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物語『透明人間は世界一幸せ』

 体の痛み、心のストレスに苦しんでいた男性(森田モリオ)が老人(桐田ギリス)と出会い、「透明人間になる方法」を学んでいく。透明人間になることによって、森田モリオは「体と心の痛みを癒すこと」ができるようになる。
 「透明人間になる」とは、「魂が肉体から離脱して雲の上に上昇し、そこから下界の自分の肉体・心の活動を観察する」というものだった。森田モリオは自分の体と心を冷静にあるがまま見ることによって、苦しみから解放されていく。(原稿用紙 70枚)
 

 僕が透明人間に出会ったのは、今から三か月前だった。その時、透明人間は僕に教えてくれた、「透明人間になる方法」を。それだけじゃない。他にも教えてくれた、「透明人間は世界一幸せだということ」と、そして、「透明人間が幸せはなぜなのか・・・という理由」も。
 「透明人間に出会って、透明人間になる方法を教わったんだ」と、僕が他の人に言っても、誰も信じてくれない。しかし、僕は本当に透明人間に会ったんだ。だから、その時のことを書いておきたい。
 透明人間に変身する方法を学んでから、僕は時々、透明人間に変身している。透明人間に変身できるようになって、僕は幸せになることができた。僕が幸せになれたように、これを読んでくれた人も幸せになってもらえたらと願っている。

 僕の名前は、森田モリオ。この十一月で三十三歳になる。
僕は福岡県の鉄道会社に勤めている。毎日、ヘルメットをかぶってツルハシを持って線路に沿って歩いている。そして、線路の補修と点検作業を行っている。
 僕は自分の見た目が嫌いだ。とにかく、頭がでかすぎる。そして、背が低くて、足が極端に短い。髪の毛は天然パーマで、チリチリだ。それに、目が異様に大きくて、パッチリしすぎている。
僕のあだ名は、「モーリー」。このあだ名は、職場の上司や同僚がつけたものだ。僕が仕事でミスをする度に、みんなが僕を見て言う。「モーリー。モーリー。もういいよ~」と言って、僕を笑う。だから、僕はこのあだ名がイヤだ。
 僕はイライラして、タバコを吸うようになった。それから、毎晩、酒を飲むようになった。おかげで、体重は八十キロにもなってしまった。
僕が最初にパニック発作に襲われたのは、半年前。通勤のために満員電車に乗っていた時だった。急に心臓がビクッと痙攣した。ドキドキして息苦しくなり、手足がブルブルと震え始め、止まらなかった。お腹が痛くて、冷や汗が出た。その時、僕は思った、「ああ、僕は死んでいくんだ」って・・・。それから、僕は度々、発作に襲われ、電車に乗れなくなってしまった。

 僕が、不思議な男に出会ったのは、今から三か月前・・・、七月の日曜日。それは夕暮れ時だった。その日、仕事は休みで、僕は一人で海辺の砂浜を歩いていた。すると、遠くから一人の男が歩いてきた。
 男は背が高くて、極端にやせていた。黒いメガネをかけていた。男がどんどん近づいて来る。なぜか、僕の心臓はバクバクと鳴り始めた。男はさらにどんどん僕に近づいてくる。顔が鮮明に見えてきた。男の目は細く、つりあがっていた。齢は六十歳くらいだろうか。
 僕は視線を下に落とし、歩き続け、男とすれ違おうとした。しかし、男は僕の前で立ち止まり、仁王のように立ちはだかった。冷たい汗が背中を流れ落ちていった。
 男は僕の目を見て、言った。
「こんばんは。わしの名前は桐田ギリスだ」
 僕は一歩、あとずさりした。
 桐田ギリスはニヤッと笑った。口の中は銀歯だらけだった。
「こんばんは。わしが自分の名前を名乗ったんだから、お前も名前を教えてくれ」
 そう言われて、僕は答えた。
「僕の名前は森田モリオ」
「森田君か。よろしく」
 僕はその場に突っ立っていたが、桐田ギリスはその場に腰を下ろした。そして、僕に向かって言った。
「お前も座れよ。夕陽がとてもきれいだ」
 言われるままに僕はその場に座った。そして、海に沈んでいく夕陽を見た。空の雲はオレンジとブルーのグラデーションに染められて、本当に綺麗だった。
 桐田ギリスが言った。
「誰にだってあるんだよ、人に言えない苦しみが。誰にだってあるんだよ、人に言えない悲しみが。だけど、みんな、ただ、黙っているだけなんだ」
 風が吹いてきた。
 僕は横を向いて、桐田ギリスの顔を見た。
「あなたは僕が苦しんでいるのを知っているんですか?」
 桐田ギリスは僕の目を見据えて、つぶやいた。
「お前に教えてあげよう、体と心の痛みを癒す魔法を・・・」
「体と心の痛みを癒す魔法?」
「そうさ。体も心も両方とも癒すことのできる魔法だ」
「僕は体も心もボロボロなんです。そのことをあなたはなぜ知っているんですか? あなたと僕は初対面ですよね。それとも、以前、どこかで会ったことがありますか?」
 桐田ギリスは首を左右に振った。
「わしはお前のことを知らないけれど、知っている」
「それ、どういう意味ですか? 僕のことを知らないけれど、知っている・・・って」
 桐田ギリスは頭を左側に少し傾げた。
「それはともかく、体と心を癒す魔法を知りたいか?」
 僕は唾をゴクンと飲み干した。そして、僕は大きくうなずいた。
 桐田ギリスもうなずいた。
「よし。それじゃあ、教えてあげよう。それは、透明人間になる方法だ」
 僕は首をキュッと左側に倒して、桐田ギリスの目をのぞき込んだ。
「と・・・、とうめい、にんげん?」
「そうだよ。透明人間になる方法だ。ガラスのように透き通っていて、姿の見えない人間だよ」
 桐田ギリスは笑っていない。冗談で言っているようではなかった。
「透明になれたら、体と心を癒せるんですか? 透明人間になれたら、悩んだり苦しんだりすることがなくなるんですか? なぜですか? それに、一体、どのようにしたら、透明人間になれるんですか?」
「透明人間は世界一幸せなんだよ。なぜ透明人間が世界一幸せなのか、その理由を知りたいようだな。それに、透明人間になる方法も。 しかし、まず、透明人間になる方法から説明しよう 論より証拠だ。まずわしがお手本を見せる。わしが今ここで透明人間になってみせる。お前は黙ってみておくんだ」
 そう言うと、桐田ギリスは砂浜の上で膝を曲げ、正座した。そして、目をつむって、深呼吸を始めた。深く、ゆったりとした呼吸。そして、それを何度も繰り返す。僕は黙ったまま桐田ギリスを見つめていた。
 長い時間が流れていった。しかし、桐田ギリスは目を開かない。僕は待ちきれずに叫んだ。
「桐田さん! 目を開いてください!」
 しかし、桐田ギリスは返事をしない。おまけに体を全く動かさない。ただ深呼吸だけは続けていた。そして、それからさらに長い長いが時間が過ぎた。
 桐田ギリスは砂浜に座って微動さえしない。しかし、急に桐田ギリスは呼吸を止めた。心臓の辺りが全く動かなくなった。すると、次の瞬間、信じられないことが起こった。桐田ギリスの体が少しずつ揺れ、そして、足の部分から色が薄れて始めた! 足の色が消えていく! 足だけじゃない。桐田ギリスの腰や腹が透明になっていく! 今や桐田ギリスの上半身だけがポッカリと空中に浮いていた。僕の全身が勝手にワナワナと震え始めた。
