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アイデア、閃き、思いつき

残念ながらわたしは天才ではない。
万人を救うような奇跡のアイデアを狙って創り出すことはおろか、対立する二つの事象を折衝するどころかそれぞれに害のあるものを作り出すことくらいしかできない。
だから天才のそれが大きな一山を当てている間に、その少なくとも1000倍のアイデアを積み上げて手数で勝負しなくてはならない。
手数でなら、誰でも負けることはない。努力だけで何とでもなる。

アイデアのアウトプットの手数は閃きによる一過性のものではない。
単純なことで、アイデアとは自分の中のアイデアを核にして生み出されるものなのだから、自分の中に何もなければ何も生み出すことはできない。
だから、定期的なインプットがあることが最低条件だ。

スマートフォンの画面に映し出されるの鬱陶しいメッセージ、テレビから流れてくる退屈なバラエティ番組、頼んでもいないのに勝手に説明してくれるコマーシャル、遠くから聞こえてくる子供たちの耳に刺さる笑い声。
現代社会はインプットのネタに困らない。
ただもう少し質のいいアプトプットを望むのならば、もうすこし質のいいアウトプットにアクセスする必要がある。
あらゆる構造物は誰かの仕事によってできている。退屈なテレビ番組の一つにしても、誰かが必死に考えてアウトプットした結果だ。
その苦労と仕事をインプットすることを怠らないことだ。

インプットと合わせもう一つ。
アウトプットがアウトプットたるには形にならないといけない。
頭の中にあるうちは誰もそれを理解することができない。文字として画として音声として、あるいはその他の五感にアクセスできる形に出力することで、初めてそれはアウトプットとして機能する。

これはとても危険なことだ。
アウトプットされないアイデアは安全である。誰も犯すことができず、誰にも批判されることはない。わたしが最高のアイデアマンであるという地位を脅かすものは現れない。
アウトプットした瞬間に、その良し悪しが客観的に評価の対象となる。そしてそれはアイデアにとどまらず、アイデアを作成したわたし自身への評価として跳ね返ってくる。残酷にわたし自身の価値に撥ね返り、冷酷にわたしをつまらない俗物として断定する。

この苦しみをもってなお、クリエイションとは無限の魅力を放ちながらわたしたちの前に燦然と輝き続ける。
わたしたちは古来から、その已むに已まれぬ欲望を洞窟の壁や建造物の柱に刻み、羊皮紙にインクで、紙に鉛筆で、液晶にペンタブレットで描き続けてきた。原稿用紙に万年筆で書き込もうが、ハードディスクにキーボードで書き込もうが、それらは崇高な創作物だ。

何かを創り出すことは時間と労力を要することだ。数百年に一人の天才と、その他有象無象を隔てる壁は非常に厚く、参入すら許されないことがほとんどであろう。
わたしが今更そっち側に行こうとは思わないが、わたしの生活を支えるアイデアとアウトプットたちには敬服してやまない。

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