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飽きること・夏の終わり・それが優しさという苦しみ

やっと細々とした事務的作業に落ち着きの兆しが見えてきたので、息抜きを兼ねてnote記事を書こうと思う。いつものように、90分一発勝負で書き上がったものをそのまま公開するスタイル。私はいつも、文章を校正したり推敲したりといったことをしない。内側から溢れてきた言葉をそのまま曝け出す方が、性に合っているように感じるからだ。とはいえ勿論、書き出すまでに何も構成や内容を考えていないわけではない。取り留めのない言葉や感情が脳内に迸ってはある印象を残していく。その残滓を必死に脳内に留めながら、光芒を追いかけて、言葉や構成や一種の連合体を綴っていく。

秋という言葉が聞こえてくる。あき、秋、飽き。夏の眩しさに当てられたようにいろんなものに手を伸ばしては、揺らめく感情や気持ちにときめきを覚えて、必死に掴みかけたものに「飽き」ていく季節、それが秋なのだろうか。大雨が降って、一気に冷え込んでしまった。

元来、私という生き物は、秋や冬といった季節を愛していた。寒さによって透徹した空気の中で、自らの生きている確かな温もりを感じながら過ごす季節が、私という生き方にするするとぴったりと当てはまっているように思える。特に、鼻先がつめたくなるあの感覚が好きだ。マフラーを巻きながら、自分のつめたい鼻梁に触れて、冬の刺すような空気を吸い込む。ひび割れたような青空にたちのぼる吐息が、薄い陽光を受けて微かなプリズムを反射させる。孤独で、冷え切った世界の中で、ひとり静かに、私という存在を、私が引き受けることのできるあの時間を、愛している。

けれど、いまは、秋がきてほしくないと思う。切望というにはその温度は低い。だがしかし、秋という言葉の響きに疎ましさを感じる。落ち葉の色や、孤独の匂いや、マフラーの手触りや、ブーツの響く音が、遠い。まだ、曖昧でいてほしい。夏という、下らないことばかりを思い出して、希死念慮を薄めたスープをそこらに噴霧したような不愉快な湿気ばかりの季節が、まだあって欲しい。無論、湿気をたっぷりと吸って、まるで屋根裏に住み着いたネズミの腹のように粘ついた手触りになってしまったベッドシーツや、窓を開けるたびに流れ込んでくる死者の匂いを孕んだ空気や、どこからともなく匂ってくる線香、それら一切を嫌っていることに変わりはないのだけれど。

生きるとか死ぬとか、彼氏だとか彼女だとか、幸せとか不幸せとか、どうだっていいし、どんな性別も、どんな言葉も、どんな服も、今の状況には好ましくないと思う。

「生きるのが上手いってのは 傷つけるのも上手いんだよ 自分の事すら」どストレートなロックの刺すような音がヘッドフォンから漏れる。私は悲しい存在だろうか。普通に生まれることもなく、普通の人生を歩むこともなく、自分で自分のことを嫌い、人の言葉に怯え、どちらの性別をか好くこともなく、中途半端なところで漂っているだけだろうか。イタい文章や勝手な御託を並べて嘲笑されるだけの薄汚いマリオネットだろうか。

秋。秋を思い出そう。

6月だったかもしれない。11月だっただろうか、いずれにせよひどく寒い日だった。高校生だった私は、作業のために夜10時ごろまで学校のPC室にこもり、ひたすらインタビューの文字起こしや文章の校正作業をしていた。学校内の階段を上り切ったところにある空間で、頼んでいたはずの仕事を直前になって全て私に投げ返した彼の顔。同級生からネット上で陰湿な嫌がらせを受け、私に泣きついてきた彼女の顔。出来上がったものに文句をつけるだけの彼の震えた手。人は、どうしようもない理屈を捏ね回して暴言を浴びせるとき、手が震えるのだと知った。頼んでいたはずの仕事はいつしか全て私のところに戻ってきていて、数少ない友人となんとか仕事をやり直したこと。何度校正しようとも直らない印刷ミス。あの時の精神状態は限界に近かったと思う。歩きながら泣いていた。次の日に髪の毛を切りに行き、髪を切り終えて、鏡に映った私を見て、私は言葉を無くした。あまりにも自分が惨めだった。目の前にいる自分が自分であるということを認められなかった。それは見た目がどうこうという話ではない。私という存在がこんなにも「どうでもいい」ということに、存在の薄さに、耐えられなかった。言葉が出ないまま、会計を済ませ、美容院の駐車場にあった電柱の元に座り込んだ。泣いている理由もわからないまま、ただお金をかけただけの毛髪だけが私にまとわりついていて、生きているだけなのに排泄や食事や嘔吐はいつものようにあって、雑誌で見かけたような下らない服が私の皮膚に張り付いている。このとき書いていた小説のような形式の文章を思い出す。

