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比喩の4項関係と、比喩としての意識 -ジュリアン・ジェインズ著『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』を読む

ジュリアン ジェインズ著『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』を読む。

今回は下記の記事の続きですが、今回のみでもお楽しみいただけます

上の記事で整理したように、ジェインズ氏は「意識」を生み出すのは「言葉の比喩」であるという。

どういうことだろうか?

比喩というのは何かを何かに喩える(「彼はまるで〜〜のようだ」というような表現)ことだけれども、それは単に気の利いた作文テクニックということではない。

比喩について、ジェインズ氏は次のように書いている。

「具体的な比喩は、私たちを取り巻く世界を知覚し、理解する力を著しく増強し、文字通り新たな事物を生み出す。実際、言語は知覚器官であり、単なる伝達手段に止まらない。」(『神々の沈黙』p.65)

比喩によって、私たちは未知の何か既知の言葉に置き換える

言語以前の何事が言語という4項関係を最小単位とする分節システムに投げかける影のようなもの。この後者に前者を「例える」ことこそが、複雑で多様に変化する謎めいた周囲の環境を、私たちがわかる=分ける=分節する=理解するということの正体である。

ここで意識も比喩である。

それはどいう事かといえば、つまり「私の意識」「意識ある私」というものは、比喩を生み出すメカニズムいくつかの言語表現(意味分節)のパターンを材料にして作り出した一つの例え話、バーチャルなアバターのようなものだという事である。

「肉体を持った「私」が物理的な環境の中を動き回り、あれこれ見て歩けるように、アナログの<私>も<心の空間>を「動き回り」、様々なことに「注意を向け」て集中できるようになる。意識の働きはどれも、こうした行動の比喩や類推に基づいており[…](『神々の沈黙』p.544)

そしてこの「行動の比喩」ということを可能にするのが、他でもない「言葉」なのである。

意識というのはいくつかの特定の言葉の組み合わせ方(意味分節システム)をある種の定型的なパターンで繋ぎ合わせてできたアバターである。

そのアバターの向こうには、意味分節システムそのものを多様に発生・消滅させるメカニズム(これが比喩を生み出すメカニズムと同じである)が動いている。

先走りすぎてしまった。ジェインズ氏の言葉に戻ろう。

比喩の4項関係

比喩は「四つの部分に分けられる」とジェインズ氏は書く。

比喩は<比喩語>、<比喩連想>、<投影連想>、<被比喩語>という4項の関係からなるとする。

意識が言葉の比喩によって創造された可能性を示唆する[…]。意識は表現の具体的な<比喩語>とその<比喩連想>から生まれ、機能的な意味でのみ存在する<投影連想>を投影する。さらに、意識は自分自身を生成し続ける。新しい<投影連想>の一つひとつが独立した<被比喩語>となり独自の<比喩連想>を持つ新たな<比喩語>を生む能力を持っているのだ。(『神々の沈黙』pp.77-78)

図にすると次のような具合である。

<被比喩語>= <投影連想>
|       |
<比喩語> = <比喩連想>

何のことだか、例を見てみよう。

ジェインズ氏は「雪が毛布のように大地を覆う」という例文を挙げる。

雪が毛布のようだとある。

「雪」が「毛布」に喩えられている

この場合まず「雪」<被比喩語>(喩え「られる」側)である。

そして「毛布」<比喩語>(喩える側)である。

ここで<比喩語>には、比喩語から連想される(つまり比喩語ともともと置き換え関係を結んでいる)いくつかの項がある。例えば「毛布」から連想される「目覚めの時が来るまでの暖かさや、守られている感覚、まどろみ」といったことであル。これを<比喩連想>という。

そしてこの「毛布」の<比喩連想>(目覚めを待っている感、暖かさ、守られている感)たちは、今「毛布」と「雪」が比喩語と被比喩語の関係に入ったことで、被比喩語「大地を覆う雪」と結びつく。もともと「毛布」と結びついていた「暖かさ」のような<比喩連想>たちが、そのまま「雪」と結びつくのである。この新たに雪と結びついた「暖かさ」たちを<投影連想>という。

<   雪   > = <暖かさ、目覚めを待っている感
|              |
<   毛布    > = <暖かさ、目覚めを待っている感>

このように比喩ということは四つの項の間に「異なるが、同じ」という関係が結ばれることである。

この四項関係については、南方熊楠が「燕石考」で検討した「神話」の思考の分析にも登場するものであり、とても興味深い。

なお、この雪を毛布に喩える比喩がおもしろいのは、通常の意味のコードでは「大地を覆い尽くす雪」が「寒い」「冷たい」「凍てつく」「もうだめだ」という寒くて苦しい連想を呼び起こしがちであるところで、あえて寒さや苦しさとは真逆に鋭く対立する暖かさや期待に満ちた喜びへといったことをつなぎ込んでくるところである。