  僕はその場から走り去ろうと試みた。しかし、体が金縛りになったようだった。意識はあるけど、体は動かなかった。
しばらくして、桐田ギリスの全身が消えてしまった。
「桐田さん!」
 僕はやっと大声で叫んだ。頭をキョロキョロさせて、辺りを見回した。しかし、桐田さんの姿は見えない。マジックのように桐田ギリスの体が忽然と消えたのだった。
 僕はただ口をポカンと開けていた。右手の人差し指で両目をこすって見た。しかし、桐田ギリスが座っていた場所に人影はなかった。
 僕は左右を見渡しながら、大声で叫んだ。             「桐田さん!」
 しかし、桐田ギリスの姿はどこにも見えない。再び、体がブルブルと震え始めた。
 僕はその場に座り込んで、頭を垂れた。
長い長い時が流れた。
 海の潮が満ちて来て、僕の足元まで波が打ち寄せてきた。何か巨大なモノが波に乗って流されてきた。僕はジッと見つめて、驚愕した。桐田ギリスだった。
僕は海の中に走っていき、そして、桐田ギリスの肉体を砂浜に引き上げた。僕は何度も桐田ギリスの名を呼び続けた。そして、心臓マッサージを繰り返した。自分の顔を桐田ギリスの顔に近づけて呼吸を確認してみた。胸の辺りを見て、心臓の動きを見てみる。しかし、桐田ギリスは呼吸していなかった。
 僕は両手で頭の毛をかきむしった。「ウォー」と叫んでいた。「とりあえず助けを呼ばなければいけない」と思った。しかし、携帯を持ってくるのを忘れていた。僕は海岸を走り始めた。
 その時、背中から声が聞こえた。
「森田君。わしなら、ここにいるよ」
 心臓が凍りついた。僕はパッと後ろを振り返った。そこには、桐田ギリスが立ちあがって、僕に向かって手招きしていた。全身、びしょ濡れだった。
 僕は桐田ギリスに近づいていった。
 桐田ギリスが言った。
「びっくりさせてしまったようだな。わしは生きているよ」
 こめかみの血管がドクドクと波打っているのが聞こえてきた。
 桐田ギリスはニヤッと笑った。
「君はわしの魂が抜けた肉体を見て、思っただろう、わしが死んでしまったと・・・。確かにわしは自分の肉体から抜け出した。しかし、今はまたわしの命は自分の肉体にもどっている」
 僕は大声で叫んでいた。
「本当にそんなこと、できるんですか!」
「ああ、もちろんだ。わしのいのちが肉体を離脱した事実を見せなければ、お前はワシの話を信じないだろう?」
「ほ・・・、本当に透明になっていたんですか? そんなこと、本当にできるんですか?」
 桐田ギリスはニヤッと笑った。
「今、お前は自分の目で実際に見ただろう? それでも信じられないっていうのか?」
「魂が肉体から離脱して、そして再び戻るなんて、ありえない・・・」
「そうだな。普通ではありえない。しかし、人はそれができるんだ。つまり、透明人間に変身することができるんだ。実際にわしの魂は肉体から離脱して、しばらくして自分の体に戻ってきた。お前はそれを確かに見ただろう?」
 僕は目を閉じて、頭を左右に強く振った。
 桐田ギリスは僕をチラッと見た。
「その顔を見ると、どうしても信じられないっていう感じだな」
「本当に透明に人間になっていたんですか? 何かトリックを使っていたのなら、正直に言って下さい」
「嘘じゃない。まあ、しかし、本当は魂が肉体を離脱しても、肉体は死体のようになったりはしないんだ。本当は、肉体と心は活動を付けることができる」
「魂が抜けても・・・?」
「まあ、詳しい話は後日だ。とにかく、わしが透明人間に変身したところを見せても、お前は信じない。どうしたら、お前は信じるんだ? 『人間は体から魂を離脱させ、透明人間になれる』っていうことを・・・。こうなったら、お前は自分自身で体験してみるしかない。今ここでわしと一緒に透明人間になるんだ!」
「えーっ!」
「お手本は見せた。次は今から説明を聞くんだ。しかし、説明を聞いたら、わしと共に変身してみるんだ。大丈夫だ。何も心配はいらない。透明人間になっても、また再び自分の肉体と心を獲得して、元の自分に戻ることが可能なのだから」
「本当に本当に戻ることができるんですか!」
 桐田ギリスは強くうなずいた。
「もちろんだ。それはお前も自分の目で見ただろう?」
 僕は叫んだ。
「透明人間に変身する前に、教えて下さい。透明人間になれるって、いいことなんですか? 体と心を癒すことができるって言ってましたけど、本当なんですか?」
「人は透明になると幸せになれるんだ。だけど、それをわしが説明したところで、お前は信じないだろう? だから、お前は自分で透明に人間になってみるんだ。そうすれば、
わかる。透明人間が世界一幸せだということが」
 僕はゴクンと唾を飲み込んだ。
 桐田ギリスが右手で髪の毛をゴシゴシとこすった。
「では、やり方の説明だ」
「透明人間になるやり方って、さっき見せてもらいました。ただ、目を閉じて、深呼吸を繰り返すだけなんじゃないですか?」
 桐田ギリスは口を大きく開き、笑った。
「確かに。見た目は、単なる瞑想に見えるだろう。しかし、目では見えないことを心の中で行わなければ、変身することはできない。自分の魂を肉体から離脱させて、上昇させていくためには、コツがあるんだ」
 僕は舌で上唇をペロリと舐めた。
 桐田ギリスが一呼吸置いて、しゃべり始めた。
「透明人間に変身するために最初にやらなければならないことは、自分の親指を握ることだ」
「親指を握る? なぜそんなことをするんですか?」
 桐田ギリスは左手の親指を僕の目の前に突き立てて、右手の五本の指で握りしめた。
「森田君。こんなふうに左手の親指を右手で握るんだ。これは、透明人間になるための『トリガー』として使うんだ」
「トリガー?」
「『トリガー』とは、『きっかけ』さ。お前が自分で自分の親指を握ることをきっかけとして、魂を安らかな状態にさせて透明になれるようにするんだ」
「きっかけ・・・」
「そうだ。親指を握ることで、お前は魂の中の静かな場所へ入っていくことができる」
「はい・・・」
「トリガーを使ったら次は、地面に腰を降ろして正座するんだ。そうして、目を閉じて、深呼吸を繰り返す。その際、息を吐き出す時に時間をかけるんだ。できたら、四拍かけて息を吸い、四拍かけて息を止め、八拍かけて息をゆっくりと吐き出すんだ。そして、体から力を抜いていく。まず、足先だ。次はふくらはぎ。その次は太もも。その次は腰。その次は腹。その次は胸。その次は肩。その次は首。その次はあご。その次は目。その次は顔の表面。とにかく、体の部分ごとにから頭へ向かって力を抜いていく。足先から頭頂へ向かって、部分ごとにリラックスさせ、全身から力を抜くんだ。そして、体が地面に深く沈み込んでいくように感じるんだ」
「はい」
