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よしなしごと・人類学的思考・ハッシュ関数・余剰の定理・宇宙際タイヒミューラー理論

ぬるい風が吹くようになった。雨上がりの舗装された道路に埋め尽くされた街は、どうしようもない匂いがする。どうしようもない。伝えきれなかった言葉、通り過ぎてしまった誰かの残響を追いかけて、いつのまにか取り残されていたことを知る。

端的にいって、忙しい。忙しいけれど、多忙が悩みを無意識の方へ押しやる。それがいいことか悪いことか、わからない。ただ予感できるのは、この忙しさを振り返った時に、それが役立ったかどうかという点のみにおいて、判断されうるのだろう、ということだけだ。

ある人から質問された。「これやっておけばよかったな、という後悔、なかったですか」。どうなのだろう。後悔と呼ぶべき感情は、いくつも存在している。けれど、それを悔やむべきではない、とも思う。そこに付されるべき感情は、どちらかといえば憐れみや、想起や、愛しみなどのような気がする。あの時の感情を、私は今でもありありと思い描くことができるけれど、それを悔やむことはない。水が私の手から滑り落ちて、地面へと落ちていくようなそれ、そうした回顧。落ちていくことはしかし、他方では接近でもある。石は、そこにあるのではない、中心から求められているのだ。恋に落ちることは、二人称たるあなたへ近づいていくことなのだし。

最近考えていること。人類学的な考えかた、エスノメソドロジー、日常知の看取方法。

インデックス最適化、ハッシュ関数、modによって導き出される剰余。ある画像を印象測定にかける時の視線。画像(=縦方向と横方向、いわばxy存立平面)それぞれに潜在しているピクセル(=RGBの尺度)、この意味で3次元情報になる。かつ、色空間に照らし合わせた印象の基準(=16種類)を組み合わせ、4次元情報へと転化させることができる。

多次元の情報を、解析するときの視線。それぞれのピクセルをハッシュ関数最適化でそれぞれのスレッドへ渡すとき、そこにある属性は、余剰によって振り分けられている。

ソシュールの記号論やラカンの精神分析理論を踏まえながら、ドゥルーズは「シニフィアン連鎖」を提示する。それは常にすでに余っている。シーニュとシニフィアン、あるいはシニフィアンとシニフィエの対応関係は、必ずしも決定的ではない。他の宛先へと送付されるそれは常に余っている。

詩的言語は、この意味で規定されるのだとすれば、その余剰性、不確定性、未確定性、曖昧性、それが、深みを生み出し、ざらついた平面をもたらす(ざらついてはいるけれど、しかし何かを信じることはできる)。

あれ、と、これ、のあいだ(=事物と意味、シニフィエとシニフィアン)は、切断によって規定される。も、や、と、から、もしくは……それは、あれとこれのあいだの空間の切断の様態によって区分される。あれ(A)からこれ(B)の間に、いくつものくさびが打ち込まれる。それは澪標であり、標章であり、我々の目(感覚・知覚)でもある。一方で、余ること、その状態では、その切断はマルチチュード化する。切断、およびその間隙(AとBの間、M)の様態はリゾーム的に延伸(するかもしれないし、しないかもしれない)する。それは時にフィードバック的様態も取るし、時空間を超えることもある。メッセージ意味内容の多義性は、この意味で担保される。それは、コードやディシプリンの影響を受けつつ、しかし影響を受けない(意味内容が多義化するという構造そのものは変容しない)。社会構造によって規定されるディスクールは、その内容を時空間によって変容させるが、しかし「発された」という事実は揺るぎないのだ。

そして、AとBの間隙を(距離を)決定させるような切断は、未然になる。それは「nマイナス1」であり、同時に、予感される。私たちがいまだに何かを信じることができるのは、この予感作用の恩恵でもある。ヒューマニティと予感は、分かちがたい。

ポストは、その意味で、予感の・未然の構造である。それに投稿したことまでは、所有されるが、その宛先(へどう届くか)は、所有されない。私は、そのメッセージが届くことを信じるより他ない。余る祈り、余る願い、思いやり、「私はあなたのことを見ているよ」。誤配される接続詞、常に余る手紙。

書き手は、接続詞をマルチ化させる。多次元化させる。未然にさせる。ハッシュ関数で導かれる個々のデータ、その引導。それは余る。未然になる。左方決定木。クエリ発行に従って整列されるいくつもの手紙。

【mod (vague) = still】の方程式。曖昧さの余剰は、未来へ向かう。それは、つまり曖昧さを持つということは、未来へ向かう一種の予感症状。感染しているかもしれないし、しているかもしれない。偽陰性、偽陽性。剰余、すでに余っている手紙の宛先は、それ自体が未来へ捧げられる歌になる。未来にあるだろうヒューマニティが、まだ可能であるように、祈られるミサ。ミサはアウラ的だが、交響曲が非アウラ的であるならば、私たちはむしろアウラを奪還しようとしている。【-ing】であることそれ自体が、すでに未来の顔をしている。曖昧さから導出される動的作品(開かれた作品)は、動くという点において、【-ing】である。そうした行為、行為そのものがはらむ、どうしようもない人間性(動物性)。過去は、過去そのものを指し示すことはできないが(私たちもそうだ、即自のみが即自にアクセスできる)、未来は、私たちが予感することの(指し示すことのできる)虚構だ。もちろん、過去も物語化行為によって、名称可能になる。しかし、それは常に「固定」を持つ。名前という祈り、神託、束縛によって、それはそれになってしまう(過去はリゾーム化しにくい)。

想像のためのエクリチュール、想像のための場。根源的なイマージュ、ファルス的な理解、そこへ収斂していく。未来は常に不確定で、ゆえに、曖昧さは、未来から見て、「そう」だと言える。未来から見て、それは、曖昧であるがゆえに、許容可能だ。(未来から見て、確定的なものは、存在できない)。

テンソル。余剰。私たちの多義的な現実・動的な世界・常に生成変化されるそれ、これらを分析するとき、そこにある余剰は何か? ハッシュ関数で、世界を最適化させるとき、余るものは(余らせるものは)何か? 最後に、それでも、しかしやはり、残るべき残余の存在。それが、ヒューマニティだろうか?

人類学的に考えること。むしろ、同じものを別のものとみなすことだろうか? モースやポランニーは、別のものを同じものと見做した。差異から導出される同質性。ポアンカレは、異なるものを同じものと見做したが、次なる数学では、同じものを異なるものと見做す(宇宙際タイヒミューラー理論)。二乗された空間では、当初の数学宇宙へと還元できない。

虚数解。実数全体の集合をどう定義すべきだろうか? 虚数は、虚軸によって存立平面を獲得するが、それらが二乗されたとき、x^2と(iy)^2のそれぞれの軸が必要になる。そのとき、それらはどうつながるのだろうか? 二つの異なる曲線は交わるのか?

定義域。私たちの世界は(歴史)は、テクストによって定義されてきた。BCとACと隔てるものは、言葉である。歴史は言葉だ。

言語によって定義された私たちの存立事象地平面。ある意味で、言語から脱出せねばならないという感覚は、それによってもたらされる。ならば、私たちは、宇宙人を考えなければならない。私たちは、言語以外によって(というより、私たち自身を全く用いずに)、私たちをどう説明するのだろうか? AはAではない集合によって規定されるが、私たちではない集合、もしくは空集合は何か? ヒューマニティにおける空集合(φ)は何か? 曖昧さ(φ)とは何か?





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