ここで「大地を覆い尽くす雪」の意味が、寒く苦しいことでりながら、暖かく喜ばしいことへ二重化したのである。

雪は、寒いけれど暖かい、冷たいけれど暖かい、静の世界だけれども動への立ち上がりを隠している、といった具合に「両義的」になる。

ある言葉を両義的にする比喩は、詩的に素敵な比喩である。

ある語は、それが比喩語の位置を占めるにせよ、被比喩語の位置を占めるにせよ、比喩語から連想される語の位置を占めるにせよ、いずれにしてもその語だけで単立しているわけではない

語は必ず、対立関係にある語とペアになっている

寒いに対する温かい、放り出されている感じに対する包まれている感じ、といった具合である。

この対立関係もまた連想である。そして連想こそ、前回の記事に書いたようにジェインズ氏が「意識の神経基質」ではないかという脳の「網様体賦活系」が引き起こす、過去の様々な記憶(言葉を知っているということを含む)や現在の様々な感覚器官からの信号を結びつける働きの現れと考えられる。

ここでジェインズ氏の論からは離れてしまうが余談を一つ。

この結びつきには、同じ方向を向いている項同士の結びつき(+と+、−と−)と、逆の方向を向いた項と項の結びつき(+と−)を区別することができる。ここに踏み込んでいるのがクロード・レヴィ=ストロース氏の神話論理である。詳しくは下記の記事に書いているのでよろしければ参考になさってください。

また、異なるものを異なると分けつつも一つにつなぐ「比喩を生み出す能力」こそが、プラスでもありマイナスでもある両義的な項の存在を可能にし、それこそが人類の創造的な知性の根底を支えているというのは、中沢新一氏の「レンマ学」の考えでもある。


意識は何の比喩か??

さて、「意識という比喩」もこの比喩の4項関係から生まれるというのであるが、どういうことだろうか?

<被比喩語>= <投影連想>
|       |
<比喩語> = <比喩連想>

意識は、私たちの言語表現の<投影連想>によって生成されるときは<被比喩語>だ。しかし、意識の機能はいわば複路だ。復路では、意識は私たちの過去の経験に満ちた<比喩語>となる。未来の行動や意思決定など未知のことや、部分的に覚えている過去、私たちがそもそも何者であるか、そして何者になるかについて、たえず選択的に働きかけている。こうして生まれた意識の構造に基づいて、私たちは世界を理解する。(『神々の沈黙』p.78)

意識はまず<被比喩語>の位置にはじまる。

それは未知の謎であり、私たちはそれが何であるかを知りたいという衝動に駆られる。してそこにいくつかの<比喩語>を結びつけることで、私たちは「意識とは、既知の例のアレである」と言う具合に謎を説いたことにするのである。

意識を自らに例えて説明しようとする<比喩語>たちとセットになっている<比喩連想>たちは、そのまま<被比喩語>(つまりこの場合は「意識」)への<投影連想>となる

そうして未知の謎である意識という<被比喩語>は、既知の<比喩連想>に置き換えられて、多少なりとも「わかる」「知っている」ものになるわけである(「意識とは何か」と言う哲学的科学的問題設定と、それに対して与えられる答えの関係もまたこれである。)。

ここでジェインズ氏は、「意識」が喩えられる相手(比喩語の比喩連想)には「物理的な世界における行動」に関する言葉が選ばれると指摘する。

主観的な意識ある心は、現実の世界と呼ばれるもののアナログ(=比喩)だ。それは語彙または語句の領域から成っており、そこに収められた用語はいずれも物理的な世界における行動の比喩、言い換えればアナログだ。」(『神々の沈黙』p.73)

意識は「物理的な世界における行動」に関する言葉たちからなる。主観的な意識とは、語彙や語句、言葉によって構成されるフィールド(場)であるという。

意識ということを分節化する<比喩語>たちと、その<比喩連想>には次のような種類がある。

1)「空間化」する言葉:あれこれの物事を空間上に分けて配置する言葉(例えば、内と外、こことそこ、近くと遠くなど)。
2)「抜粋」する言葉:多様に変化する物事の中で、特に注意を向ける部分を抜粋する用に働く言葉(例えば、「あの男の目を見てごらんよ」とか)。
3)「アナログの私」:「「想像」の中で私たちの代わりに「動き回り」、私たちが実際にしていないことを「する」」<私>についての言葉(『神々の沈黙』p.83)。
4)「比喩の<自分>」:「遠回りの道をそぞろ歩く自分の姿を想像する時」など、景色や場面の中に<私>がいる姿を想像させる言葉(『神々の沈黙』p.83)。
5)「物語化」する言葉:「自分の人生」という「物語に出てくる主要な登場人物として」の <私>にまつわる言葉。
6)「<整合化>」する言葉:整合化とは「知覚された対象がやや曖昧なとき、それを過去に学習されたスキーマに整合させる過程」である(『神々の沈黙』p.83)。「これは結局のところあれと同じだよ」という具合に用いられる言葉だったり、決まり文句がこれであろう。