「全身がリラックスしたら、しばらく静かにする。そして、自分の透明な意識が肉体から離脱して、空にむけて上昇していくのをイメージするんだ。そして、心の中で号令をかけるんだ、『イチ、ニイ、サン』と。そして、『サン』の掛け声と共に曲げた膝を延ばすんだ。同時にお前の透明な意識は体を脱ぎ捨てて、頭からスルリと飛び出していく。やがてお前のいのちは煙のように空高く舞い上がっていく。肉体を飛び出した時、お前は風となっている。形も無ければ、色もなく、重さもない。そして、空気の固まりであるお前は雲の上に到着する。お前の透明な魂は雲の上に座っている。お前は、雲の上に座っている自分の意識を『感じる』んだ。お前は透明だから、自分の姿を目で『見る』ことはできない。しかし、『自分の存在を感じる』ことはできる」
「そんなふうにイメージすれば、僕の魂は肉体から離脱して、透明人間になれるんですか?」
「そうだ。そうすれば、お前は透明人間になることができる。雲の上にあぐらをかいて座って、完全にリラックスすることができるんだ。今や、お前は肉体ではない。お前は自分の右の手がかつてあった場所を見る。しかし、それは透明で見えない。と言うより、お前の右手はそこには存在しない。・・・さらに、お前は左の手の存在した場所も見る。しかし、左手を見ることはできない。なぜなら、そこに左手はそこには存在しないからだ。しかし、お前の魂は『自己が存在している』という意識を確かに感じている」
「体は見えなくても、意識はある?」
「そうだ。雲の上に存在しているお前の意識は透明で、下界の自分の体と心を見ることができる。以上でわしの説明は終わりだ。さあ、あとは実践あるのみだ」
「僕にできますか?」
「怖いのか?」
「正直言って、怖いです。自分が肉体から滑りぬけていくことも怖いですし、それに、『透明になってしまったら、二度と肉体に戻ることができなくなるんじゃないか』と考えてしまうんです」
 桐田ギリスは右手を僕に向かって静かに差し出した。僕も右手をそっと出す。僕らは強く握手した。
「さあ、一緒にやるぞ。まず、自分の親指を握るんだ。いいか? それでは次に目を閉じて、深呼吸を繰り返そう」
「はい」
 僕は息を大きく吸い、止めて、そしてゆっくりと息を少しずつ吐き出していった。
 深呼吸を十回ほど繰り返したら、再び桐田ギリスの声が聞こえてきた。
「それでは、足の指から力を抜いていくんだ」
 僕は足の指を意識してみる。しかし、「力を抜く」と言われても具体的にどうやればいいかわからない。
「どうやれば力を抜くことができるんですか?」
「そうだな。一旦、息を吸いながら指に力を入れてグッと曲げてみるんだ。そして、息を吐くと同時に指をダラッと伸ばして、重力に任せるんだ。足指が床に溶け込むような感じ・・・」
 僕は言われた通りに力を入れて、そして、吐く息と同時に指を延ばしてみる。すると、力が抜けて、指が軽くなった感じがした。
 続けて桐田ギリスが言った。
「体をのんびりとくつろがせるんだ。ゆったりと楽に休ませるんだ。日なたに置かれたバターか氷をイメージするんだ。お前の吐く息の光で、お前の体の緊張を溶かすんだ」
「はい」
「次は足の裏から力を抜く。そして、頭頂へ向かって、体の全ての部分で力を抜いていくんだ」
 僕は体の部分に意識を送り、そして、部分ごとに脱力していく。やがて全身から力が抜けて、体が重く砂浜に沈み込んでいくような感じがした。
 桐田ギリスの声が聞こえてくる。
「全身から脱力することができたら、いよいよ魂の離脱だ。お前の体の中にある、目に見えない意識・・・透明ないのちのエネルギーが頭頂から出ていく様子をイメージするんだ。頭のてっぺんに小さな穴が開いているのを感じるんだ。そして、そこから透明な風が吹き出し、天に向かって登っていく。ワシが今から『イチ、ニイ、サン』と声をかけるから、『サン』の掛け声と共にジャンプするんだ。そうすれば、お前の魂は肉体という衣服を脱ぎ去ることができる。準備はオッケー?」
 僕は舌で唇をペロッとなめてから、うなずいた。
 桐田ギリスがつぶやいた。
「力を抜いて、リラックスするんだ。それじゃあ、行くぞ。イチ! ニイ! サン!」
 その時、僕は膝を思いっきり伸ばして、跳んだ。体がフッと軽くなった。僕は思った、「引力が働いて、すぐに僕の体は砂浜にドスンと落ちるだろう」と・・・。
 しかし、僕は落ちていかなかった。体が妙に軽かった。僕はフワフワと空へ向かって上昇していく。
 桐田ギリスの声が聞こえた。
「目をあけてみろ。そして、ワシを見るんだ」
 僕は言われるままに目をあけて、桐田ギリスを見た。しかし、何も見えない。
 姿は見えないけれど、桐田ギリスの声だけは聞こえてきた。
「お前は今、どんどん雲に向かって上昇中だ。下界を見てみろ」
 僕は恐る恐る、視線を下に贈ってみた。自分の目が信じられなかった。砂浜が見え、僕と桐田ギリスの肉体が座っているのが見えた。上昇するにつれて、僕の肉体がどんどん小さくなっていく。
 桐田ギリスの声がまた、聞こえてきた。
「今度は首を上げて、上を見るんだ。雲が見えるだろう? あの雲の上に座るんだ」
 僕は首を延ばして、視線を天に向けた。目の前に白い雲がどんどん迫ってくる。
 やがて僕は白い雲に突っ込んでいく。しかし、何も感じない。しばらくすると、自分が上昇している動きが止まっていることに気づいた。僕は雲の上にあぐらをかいて座っていた。
 桐田ギリスの声が聞こえてきた。
「雲の上に座ったまま、辺りを見渡すんだ」
 僕は視線を落とした。白い雲が見えた。しかし、自分の体が見えない。
「桐田さん。僕の体が見当たりません!」
「森田君。自分の足があった辺りを見るんだ」
 僕は視線を下に送る。自分では自分の足を見たつもりだったが、そこに僕の足は無かった。
「足が・・・僕の足が見当たりません!」
「森田君。次は、自分の右手と左手を目の前に持ち上げて、それらを見るんだ」
 言われた通り、僕は肘を曲げ、両手を上げて、手の平を両目の前に持って来た。そして、両手を見ようと試みた。しかし、そこにあるはずの右手も左手もなかった。
「手もありません」
足と手だけではなかった。腹も腕も肩も見当たらなかった。僕は今や全身が透明人間になっていた。
 桐田ギリスの声が聞こえてきた。
「今度は、姿勢を変えて、うつ伏せになって、雲の端から下界を見下ろすんだ」
 僕は言われたまま、体を横にグルンと半回転させて、うつぶせになったそして、雲の端から顔だけ出して、下界を見下ろした。すると、森や建物が小さく見えた。
 桐田ギリスの声が聞こえてくる。
「目を凝らして、自分の体を探すんだ」
 僕は海岸沿いの砂浜に視線を降ろし、目を細めて自分の体を探した。しかし、人の影など全く存在しない。
「雲の上から自分を見つける? そんなこと、できるんですか?」
「もちろん、できるさ。人間は蟻よりも小さく見えるけれど、自分の肉体と心を探し出せる。お前とわしの肉体は砂浜に置いてきたんだ。『必ずあるはずだ』と思って探し出せ。でないと、自分の体に戻ることはできないぞ」
 僕は思った、「冗談じゃない。自分の体を見つけないと、戻れないなんて・・・」と、
 僕は下唇を噛んで貧乏ゆすりしながら、目を凝らした。
「あった! 見つけた!」
 思わず叫んでいた。砂浜に米粒のような肉体が二つ、寝転がっているのを見つけた。詳しい様子は見えないが、「あれは間違いなく自分の肉体だ」と確信できた。
 僕は自分の肉体を見つめながら、桐田ギリスに尋ねた。
