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「人が多くて良かったです」・怒りという権利・反転する私たち

暗澹たる気持ちになってしまった。安易に感動したがる鑑賞者、全体展示の中で「一番有名な」作品を見出そうとする人たち、見た目の良さや大きさ、量の多寡のみでアート作品の「よさ」を測ろうとする態度、それらを醸成してきてしまった教育、エリート層と揶揄される文化構成体のなかにすら、見えてくるアイヒマン、陳腐な悪。太陽だけがいつも、正しい。授業を抜け出して、木陰で池に戯れる鴨を見つめていた。

大衆の暴力に抗うことは難しい。我々もまた、その大衆を構成する一人であり、その大衆性から抜け出すことはできない。宇宙人になれたらよいのに、と時折発作的に思うのは、これ所以かもしれない。もっと訳のわからない人間にならねば、と思う。あの人にチームラボの話をしたら殺される、とか。

一方で、私たちが(ごく限られた人たちが)有象無象の陳腐さに対して怒りを覚えるのは、どこに由来しているのだろうか。怒りは、正義に肉薄する。何かを正しいと信じ込んでいて、それに相対するもしくは反発するものを「認めたくない」と言い張る。その正しさは、どこに存在するのだろうか。アイザイア・バーリンの自由論や、自由意志、もといイデアの根拠にも近いのかもしれない。私たちはいつも、自由を追い求めながら、その自由がなんたるものかを知らない。一方で、自由を強く制限されたときのみ、声高に自由のなんたるかを説こうとする。食事が与えられないと、すぐに空腹を訴え、非人道的な扱いだと主張する。かたや、体重を理想の数値に近づけるために食事制限をし始めると、目の前に上質な食事があることに対し不平不満を述べる、「私はそれを食べない自由がある!」。

アートは、それ自体が自由と不自由の政治的問いを奥深くに孕んでいるゆえに、声を誘発する。それが善いことか、悪いことか。ないし、それがアートか、そうでないか。それは確かに自由な声であるし、私たちは、その声のプルーラル化を奨励している。開かれを持つことによって、アートはその意味で民主制を標榜するし、多重の作品像を持つ。文化によって異なるコードやディシプリン、アウラを巻き込みながら、ある一つの共通了解や地平を開いていく。

しかし同時に、私たちは激しい怒りを覚える。「Chim↑Pomの展示の中で、この作品が一番有名だと思います」「序盤の作品はあんまり良い雰囲気じゃなかったんですけど、後半になるにつれて、真剣さが見えてきました」「キラキラしてて綺麗で、感動しました」「人が多くて良かったです」。

私は、このことをファシズムだと断言している。一方、やはり、ファシズムだと断言すること自体、ファシズムの匂いを孕むこともある。しかし、それでも、私はこれをファシズムだと非難せねばならない。そういった責任が、キュレーターにはある。矜持を持って、歴史を踏まえ、線形的な理解を標榜した上で、それでもしかし、非難するのだ。

とはいえ、時折不安になる。マジョリティがこうである以上(マジョリティそれ自体がファシズムやポピュリズムと切り離せないものであるし)、私たちが覚える感情は、ただの徒労に過ぎないのではないか。そんなことを考えている暇があったら、もっと「普通に」幸せになった方がいいのではないか———インターン、就活、チームラボ、インスタ映え、流行り、倍速視聴——。美術館に年3回以上足を運ぶ人は日本人の2パーセントに満たないらしい。うち、アートに対して真摯な目を向けている人は、どれほどいるのだろうか(真摯な目とはなんだろうか、インスタ映えする場所を必死に探すこともまた、真摯ではないか?)。

先日訪れたChim↑Pomの「道」展示内で、わざわざ作品がない白い壁のところを探し出して自撮りをするカップルがいた。そのカップルの写真撮影が終わるのを待っている更なる別のカップルが複数いた。何もないところを、切望し、本来の作品のメッセージを一切汲まない人たちが、多くいる。皮肉なことに、彼らはその展示の構造上、下水に揶揄された幸福な鑑賞者たちを無理解に踏みつけもしているのだ。

私たちが持っている接続詞はいつも、反転している。「しかし」「それでも」「とはいえ」。彼らの持つ接続詞はいつも、反転しない。「だから」「やっぱり」「それで」。

旧劇エヴァで庵野監督のアンチになった彼らは、きっと「反転しない」人たちだったのではないか。現実世界と虚構世界(フィクション)が響きあい、それぞれがそれぞれを批判しあう構造に、耐えられなかったのだろう。ひ弱だったシンジくんもいつの間にか、世界の不条理を引き受け、「それでも」前を向いていく。ブラウン管テレビの画面を食い入るように見つめ、社会に接続することなく、引きこもっていたオタクくんたちは、その「それでも」に耐えられない。いつまでもミサトさんや綾波やアスカのもたらす甘美な夢を見ていたかったのに。世界は不条理「だから」、引きこもっていたい。

ならば、私たちは世界は不条理「だがしかし」、それでもその声を、手を、歩みを、怒りを、感情を、全てを、止めない。

少なくとも、私にとってはそれが責務だ。幸いにして、こうした怒りを共有できる人がいる。彼らのためにも、私たちのためにも、その怒りは持っていなければならない。それが正しかったのかどうかは、いずれ明らかになることだろう。民衆を導く自由の女神は、反旗を翻している———それまで正義とされてきたものたちに・かつての愚弄に・過去の栄光に———。




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