから出現する海岸の洞窟は、陸と海地上界と水界、また地上と地下、生者の世界と死者の世界が、分け隔てられる地点であり同時に接続される地点でもある。

「ここでは超越的なものは特別な「空間」として、表現されているのである。[…]そこでは過去と未来がひとつであり、時間と空間がひとつに溶け合って、神話の思考法でなければ入り込んでいけないようなアトポス(非場所)をなしている。」(中沢新一『精霊の王』p.160)

海岸の洞窟というのは、人界と異界、二つの世界を区別しつつ一つに結ぶ。海岸の洞窟というのは、この人界と異界との分離と結合という矛盾しながら一つのことであるプロセスそれ自体を象徴する。

こうした「空間」から、仮面来訪神は「発生」してくる。

折口の「まれびと」と善竹の「宿神」は、[…]どちらもそれぞれの概念の背後に、胎動をはらんだ母体(マトリックス)状の超空間を抱えている」(中沢新一『精霊の王』p.161)

マトリックス状の超空間、つまり区別以前、分節以前の混沌でありながら、そこに区別しようとする傾向、分節化しようとする傾向を強力にみなぎらせれた「空間」から発生した最初の存在の姿が仮面来訪神達である。

そして何を隠そう、「翁」もまた、そうした存在なのである。

区別以前でありながら区別の線を引く傾向に充満した空間から発生したばかりの未分化の細胞のような仮面来訪神(まれびと)たちは、人間の日常の意識においては区別分節され対立される二つの事柄を、二つのまま一つに担った(一つにしつつ二つのままにする)姿をしている。

仮面来訪神は「動物」でありながら「植物」である。

動植物の区別を超えた生命体でありながら生命以前の土砂や泥であったりもする。

さらに人間のようでありながら人間ではない何かであり、何よりも村の若者でありながら普段の彼らではない「神」である。

仮面来訪神は生命と非生命、動物と人間、植物と人間、動物と植物、海のものと陸のもの、生者と死者といった、人間の日常の表層の意識においてははっきりと区別され、互いに混じり合うことのない対立関係にある二つの事柄を、二つに分離したまま一身に帯びる

仮面来訪神はそれがそこから出現した背後の「空間」(海岸の洞窟)と一体のものであり、その空間そのものが、日常を生きる私たち人間の表層意識でも分かる(わかりつつもわからない)形に「現れ」た姿である。

「この超空間の中では、生と死、過去と未来、時間と空間などがひとつに溶け合っている。そこには過去の死者たちの霊もいれば、未来に生まれてくるはずの未初の生命が、夢見をまどろんでいる。すべての幸福と富もそこからやってくる。[…]そのような超空間とわたしたちの現実世界は、ふだんは接触しあうことがない。ところが、盆の季節に限っては、そこに通路が開かれて、にぎやかな歌と踊りとともに、翁や媼のかっこうをした祖霊が、万霊を従えて生きている者の世界に立ち返ってくるのだ。(中沢新一『精霊の王』p.162)

翁は「空間」「超空間」である。そこは未分化でありながら分化へと向かう強烈な傾向が充満した空間である。

転換力、置き換えること、二を二のまま一にする

能楽の「翁」もまた、(1)生きている者たちの世界と、(2)死者と未来未生の子供たちが一つに溶け合った絶対的未分化でありながら強烈な分化の傾向に漲る「超」空間との間に、通路を開く術ということになる。

この超空間の方を、人間の言語などというもので記述したり論じたりすることは不可能に近い。超空間の「動き」は「意味するということ」を可能にする区別の反復と置き換えの反復のプロセスの、もう一つ手前にあることで、後者の中に前者を繰り込むようなことはできないのである。もちろん繰り込むことはできなくても、仮に後者の中に前者の影の一端を投げかけさせることはできる。そういうわけで、この前者、超空間の「動き」を名で呼ぼうとすれば善竹が『明宿集』の冒頭に書いたように、「大日如来」というようなことになる。