「桐田さん。砂浜にうつ伏せになっている僕は死んでいるんですか?」
「さて、どうかな? しばらく待ってみるんだ」
 僕は息を飲んで、自分の体を見続けた。すると、僕の体が突然ムクッと起き上がった。そして、桐田ギリスの肉体が倒れているのを発見すると、茫然と立ち尽くしていた。
 僕は僕の体を見ていて、フッと感じた、「あれ。今、僕の体は頭の中でいろいろと考えているぞ。何と考えているのかな」と・・・。そして、僕は注意して自分の体を見つめてみた。すると、自分の心の声が聞こえてくる気がした。それは実際の声として耳に聞こえて来るものではないけれど、テレパシーのように伝わって来て、なぜか、すんなりと自分の心で考えていることが理解できるのだった。
 僕は思った、「ああ、今の僕は心の中で考えているんだ、『急いで、助けを呼ばなければいけない』と・・・」って・・・。
 僕は雲の上から自分の体を観察し続けた。僕の体は辺りを見回すのを止めると、桐田ギリスの体の横にひざまづいて心臓マッサージを始めた。
 その時、桐田ギリスの声が聞こえてきた。
「自分でもう一人の自分を見つめるんだ。透明人間になれば、お前はお前の肉体がどう活動しているのかを客観的に見ることができる。そして、透明人間になれば、お前はお前の心がどう感じたり考えたりしているのかを冷静に見ることができる」
「はい・・・」
 僕は僕を見た。正確に言うなら、僕の魂は僕の体と心を見た。僕の体は桐田ギリスに心臓マッサージを繰り返していた。そして、僕の心は桐田ギリスの意識を回復させることができずに苛立っていた。
桐田ギリスの声が頭の中で聞こえてきた。
「お前はお前の肉体と心に『どこに向かってほしい』とか、『こうしてもらいたい』とかいった指示をすることはできる。しかし、お前の肉体と心を直接に動かすことはできないんだ」
「そうですね。僕は雲の上からもう一人の自分を見ているだけで、何もできません」
「それって、どうだ? つまり、どういう気分だ?」
「気分ですか? そうですね。自分の思い通りにならないので、はがいい気分があります」
「だが、もう一人の自分の思考や行為を、距離を取って見るというのは、いいものじゃないか? つまり、冷静でいられる」
「冷静でいられる?」
「そうさ。雲の上にいる透明人間である自分が、地上の体と心を客観的に見つめ、そして、自分の思い通りにならなくてもそれを受け入れることができるんだ。自分だけの利益に執着して行動しようとするエゴにこだわらずにいられる。エゴの欲望を見て、『独善的すぎる』ととらえることができる。お前の魂は、エゴの感じ方・考え方・行い方をもっとバランスの良い自然状態に変えることができる」
「そうですね。そう言えば、なんとなくイライラしません」
 桐田ギリスの声が響いてきた。
「その理由がわかるか? 透明人間になれば、あるがままに見ることができるからさ」
「どういうことですか?」
「透明人間としてお前の魂はお前の体と心をあるがままに見ることができる。肉体の中に閉じ込められた自分、他者と分離した自分・・・それが『本当の自分』だとお前は思ってきたはずだ。しかし、『本当のお前』は一つの肉体の中に閉じ込められたものではない。そして、一個の肉体の利益だけを求める自我意識を持つようになってしまったが、そんなものは単なる幻だ。実在しない。透明人間になれば、お前はあるがままをみつめることができる。そして、それは世界一幸せなことなんだ」
「あるがまま見つめる? それって、どういうことですか?」
「自己流のとらわれから解放されて、個人的な欲望から自由になって、物事を見るってことだ。お前は今までとらわれていたんだ。何にとらわれていたかと言えば、自分の頭の中に入っていた自己流の考え方・感じ方・価値観にとらわれていたんだ。それは、片寄っていて、誤った見方・判断の仕方だ。お前が幼少期に大人から刷り込まれた『はからい』だ。『これはこうすべきだ』とか、『これはこうしなければいけない』とかいった思い込み・価値観さ」
「それはつまり、僕が自分では正しく考えているつもりで、正しく行動しているつもりでも・・・、自分が受けてきた刷り込み・体験を基にして片寄った価値づけをしてしまう・・・ということですか?」
 桐田ギリスが拍手した。
「その通りだ。お前は自分の愛するものには割増して見てしまい、自分が嫌悪するものには割引して見てしまう。しかし、そんな見方ではダメだ。『あるがままに見る』・・・それが大切。そして、透明人間になれば物事を『あるがまま見る』ことができるようになる。だから、透明人間は世界一幸せなのだ」
「幸せ?」
「自分の思い通りにならないからって怒ったりしないで済む。透明人間は、心に何事もとどめずに、聞こえるままに聞き、消え去るままに忘れる。透明人間の心には何も引っかかりもとらわれもない。小さな自我意識のこだわりから脱却して、すべてを必要なことであると受け取るんだ」
「そんなこと、できるんですか!」
「透明人間はそれができるんだよ! 最上のくつろぎの状態を身に付けて、何も感じず、何事も考えず、何事も為していないかのようなくつろぎの状態で、物事を感じたり考えたり為したりすることができるんだ」
「そんなこと、できないでしょう? 無理です!」
「いやいや。透明人間はそれができるんだよ、自分の感情や思考を停止させることが! 『あるがまま見る』ということは、エゴがとらわれていた見方を離れるということなんだ。透明人間はエゴを忘れることができる。自我意識の執着から離れることができる。だから、客観的で、冷静で、見極めのある見方をすることができるんだ」
 僕は息を吸ってから、言った。
「もし僕が透明人間になったら、僕はこれからどんな見方をすればいいんでしょう?」
「お前は、自分の体や心に対して、今までどのように考えたり感じたりしていたんだ?」
「僕は自分の体が嫌いでした。頭がでかすぎて、天然パーマで・・・。それから、自分の心もイヤでした。すぐにパニックになってしまうのもイヤだったし、仕事でミスばかりして、会社の人達にバカにされるのもイヤでした」
「森田君。そうした体と心は本当のお前なのか? 本当のお前はどこにいる?」
 僕は人差し指の先をこめかみに当てて、目を閉じて考えてみた。そして、目を開いた。
「本当の僕は透明人間で、雲の上にいます。下界にいるのは、僕が仮に宿っていた肉体と心です」
「うん。その通り。自分が着ている服のことで一生、悩み続ける必要なんてないんだ。自分が乗っている車のことで一生、悩み続ける必要なんてないのと同じだ。自分の肉体や心は、服や車と同じように、一時的にお前が乗り込んでいるものでしかない。肉体は単なる物質で、心も肉体の中で動き回っている幻にすぎない。『いのちの働き』と呼ばれている透明なエネルギーが流れ込んで初めて、肉体と心は動き、生きることができるんだ。つまり、お前は自分の体のことで悩む必要もないし、自分が感じたり考えたりすることで苦しむ必要もない。そんなものは本当のお前ではない。一時的な、かげろうのようなものさ」
「外見的な見た目や心の中にある不安・恐れ・劣等感などで苦しむ必要なんてない・・・ってことですか?」