わざわざ六本木で何を喚いているのだろう。かなしくなる。この言葉を吐くこと自体、意味なんてないのだと思う。だから結局のところは、そんな言葉を吐いて他人を巻き込んでいる僕には存在意義はあるべきではないのだと思う。
「結局存在意義とか無いし生きるのはこんなにも辛いのに死ぬのなんて一瞬じゃん。あっけないんだよ、さっきまで動いてた心臓が弾けてなくなるんだよ、有機物になるんだよ、セイシンビョーとかウツビョーなんて言ったって結局有機物のゴタゴタじゃんか」
 何を当たり前のことを言っているのだろうと自分でも思うけれど、当たり前のことが当たり前に感じられないのだし、のうのうとコンビニでジュースを買ってせいぜい頑張って測っても六畳程度のアパートで眠っている奴らがどうしてあんなに笑っていられるのか分からないし普通に働いてフツーに生きてんのか分からないし自分の思考すら分からないし何が分からないのかも分からない。分かんないことだらけなのに映画の中ではバタ臭い顔の奴らが「I KNOW」と台詞を読み上げるし、それを見てさも重大なことのように受け取る観客(相変わらずポップコーンを貪っている)にも存在意義があるように世の中は回っていることにも分からなくなってしまう。





 彼の言葉を聞きながら、僕は自分の葬式を想像する。バッハ無伴奏バイオリンのためのソナタ第二楽章を脳の中で聴きながら。僕の鼓動が止まったとして、腐敗を防ぐためのドライアイスでこの肉体が凍結させられたとして。一体、誰が僕のために純粋に泣いてくれるのだろうか、と思う。利益を求めずに、純粋に。僕がいなくなっても、きっとこの世界は普通に回っていくし質量保存の法則は保たれる。所詮、僕は唯の有機物でしかない。そりゃあ、泣いてくれるだろう「ヒト」にしたって有機物に変わりはないのだけど、僕よりはきっと価値があるだろうと思う。生命を喪った僕以外には何も入っていない棺桶を想像する。酷く滑稽だと思う。笑ってしまう。あまりにも可笑しくて。けれど、笑おうと思った瞬間に彼の涙が思い浮かばれた。彼。泣いてくれるだろうか。彼が僕のために泣くときに消費するエネルギーは、僕の人生と比べて妥当だろうか。
 ふと残忍性に満ちたイメージが脳を侵犯する。その残虐性、あるいは新奇性をもった、寧ろこの怠惰で驕慢な我が身の人生をも永遠に狂わせうるそれが現実味を帯びて脳内を跳躍する。波濤の音が意識の深部に沈潜して、残虐なイメージを遊園地にあるようなピンクやグリーンやイエローの風船で包み込む。その対比に脳は一層躍動して、飛び散る血飛沫の温さや頸動脈を押さえる感触までも想起させる。証明、いわば僕の人生に妥当な愛の……。

今でこそ、私の親戚や、近しい人は「医学部行けばよかったのに」ということはなくなったけれど、今でもその言葉は亡霊のように存在している。その言葉を振り払うために、その選択をしていたはずの自分を殺し続けるために、必死に努力しているのだと思う。自分の命を救うことも、自分の存在を掬い上げることもできない人間が、医者として他人の生命を握ることなど、できようか。なんのときめきも感じない世界で、必死に人体の構造を勉強しているかもしれなかった自分を思うと、吐き気がする。医学部に行けばよかったのに。他人の人生に安易に希望を委ねる言葉は、他人を傷つける。安易な優しさや、曖昧な手助けは、他人を苦しみの淵へと押しやってしまう。伝わらない言葉は、確かに人を苦しめるが、伝わってしまった言葉や、刺さってしまった言葉も、人を苦しめる。ならば、沈黙するしかないのだろうか。

私の日記に、こんな言葉があった。

20210618 コトバは常に現在地であり、澪標であり、ビーコンであり、遊泳灯であり、ハロゲンランプであり、サーモスタットである 言語化できないような感情を他人に差し向けることは、愛か憎しみのどちらかでしかない そのどちらかでさえ有り得ないような、未熟な、感情の幼形を、その双方以外のフォルムで相手に差し向けるな
20210712 終わりのない一人芝居、アプロプリエイション、真似事、シミュレーション、延々と、虚構の自分や他人を作り出し、都合のいい場面を再現し、勝手によがって、偽善者ぶって、すがって、自分で気持ち悪くなっている 現実を直視すること、過去を、歴史を、記憶を、哀れまないこと