六番目の整合化は、未知を既知に置き換えるということ、現在の感覚知覚を記憶に結びつける処理であり、意識以前の比喩する4項関係の発生、言語の発生を引き起こす原始的な機能である。この切り離したり結び付けたりする動きは脳を軸とする神経ネットワークの接続と切断の多重接続スイッチング・システムによって動いているものと思われる。

意識、二分心、象徴

ジェインズ氏はこうした比喩としての意識は、紀元前2000年ごろにオリエントの複雑化した社会を持つ都市で生まれた、という説を提唱する。その理由は後ほど詳しくご紹介するとして、面白いのはこの意識が生まれる「前」の話である。

ジェインズ氏はこの本で「二分心説」という仮説を提唱する。

それは即ち、人農耕牧畜を始めるしばらく前から紀元前2000年ごろまでの人類は脳の右半球が発生させる幻聴に命じられて行動しており(この命じる声が ジェインズ氏のいう「神々」の声である)、上で論じたような「意識」型の比喩システムは用いていなかった(つまり意識を持っていなかった)、とする説である。

そして紀元前2000年ごろから徐々にこの幻聴の声を聞かない(幻聴の声が聞こえない)ようになり、その沈黙を埋めるように比喩による意識のシステムが使われ始めた、とするのである。

意識というのは比喩のシステムが生み出した一つの産物であるが、それは言語のシステムと脳のシステム二分心)がハイブリッドになったシステムを転用したところに発生した、というのである。意識よりも先に二分心があり、言語があり、そして言語の手前には比喩ー連想ー異なるものを一つにまとめる脳の性能がある。

象徴型の記号へと至る言語への進化

ここでいったん『神々の沈黙』を離れて、言語の進化ということを考えてみよう。

人類に限らず、多くの霊長類の社会は「個体間の意思疎通によって成り立っている」ことにジェインズ氏は着目する。

霊長類は毛繕いや鳴き声や表情など、触覚、聴覚、視覚にまたがるさまざまな合図を互いに送り合いながら、群れの秩序を生み出し、維持しようとする。200万年前のヒト属の祖先も、やはり同じようなことをやっていたのだろうと推定される。

こうした合図は言語のベースになる基本的な象徴作用へと発展する。

言語というシステムは、C.S.パースがいうところの「インデックス」と「イコン」と「シンボル」という3重の置き換え=連想のシステムによって支えられている。

インデックスというのは例えば、まだ暖かいライオンの糞が落ちていれば、近くにライオンがいるとわかるという類のことで、ライオンそのものの一部から記憶されたライオン全体を思い出すということである。このインデックス的な置き換えは、人間に限らず、霊長類に限らず、さまざまな動物がやっていることである。

これに対してイコン的な置き換えというのは、例えば○と組み合わせられる三角の向きの違い(▽か△)で、「男女」の区別を現すというように、物自体としては直接の関係がない事柄を「違うけれど同じ」と結びつけることである。

言葉のうち、特に五感で捉えられる物の名前のようなものは、イコン的な置き換えの一例である。あの青森や長野の名産である赤くて丸い果物と、「り・ん・ご」という音の流れは、全く別の事柄であるけれども、私たちはこの両方を「違うけれど、同じ」と置くことで、りんごという名前を得ている。

例えばある群れのメンバーが「ライオンが接近している」様子を目撃したときに、いつも繰り返し同じようなパターンで叫び声を上げるということが行われる場合、まだ直接ライオンを目にしていない仲間たちも仲間の叫び声を聞いて「迫り来るライオン」を連想することができる。この場合もイコン的な連想が生じているわけである。

ここから発展しイコン同士を互いに「異なるが、同じ」ものとして置き換えるようになると、シンボルが、私たちが言語だと思っているシンボルの連想システムが始まることになる。

(イコンとシンボルの違いについては下記の記事に書いているので参考になさってください。)


インデックスからイコンへ、イコンからシンボルへと、外界の知覚とは別に「恣意的」に組み合わせることができる言語的記号システムが発生してくる。

その中から言語という象徴からなる自在に動かすことができる分節システムが発生し、この言語的象徴システムの「一副作用」として、幻聴を発生させる二分心が発生したと考えることは「最も納得のいく仮説」であるとジェインズ氏は書く。

さて『神々の沈黙』が本格的に面白いのは、この「二分心」から「意識」へと切り替わる様を、メソポタミアやエジプトの文明が残した記録の中から読み取っていくところである。

1)比喩システムとしての意識はいつ、どこで、どう始まったのか?

2)意識を持たない時代の「二分心」とはどういうもので、いつごろからあったのか?

3)意識が始まるきっかけとなった「二分心」の一方、脳の右半球からの「神々の声」が沈黙したのは、いつ、どのようにしてか?

この3)の「神々の沈黙」とそれを埋めるための意識という比喩の始まりは、前2000年紀に千年間ほどかけて進行したプロセスであるとジェインズ氏は書く。

この辺りの詳しい話は、次回に続きます

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