「そうだ。 透明人間になるということは、本当の自分が自分の体を脱ぎ捨てることなんだ。本当の自分とは、お前の体じゃない。目に見えて手で触れる体は、本当のお前ではない。肉体は単なる衣服のようなものだ。衣服を脱ぐように、自分の体を脱ぎ捨てて、そして、肉体から離れるんだ。本当のお前は、体の中に浸透している、透明な魂なんだ。目に見えないエネルギー・・・いのちのはたらきだ。あらゆる動植物の中に流れ込んでいるエネルギーと同じものが、お前の体の中にもながれこんでいる。そのエネルギーを肉体から離脱させて、透明人間になるんだ」
「本当の僕は・・・透明人間? そして、魂?」
「そうだ。お前は透明なエネルギー。例えて言うなら、風みたいなものだな」
「透明人間になるっていることは、魂が体を脱ぎ捨てることなんですか? それって、『幽体離脱』ということなんですか?」
 桐田ギリスは軽くうなずいた。
「幽体離脱か? そう表現してもいいな。とにかく、肉体という衣を脱いで、透明な本当の自分・・・透明人間になるんだ。そして、自分の肉体を客観的に眺め、『自分は単なる肉体だ』という誤った認識から解放されて、苦悩を突き抜けて、幸せになるんだ。もっときちんと言えば、苦悩は『人を教え導く教師』なのだ」
「教師? 苦悩がありがたいものだって、言うんですか?」
「苦しいこそお前を暗闇から光の中へつれだしてくれる」
「はい?」
「苦しみを活用して、自己向上・自己変革に替えて、幸せになることができる。苦しみがなかったら、どうなる? お前が賢く学ぶことはできるのか?」
 僕はしばらく考えてかぶりを振った。
「いいえ」
「『苦悩は悪いもの』という見方をやめて、『苦悩こそ教師である』という選択をするんだ」
「そんなふうに考えたこと、ありません」
「苦悩のありがたみに目を向けるんだ。苦悩は現状の考え方・行動の仕方ではいきづまってしまうということを教えてくれるんだ。今こそ別の見方・捉え方をするチャンスなのだ」
「ピンチはチャンス・・・って、よく聞きますけど、苦しんでいる人にとってはとても信じられない言葉ですね」
「人は・・・、自分が経験したことについて、意味を選択することができる。そうしたことは能力の一つなんだ」
「普通は、自分の見方しかできないですよね。他の見方があるとか、思いつかないですよね」
「そうだな」
 その時、僕はフッと思った。
「ところで、僕はいつ自分の肉体に戻れるんですか?」
「いつでも。お前が戻りたいと思った時はいつでもオッケーだ」
「そうですか。でも、僕の肉体には戻りたくないんです。もっと見た目がかっこいい肉体に入りたい。もっと運動神経のいい肉体に戻りたい。もっと頭のいい肉体に戻りたい。もっと金を稼ぐことができる肉体に戻りたい。もっと女の子にもてる肉体に入りたい。もっと楽で、大金をかせげる仕事をしている肉体に入りたい」
 返事がない。しばらくたって、桐田ギリスの声が聞こえてきた。
「そうか。それでは、お前が希望する人間の体の中に入ってみるんだ。どの肉体がいい?」
 僕の頭の中に一人の人物が浮かんだ。同級生の高木タツロウだ。とにかく、こいつは見た目がいい。目鼻立ちがくっきりとしていて、スポーツマン体形で、しかも運動神経抜群だ。仕事は一流企業のビジネスマン。給料もいい。可愛い奥さんと結婚して。子どもも二人いる。とにかく、苦労はなく、幸せそうに見える」
「よし。それでは、高木タツロウの体の中に入ってみるんだ」
「しかし、高木タツロウは生きている。僕の魂が入ることはできないんじゃないか?」
「1週間なら、大丈夫だ。その間、高木君には悪いが、お前の体の中に入ってもらっておこう」
「はい」
「さあ、さっそく地上を見下ろすんだ。そして、高木タツロウを探すんだ」
 僕は雲から顔を出し、地上を見下ろした。そしてすぐに高木タツロウの肉体を発見した。「それじゃあ、行ってきます」
僕は雲の上から飛び降り、高木タツロウの体の中に突っ込んでいった。
僕は高木君の体に入った気分はどうだったか? 結論を言ってしまうと、とにかく「最高にご機嫌」だった。しかし、それは最初の三日間だけだった。四日目から僕は苦しみ始めた。なぜ僕は苦しみ始めたのか? それは、高木君の実際の生活は、他人から見た場合と全く異なっていたからだ。タカギ君は確かに他人がうらやむほどのお金を持っているし、可愛い奥さんや子どもに恵まれて、幸せそうに見える。しかし、高木君の体の中に入ってみると、他人には見えない所で苦しんでいることがわかった。具体的には、夫婦関係は冷え切っていて、親子関係は険悪であることがわかった。それに高木君はいつも仕事に燃えていて充実しているように見えても、実際には周りの人に迷惑をかけたり無理をさせたりしていて、高木君はみんなから嫌われていることがわかった。
 一週間後、雲の上から声が聞こえた。それは、桐田ギリスの声だった。
「そろそろ雲の上に帰ってきたらどうだ?」
「そうですね! さっそく上がります」
僕は高木タツロウの体から抜け出して、雲に向かって上昇した。そして、雲の上に到着した。すると、桐田ギリスも丁度、雲の上に上ってきたところだった。
桐田ギリスの声が聞こえてきた。
「森田君。どうだった?」
「僕は思いました、『他人が外から見ると幸福そうに見えても、その人は心の中で幸福だと思っていないこともあるんだ』と、思いました。『はた目から見ると、仕事とか人間関係とかで恵まれているように見える人も、実は悩みをかかえている場合もある』って、思いました」
「ふーん。それで、森田君。これからどうするつもりだ? 自分の体に戻るかい? それとも、また別の体に入ってみるかい?」
 僕は考えた。その時、パッとひらめいた。
「桐田ギリスさん。あなたの体の中に入ってみていいですか?」
「えっ! わしの体の中に入ったって、何もいいことはないぞ。わしは年寄りで、体もボロボロだ。腰は曲がって、背中も曲がって、顔も良くない。実はわしは肺癌に侵されているんだ」
「それでもいいんです」
「ふーん。それで、お前はどのくらいの間、わしの体の中に入るつもりなんだ?」
 僕は考えた、「やっぱりお試しで一週間だけ、入らせてもらおう。死ぬまで森田さんの体の中にいます・・・なんて、言えない」
 僕は正直に言った。
「一週間だけ、桐田さんの体の中に入らせてもらうのは、ダメですか?」
 桐田さんは目をつむって、胸の前で腕を組んだ。
「うーん」
 そして、目を開けて、言った。
「ダメだ。わしの体に入るのなら、死ぬまでだ。そして、わしがお前の体の中に入る。わしも死ぬまでお前の体の中に入って生活し、そして死ぬまでお前の体と共に生きていく。それで、どうだ?」
 瞬間的に僕は首を左右に振った。
 僕の顔を見て、桐田さんが笑った。
「冗談だよ。ワシみたいな、死をいつ迎えてもおかしくない肉体に死ぬまで入っておけ・・・なんて、若い君にはできない相談だということくらい、承知している。しかし、君だっていつ死ぬか、わからないんだぞ」
 僕は思った、「そうだ。桐田さんがいつしぬかわからないように、僕だっていつ死ぬかわからない。桐田さんが老衰や病気のために死ぬ前に、僕の方が早く死ぬかもしれない。例えば、交通事故とか急性心筋梗塞とか心臓発作、冠動脈疾患とかで・・・」
