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「テスカトリポカ」、善人が眠り暴力が美しさを放つ時

前置きも能書きも断わりもサジェスチョンも予告編も全部いらない。下らない理屈と理由と言い訳なんか全部棄ててしまえ。何何賞受賞!そんなことなど知ったことではない。躊躇う時間と腹を満たすだけの脂肪と炭水化物のジャンクと砂糖水とアルコールを買う金があったら、即座にその時間と金を衣から吐き出し書店のカウンターに叩きつけ、唾棄するのと変わらない無様な時間と金をこの本の交換のために用いて奪い取って読むんだ。もちろん、深夜の孤独な部屋の中でネット・ブック・ショップの光り輝く画面から注文しこの物質としか言いようのない本の入った段ボール箱を受け取ってもいい。これは小説の振りをした物語を物語っているように見せ掛けた本の形に擬態した物質だ。これは本でも小説でも物語でもない。何度でも言うこれは本ではない小説ではない物語ではない。これは、地面を噛み砕き砂塵を巻き上げ疾走する重戦車の如き獰猛な機械状の言語体だ。人はその言語塊に蹂躙され粉砕される快楽に身を投じればそれでいい。生贄としてこの本に擬態した物質にその身体を丸ごと捧げろ。言葉を持つことの呪いを受け止めよ。

麻薬、快楽、金、血、心臓、恐怖、暴力、破壊

これは前近代と近代の知性の戦いでもあり、近代が退け失ったものたちによる前近代の復讐でもあり呪いでもあり、近代によって完膚なきまでに破壊され敗れた前近代の復活であり前近代と近代の融合である。その荒々しき神々の子供たちは、現代の鋼鉄の武器を纏い完全武装し前近代の血の情念の体現者として、金属とコンクリートとアスファルトとガラスとプラスチックと電子データで構成される現代の都市の闇の中を跋扈し、その内なる血と内臓の鼓動を鋼鉄の散弾としてぶちまける。

ページをめくる手がもどかしい、次はどうなる次はどうなると、ページをめくってしまう。でも、一方で、ページをめくってしまうとこの小説が終わってしまうではないか、この小説は終わってはいけない、この小説を読み終わりたくないと、引き裂かれるような痛みに似た悲鳴が私の中で反響する。ページをめくってめくって何処までも読み続けたいのだが、読み終わりたくない。ゆっくりゆっくり舐めるように読んで終わりを延期させ回避しようとするのだが、気が付くと怒涛的にページをめくっている自分がいる。あああ、もうあと数ページしか残っていないではないか、そんなに速く読んだら小説が終わってしまう。しかし、疾走する重戦車のようなこの小説の言葉に追いつくには読む者もまた高速にドライブしなければならないのだ。

得意げにこの本の欠点を論う者などわれわれは断固として無視しなければならない。文章の改行の多用、人物造形の難点、プロットの継ぎ接ぎ感、結末の呆気なさ、近代の中の神話思考の意味不明さ、はっきり言ってそんなものは全部どうでもいい。文学か、エンターテイメントか? 本当にそんなもの、どうだっていい。そのしたり顔のお前は何様なのだ。さっさとテレビ・ドラマでも見て感動していろ。作者が作り出したものは、濃密な言語の塊であり、わたしたち読み手はその塊を丸ごと食するのみだ。

この小説を読み終わった後の虚脱感と興奮。頭の神経回路がこの小説によって書き換えられ小説脳になってしまい、小説に猛烈に飢えてしまうことになる。それも濃密でハードで硬質で粘着的で高密度で重量感のある小説体験を求めることになる。体が神経が脳が言葉を激しく求めるのだ。まるで、禁断症状の如く。しかし、無いのだ、それに応えてくれる小説が!この国の小説家どもはいったい何をしているんだ!

作者はコシモの次なる物語を書かなければならない。作品が作者の作り出したものであるとしても、その作品が作者を支配してしまうことがある。この「テスカトリポカ」はそうした作品のひとつだ。作者はもう引き返すことなどできはしない。作者はルビコンの川を渡ってしまったのだ。

好書好日:インタビュー「暗黒の資本主義と血塗られた古代文明が交錯する、魔術的クライムノベル」(2021年3月20日)

写真 さとう

佐藤究さん 撮影:有村蓮さん

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