この人間にとっての現実と、超空間との通路を開くことで、しばしば殺伐と荒廃し「もうダメなんじゃないか」といういう感じになっている死にかけたように生きている私たちの世界に、再び生命力と活力と増殖力などなど(中沢氏は「生命と意識の源泉からの力」と書かれている)が降り注ぐのである。乾いた大地に降る雨のように。

「宿神=シャグジ」的な超空間現実の世界は、薄い膜のようなもので隔てられていて、二つの異質な領域が境界をなくしてしまうということは起こらない。そのかわり、この境界膜のところでは、たえまなく「転換」の過程が繰り広げられている。そのおかげで、現実の世界は計算のできないもの、予測のできないこと、現実の枠をはみ出していく過剰したもの、要するに生命と意識の源泉からの力を、受け取ることができるのである。(中沢新一『精霊の王』p.163)

翁がそれと同体であるとされる住吉の神は、海水、塩による「禊祓い」の力を持つとされる。それは穢れたものを清浄なものへ、「穢」と「浄」という素朴な日常意識にとっては至る所にありふれている区別=対立関係を「転換」させる力である。

あるいは、こちらも翁と同体とされる海幸彦山幸彦神話の「塩土の翁」もまた人界の者である山幸彦を、水界へと深く潜ることができる者へと「転換」させる。ここにで陸と海、人界と水界という、これまた日常意識にとっては至る所にありふれている区別=対立関係が「転換」されるのである。

「海幸・山幸」神話とほとんど同じ内容を持つ神話は、ポリネシア諸島に広く分布している。類似の構造をしたこれらの神話では、海と山、天と地、男と女、大人と子供、自然と文化などの対立しあうものの間に新たな媒介が発見されるプロセスが、主題になっている。そして調和をなくした状態媒介をもたらし、世界の姿がダイナミックに転換していくことを可能にする神秘の動物や精霊などに、とても大きな意味が与えられている。(中沢新一『精霊の王』p.176)

中沢氏によるこの一節は、レヴィ=ストロースの神話の論理のエッセンスでもある。ここで「翁」もまた「媒介をもたらす」精霊のひとりである。

翁は、超空間と人間にとっての現実の空間との接触面に、向こうからこちらへと顕現・発生する顔、植物で作られた人間の顔である。

冒頭で書いたように、善竹は在原業平も翁だとする。

なぜ、業平が翁なのかといえば、業平も和歌という「喩の力」によって、互いに区別され対立関係にある二項(特に「男と女」のような)を媒介し、結びつけ、二にして一かつ一にして二の状態を作り出す力を持った者だからである。

あるいは善竹は、三輪山もまただとする。

なぜ、三輪山が翁かといえば、三輪山は古代、弥生時代以来の拓かれた水田地帯である奈良盆地と、泊瀬川上流の山々とが接触する境界であるからだ。奈良盆地の水田地帯へと生命力をもたらす根源的な力である「太陽」は、三輪山の奥、泊瀬川上流の山々の方から登ってくる。

こもりく」と呼ばれるあのあたりは大神神社はもちろん、十一面観音で知られる長谷寺や、その近くの與喜天満神社など、自然と人間、超空間が人界へと現れでてくる媒介の諸形式を一箇所に集めたような、素晴らしい場所である。そして泊瀬から東へ東へ、太陽が登る方へと進んでいくと、ついに山を抜けて海へ出る。そこに伊勢神宮がある。

そしてもちろん、善竹は伊勢もまた「翁」であると書いているわけである。

以上、ここまででも大変な話であるが『精霊の王』の本題はここからである。

これは次章以降の話になるが、翁と同体である伊勢の天照大神は天皇の祖先として崇敬を集めていることは言うまでもない。天照大神は人界の王者の始まりであるが、その原点には人界を超空間から区切り出すという、人界が人界であり人間が人間であることの根源にふれる、神秘的で神話的な思考が生きているのである。

続く


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