 そして、僕は思っていた、「短期間でいいから、桐田さんの体に入ってみたい」と。
なぜ僕は桐田さんの中に入ってみたいと思ったのか? それは、桐田さんは人生を生きていく上で、心の安らぎや充実感を感じて生きていくコツを会得している感じがしていたからだ。それを体の中に入って、実際に学んでみたい気がした。
だが、仮に僕が桐田さんの体の中に入ったからといって、桐田さんのような魅力的な生き方ができるかどうかはわからない。でも、桐田さんの体の中に入れば、何かわかるかもしれない。安らぎ・生きがいを感じる生き方ができるかどうかは、どうすれば達成できるのだろう? どの体に入ったかに関係なく、魂が知恵を学べば、有意義で価値ある人生を送ることができるんだろうか」
 僕は黙ったまま、顔を上げて、桐田ギリスを見た。
 桐田さんが言った。
「どうやらわしの体のはいってみたいようだな」
「わかりました? はい、実は桐田さんの体に一度は言ってみたいんです」
「そうか。わしは一週間でオッケーだ」
「は?」
「お前の魂がわしの体の中に入って、そして、一週間で元の体の戻ってもらってオッケーだ」
 僕は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「よし。それじゃあ、話しはこれでおしまいだ。さっそく、始めよう。雲の下を見てみろ。お前の体とわしの体がすぐに見つかる。お前は雲から地上へ向けてジャンプして飛び降りるんだ。そして、わしの体の中は入りこんで。一週間の間、わしはお前の体の中に入って待つ。一週間後、またここで会おう。いいな?」
「はい」
 僕は雲の端に寄って、地面へ向けて飛び降りた。
 ものすごいスピードで僕は地上へ落下していく。桐田さんの体がどんどん近づいて来る僕は桐田さんの頭の頂上に突っ込んでいく。
 次の瞬間、僕は桐田さんの体の中にスッポリと入り込んでいた。

 それから一週間、僕は桐田ギリスとして生活した。
 桐田さんの体の中に入る前、僕は思っていた、「桐田さんの体の中に入ったら、自分は精神的に苦しんだり悩んだりするかもしれない。なぜなら、桐田さんの肉体は貧弱だから。桐田さんの体では、自分は思い通りの活動を行うことができないのではないか」と・・・
 しかし、現実は違っていた。僕は桐田さんの体の中に入ったら、なぜか、いい気分になれた。
 僕は考えてみた。「なぜ、高木タツロウの体に入っていた時と、桐田さんの体の中に入っていた時では、何が違うのだろう?」と・・・。
そして、僕はハタと思い当たった、「原因は、『体』の違いではなく、『心』の違いだということ」に。
つまり、高木君と桐田さんが幼少期から身に付けてきた、『考え方・感じ方・行動の仕方』に違いがあった。僕は二人の体の中に入って、それを実感した。具体的には・・・、高木君の方は、体は恵まれていたけれど、バランス感覚のない、不自然な心を身に付けてきた。一方、桐田さんの方は、肉体は衰えていたけれど、自分に起きる事象に対して自己中心的な見方や考え方をしないようにしてきていた。また、自分が生まれて来たことや、今与えられている環境に感謝していた。
 一週間後、僕は桐田さんの体を抜け出して、雲の上に上がっていった。桐田さんも雲の上に来ていた。
 僕は桐田さんに尋ねた。
「質問があります。若くて魅力的だと思っていた高木タツロウの体に入ったら、僕は苦しくてイヤな気持ちになりました。そして、歳老いて大変そうだなと思っていた桐田さんの体の中に入ったら、僕は苦しみがなく、とても力強く安らかな気持ちで生活することができたんです。なぜでしょうか?」
 桐田さんは目を閉じて、しばらくの間、右手で頭の毛をこすりっていた。そして、目をパチリと開いた。
「自分流の見方・感じ方・考え方を離れる訓練をしてきたか、してこなかったかの違いだろう」
「それ、どういう意味ですか?」
「森田君。一言で言うと、『自分で自分の体と心を成長させた方がいい』ということだ。自然な、バランスのいい心と体を自分で発達させることが、心穏やかに暮らせることにつながる」
「はあ?」
「自分の魂の力で自分の感じ方・考え方・行動の仕方をコントルールして、エゴのとらわれの無いものにしていくんだ。それは、自己流の思考を止めてしまうこととも言える」
「自己流の思考を止める?」
「森田君。いつだったか、わしはお前に言っただろう、『本当の自分は体でもなければ、心でもない』と。本当の自分は『魂』。そして、それが、体や心の活動を観察しているんだ。親による幼少期の教育によって、自分の体や心は自己中心的なものに躾けられる。しかし、歳の成長と共に、自分の欲望・感情・意志・行動をコントロールして、バランスの良い自然なものに変えていけるんだ。そして、それを成し遂げた人間が、幸福を感じることができる」
 僕は手の平を桐田さんに向けて差し出した。
「ということは、桐田さんは自分の魂の力で自分の体と心を高めてきた・・・ということですか?」
 桐田さんは頭を上下に小さく振った。
「自分ではそんなふうに努力してきたつもりだ」
「そうですか。そうした努力があるかないかの違いが、桐田さんと高木君との違いなんですね」
「森田君。君はどう思う?」
 僕は右手で自分の鼻の下をゴシゴシとこすった。
「そうですね。僕の魂が高木君や桐田さんの体の中に入って感じたことは、二つです。一つは、自分の魂が自分の体に対して『これをしろ』と、目標を指示することができるということ。そして、もう一つは、『僕の魂は無力で、体を直接にコントロールできない』ということです。つまり、自分の体に『ここへ行け』という指示はできるけれど、自分で直接に体を動かすことはできない・・・ということです」
 桐田さんは「ハハハ」と声を立てて笑った。
「それは、とてもイラつくことだな」
「はい」
「お前の言う『体』は『理性』と言ってもいいかもしれない。お前の魂はお前の『いのちのはたらき』であり、『いのちのエネルギー』だ。すべての生物の中に流れているエネルギーと同じものがお前の中にも流れている。そのエネルギー、魂がもし無かったら、お前は活動することはできない。そのエネルギーがなければ、お魔の入り込んだ肉体と心は生きて活動できない。しかし、魂は指示するだけだ。自分で体と心を動かすことはできない。魂は体に乗り込んだ主体ではあるけれど、活動・運転と言う実動は、体と心に任せるしかないんだ」
「自分の理性・体・心を、魂はコントロールできない・・・っていうことですか?」
 桐田さんはうなずいた。
「人間は、魂と体と心が一体となったもの。しかし、その中でも『自分の本体』と言うべきものは、『魂』だな」
「その説明では、僕には理解できませんが・・・」
 桐田さんが「フフフ」と小さく笑った。
「いつか分かる時がくるさ。とにかく、自分の魂が自分の心と体をコントロールするんだ。自分の魂が自分の心と体を観察し、問いかけてみるんだ、『今、お前が取ろうとしている考え方・行動の他に、もっとより良い方法はないのか?』と・・・。自分の心と体が暴れて、魂の思い通りに動かない場合が多い。しかし、そんな時、透明人間である魂は心と体を冷静に見て、指示していくんだ」