自分で書いておきながら、私はいつも、「私であったはずの私」を哀れみ、殺し続けながら生きている。オルタナティブな私の、その可能性を勝手に醜いと決めつけて、今ここにいる私を全身全霊で肯定しようとしている。医学部に行っていたはずの私、聞こえていたはずの私、アートに関わっていなかったはずの私、生まれてこなかったはずの私、性別を捨てたはずの私、生命を捨てたはずの私…。そんな数多の剰余の可能性を埋葬しながら、悲しみを携えている。

考えてみれば、私が夏のことを嫌いなのは、こうした理由によるものなのかもしれなかった。殺したはずの私が舞い戻って、私の今を、今ここにあるはずの関係を、揺らがせるから。20歳というとき、「まだ取り返しのつく年齢」と言われるだろうか。私は私という存在に対して、取り返しがつくだろうか。けれど、世の中には、確実にある瞬間での取り返しのつかない偶然性(通常奇跡と呼ぶそれら)がある。あのとき、話しかけていなかったら、あのとき少しでも遅れていたら、と思うようなそれら。そうした偶然性を噛み締めて、夏という季節に(今年のところは)終止符を打つことは、あまりにも平凡な気もする。偶然とか奇跡とかなんとなくとか、そんな「取り返しのつきそう」な言葉で誤魔化したくない。もっと、確実な、ある一点だけをこれ以上ない精度で撃ち抜くような言葉や表現が欲しい。適当な、その辺を探った程度の言葉で、アートがどうとか、私がどうとか、あれがどうとかこうとか語っている人を見るにつけ、そう思う。人間の価値はお金に変えられないよ、とか平気でのたまう人に限って、金銭的な価値しか見ていなかったりする。「あなたが好きだ」という人に限って、平気で私を搾取する。下らない。

陶芸を思い出す。あのすべらかなつち、だらだらと回り続ける台、焼き締められた素焼きのぴんぴんした器たち。言葉を発さぬものに向かい続け、手のひらの中であるフォルムを生み出していくあの作業。本来、言葉とは、そういうものだと思う。自分の中で何度も焼成しながら、レトリックという釉薬をかけ、ポエトリーを生み出していく。一度立ち上がった高台は再び矯められ、また別の形へと変わっていく。日光が器の微妙な凹凸を浮かび上がらせ、指が表面をなぞっていく。いまや、言葉は空中に浮遊した吐瀉物である。何ものかを生む事もなく、輪廻する事もなく、腐敗する事もなく、ひたすら空虚な地平で、緩やかに回転している。形式的な断片で、別様の可能性もない、ただ平板で合理的で後ろめたさも恥じらいも後悔もない、楽しげな音だけが狂おしく鳴り響いている。

私が発する言葉も、そうした虚ろな忌まわしいほどの簡明さをもった言葉なのだとしたら、私はもはや表現する資格などないと思う。難しさや複雑さや曖昧さを、そのまま把持することすらできないのならば、怠惰な人間に堕したということなのだろう。誤解してほしくないが、これは私自身に対する戒律であり、誰かにこれを押し付けるということでは決してない。彼は、彼女は、あなたは、あなた自身の苦しみの中で良い。私の苦しみを、知る必要はないし、理解する必要もない。それぞれの苦しみや喜びを、それぞれの半透明な球体の中で持っていて欲しい。そうして初めて、世界は色に満ち始める。平板な苦しみは、色や表現を奪ってしまうから。

苦しみや痛みや——あのとき言えばよかった後悔、傷つけられた言葉、冷たい目線、胃が溶けるような痛み——それらを何度も何度も折り重ね、畳み込み、他者への恐怖や期待がある一つの中性子星になったとき、表現は一種のグロテスクさを持つ。ここまで踏み込んでいいのか、と思うほどの強烈な憎しみに似た磁場がある。けれど、それは期待や喜びや優しさでもあるのだ。他者への期待、愛して欲しいという期待、これでよかったという喜び、あなたはここに来なくていいという優しさ。こんな苦しみを味わうのは、私だけでいいのだから、と囁いてくる。人はこれを異常性と呼ぶのだろう。血を吐くほどの表現とは、そういうことだと思う。線の震えや、言葉の端々に滲む他者への尋常でない恐怖や、トラウマや、脳が痺れるほどのノスタルジーや、泣きたくなるほどの痛み。何も、命を捨てろとは思わないし、捨てるべきだとは思わない。けれど、私たちは(表現者は)、常にどこかで命を落とし続けているのだ。「そうであったはずの過去」や、「そうであるべきだった私」という未来を、何度も何度も執拗に切り刻み、いくつもの可能性という嬰児を中絶させている。表現は、出産行為に近い。世界という巨大な分娩室で、孤独きりで、叫びながら、世界を謳歌している。私も、そうでありたい。少なくとも、いまは。


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