「自分が自分の主人公になるということ続けていくということですね・・・」
 桐田さんが静かにうなずいた。そして、口を開いた。
「森田君。これから、どうするつもりだ?」
「そうですね。僕はしばらく透明人間のまま、雲の上から地上を見つめていたいと思います」
「そりゃ、また、なぜなんだ?」
「そうですね。深く考えたわけじゃないですけど、『今はまだ肉体や心に入らない方がいいんじゃないか』と感じたんです」
「感じた? 考えたのではなく?」
「はい。そうです」
「ふーん。そいつは、いいことだ。考えるのではなく、感じる方がいい」
「なぜですか?」
「理由はうまく説明できないが、人間は『考える力』を磨いてきたけれど、最近は『感じる』ことができなくなっている。自然界の動物のように直感できるって、大切なことなんだ」
「そうですか・・・」
「それは、ともかく、しばらく雲の上で魂として生活してみる・・・ということだな。その間、お前の肉体と心は、『お前という魂』という本体を失ったまま活動を続けることになる」
「わかりました」
「じゃ、一週間後にまた会おう」
 そう言うと、桐田さんは雲の端に立ち、僕の方を向いて手を左右に振った。そして、ポンとジャンプして、下界へ飛び降りていった。
 僕は一人、雲の上に残り、あおむけに寝そべった。
 僕は考えた、「これからどうすればいんだろう? これからどんなふうに考えていくのがいいのか? これからどういった行動を取るのがいいのだろう?」と。
 時折、僕は雲の端に寄って、うつ伏せになり、地上の僕の様子を眺めた。僕はあいかわらず、毎日、線路沿いを歩き、線路の補修工事と点検を進めていた。しかし、内面的には僕は充実感や満足感を全く感じていないのが見て取れた。僕は自分の仕事を天職だと思っていないし、生きがいや働き甲斐を全く感じていないことも見て取れた。
 毎日が退屈だった。動かす肉体もなく、僕は一日中、雲の上に横になって過ごした。
 「あっ」という間に一週間が過ぎた。僕の横に桐田さんが地上から飛び上がってきたのを感じた。
 桐田さんの声を感じた。
「森田君。どうだ、調子は?」
「調子ですか? そうですね。ワクワクすることもなければ、イヤなこともない・・・という感じです」
「そうか。それで、これからはどうするつもりだ? 自分の望みははっきりしたかい?」
「いいえ。これからどうしたいのか、自分でもよくわかりません。自分の体に戻って、『森田モリオ』として生きるのがいいのか、それとも、このまま透明人間として雲の上にとどまるのがいいのか・・・」
 その時、桐田さんが叫んだ。
「森田君。君には、ものすごい選択肢があるよ。それは「『人間の体の中に入らなければならない』ということだ!」
 僕は頭をかしげた。
「それって、どういう意味ですか?」
「君は例えば、セミの中に入ることもできるし、コスモスの中に入ることもできる。君は今、『透明人間』だけど、それは『透明ないのち』であるということだ。つまり、植物でも動物でも、肉体があるものであれば、君は入り込むことができる」
「えーっ! 本当に?」
「もし君が悩みたくないというのなら、人間ではなく、セミとかコスモスとかいったものの中に入った方がいいかもしれない」
「なぜセミやコスモスの中に入ると、苦しまなくていいのですか?」
 桐田さんがゆっくりとつぶやいた。
「わかるだろう? 人間は脳が発達しているんだ。『考えすぎる』ということは『悩み、苦しむ』ということなんだ。完璧を求めすぎ、失敗や他者からの批判を恐れて、未来を心配し、頭の中で悶々と悩み苦しむんだ。しかし、虫や植物は考える力が発達していない。記憶力もない。よって、虫や植物はほとんど悩むこともないんだ・・・」
「なるほど」
「どうする? お前はセミかコスモスの中に入ってみるか?」
 僕は自分がセミの中に入ったところをイメージしてみた。また、自分がコスモスの中に
入ったところをイメージしてみた。しかし、
実感できない。
「桐田さん。一度、セミの体の中に入ったら、二度と出ることができないんですか? それとも、一週間後にセミの体から離脱して、透明人間として再びここへ戻ってくることは可能ですか?」
 桐田さんが目をギロッと開いた。
「もしわしが『一週間だけでいいよ』と約束しても、約束を裏切って、一週間後に自分の肉体に戻ることができなかったら、どうする?」
 僕は考えてみた、『自分が死ぬまでセミのままでいるとしたらどうだろう』と。
「セミって確か、一週間しか生きられないんですよね。それがわかっていて、僕は言えません、『一生、セミの体の中に入っています』なんて・・・」
「それなら、ハトならどうだ? ハトなら一週間ではなく、もう少し長生きするだろう?」
「そうかもしれませんね。でも、やはり言えません、『動植物の体の中で一生生きていきます』だなんて・・・」
「そうか・・・。では、お試しに一週間だけ、セミかコスモスの体の中に入ってみるか?」
「本当の本当に一週間だけという約束なら、僕はどちらかというとハトになってみたい」
「よし! 約束だ! お前は明日から一週間だけ、ハトになるんだ」
 
 翌日、僕は雲の下を見下ろした。地上に一匹のハトを見つけた。灰色の、どこにでもいる、普通のハトだった。僕はそのハトをめがけて、雲の上から飛び降りた。そして、ハトの小さい頭に飛び込んでいった。次の瞬間、僕はハトになっていた。僕の周りには、色や形が異なるハトたちが十匹ほどいた。そして、僕は時折、地面から飛び立ち、エサを探しに飛び立った。
 僕はハトの体に入って、どんなふうに感じたか? 最初は楽でよかった。仕事は行かなくていいし、人間関係のトラブルもないし、ただエサを食べて、空を飛ぶだけ。悩みなんてなかった。というより、何も考えなかった。たぶん、ハトの脳は人間に比較すれば、感じたり考えたりする力に欠けているせいだろう。
 しかし、次第に僕は退屈になってきた。一日中、ただエサを食べて、空を飛んで、そして、夜が来たら寝る。そんな生活に充実感を感じることができなかった。
 あっと言う間に一週間が過ぎ、気がつくと、僕は雲の上に戻っていた。ハトの体を抜け出して、透明人間に戻っていた。
 しばらくして、桐田さんの声が聞こえてきた。
「森田君。ハトとして生きてみて、どうだった?」
「ハトの体の中に入ってハトとして生きるということは、楽でいいと思いました。しかし、ハトになればハトとして考え、ハトとして行動するしかありませんでした。つまり、人間のように考えたり行動したりすることは到底できないと悟りました」
 桐田さんが笑った。
「人間のように脳が発達してしまうと、過去のことを覚えていたり、自分を他人と比較したり、理想を求めすぎたりして、苦しむことが多くなる。その点、ハトは考える力がないから、悩まなくって済むぞ。一生、ハトのまま暮すというのはどうだ?」
 僕はかぶりを振った。
「いや。ハトは一週間も体験すれば、もうこりごりだ」
「そうか。しかし、お前の来世はハトかもしれないぞ」
「来世? 生まれ変わってハトになるっていることですか? 来世なんてあるんですか? 人間として生きて、そして死ねば、それで終わり・・・何じゃないですか?」
「さて、来世が本当にあるのかないのか、わしにはわからん。しかし、もし来世にハトに生まれ変わったら、どうする?」
 僕は考えてみた、「本当に来世はハトとして生きなければならないとしたら、どうだろう?」と・・・。
 桐田さんの声が聞こえてきた。
「来世があるかどうかわからないが、来世はキリンかもしれない、あるいは・・・猿、猫、蟻、蛆虫かもしれない。動物や虫ではなく、植物であるかもしれない。例えば、桜、菊、クローバーかもしれない。来世があるとしたら、お前は何の生物として生まれて来るか、わからないんだぞ」
 その時、ふと思った、「人間としてこの世に生まれて来るということは幸福なことなのかもしれない。しかし、人間として生まれて来るにしても、体や脳に障害を抱えて生まれて来る場合もある。それは幸いなことだと言えるんだろうか?」
 桐田さんの笑い声が聞こえた。
「フフフ。もし来世があるとして、自分がどんな生物として生まれて来るかを選べることができれば、それがいいんだろうけどな」
「それはつまり、自分が来世に何の生き物として生まれて来るのかを選ぶことができない・・・ということですね」
「森田君。それって、選べるものなんだろうか?」
 僕はしばらく考えてから答えた。
「来世・生まれ変わり・転生といったものがあるのかどうかわかりませんけど、もしあるとしたら、次に何の生物として生まれて来るのか、たぶん選ぶことなんかできないんでしょうねえ」
 再び桐田さんの笑い声が聞こえた。
「わしにはわからない。わからないだけではなく、どうしようもないことだな」
 僕は黙ったまま、うなずいた。
 
 長い沈黙が続いた後、桐田さんの声が聞こえてきた。
「さて、森田君。これから、どうしたい?」
「どうしたい? 今後、僕に選ぶことができるとしたら、どんな選択肢があるっていうんですか? 高木君の体の中に入る? 桐田さんの体の中に入る? ハトの体の中に入る? それとも、他の生物の体の中に入る? あるいは、どの体にも入らず、このまま魂として雲の上で暮らしていく?」
「森田君。残念ながら、君には選択肢はないんだ」
「選択肢はない? それは、つまり・・・」
「それはつまり、お前は森田モリオの体の中に戻って、そして、死ぬまで生きていくということだ」
「それしかないんですか? 高木君の体の中に入るとか、桐田さんの体の中に入るとか、ハトの体の中に入るとか、そういう選択肢はないのですか?」
「ない! お前は森田モリオの体の中に戻るしかないんだ!」
「しかし、僕は一週間、高木君や桐田さんやハトの体の中に入ったじゃないですか!」
「確かに。しかし、あれはわしの特別の計らいだ。もう二度と許可することはできない」「そんな・・・。僕は森田モリオとして生きていくしかないんですか! もっと恵まれた体や心や環境を持っている人間の中に入っていきたいです」
「来世があるかどうかわからないが、もし来世があるとしたら何の生物として生まれるのか選べないように、現世においても何の生物として生まれるのかを選ぶことはできない。それは運命だ」
「運命? それって、神様が決めたんですか?」
「神がいるかどうか、わしにはわからんが、もし神がいるのなら、神が決めたのかもしれんなあ・・・。とにかく、個々の魂が自分の入っていく肉体や心を選ぶことはできない」
「そんな・・・。僕は再び、森田モリオの体に戻って、そして依然と同じように苦しみながら暮らしていくしかないのか・・・」
 その時、「ゴホン」という咳声が聞こえた。
桐田さんだった。
「覚えておけ。人間は『意識的な選択』ができるんだ」
「意識的な選択?」
「『経験の意味を選ぶ』という、途方もない能力だ」
「それって、何ですか?」
「森田モリオの体の中に入るという『経験の意味を選択すること』ができるんだよ。森田モリオという人はこの世で唯一無二の存在なんだ。過去にも同じ人はいなかったし、現世にもいないし、未来にも同じ人はいなんだ。だから、森田モリオという個人が果たすべき『唯一無二使命』があるんだと、自己の経験に意味を与えるんだ。森田モリオとして生きることができるのは、世界で唯一、お前だけなんだ。お前が今やらなければ、誰もできないんだ。自分に与えられた運命を背負い、それを墓まで背負っていくんだ。そして、森田モリオに与えられた使命を果たすんだ」
「僕が生まれて来たことには重大な意味があるんですね」
「そうさ。お前にしかできないことがある。お前は自分の使命を自分で見つけることができる。そして、それを果たすためにどりょくすることができる。結果的にうまく行くかどうかなんて、どうでもいいことなんだ。全力を尽くす。それが、お前という魂の果たすべきミッションだ。そんなふうに自分の人生お見ることが、『意識的な選択』だ。それが『経験の意味を選ぶ』ということだ。それが『経験の意味を選択する』ということなんだ」
「与えられた人生をイヤイヤ引き受けるのではなく、それに意味を与える・・・ということですか?」
「そうさ」
「しかし、恵まれていない体・心・環境を持つ人の中に入っていくというのは、入る前から辛くて苦しいということがわかっているじゃないですか?」
「自己中心的に考えるのをストップするんだ。小さなエゴを忘れるんだ。『生きていくことは苦しくない方がいい』なんて甘い思い込みは捨てるんだ。前提として『生きることは苦しいことだ』ということを諦めて受け入れるんだ。『自分の思い通りになるはずない、苦しいことは変えられない』と執着を手放すんだ。だって、生まれるということは、歳を取り、病気になり、いつか死ぬ・・・ということなんだから」
「そう言えば、そうですね」
「それに『死ぬ』ことは恐いことじゃない。個別の肉体に入っていた魂が大いなるいのちのはたらきに戻ることなんだから。我が家へ帰るようなものさ」
 僕はこうべを垂れて、考えてみた、「そう言われてみれば、確かに僕は幼少期から親や先生から『なるべく苦しまない方がいいんだ』とか、『死ぬのは消えることであり、怖いことなんだ』と刷り込まれてきた。しかし、見方・捉え方を変えたり、苦しみに対して今までと違った新しい評価をしたりすることもできるんだ」と・・・。
 しかし、僕は頭を上げて、つぶやいた。
「見方や捉え方を変えたところで、事実は変わらないじゃないか。結局、僕は森田モリオという『恵まれない男』として生きていかなければいけないんだ」
「違うな。お前は以前のお前とは違うんだぞ。何が違うか、わかるか?」
「わからない。何も変わらないと思うけど」
「違う。今やお前は望めば、透明人間になれるんだ」
「透明人間になれる?」
「そうだ。お前は苦しい時、左手の親指を握り、そして目を閉じて深呼吸を繰り返せば、いつでも肉体から離脱して、雲の上から自分の肉体と心を見ることができるんだ。そうすれば、お前は自分の肉体と心を冷静に見ることができる。自分の肉体と心の苦しみに反応しないでいられる。自分の肉体と心の苦しみを見送ることができる。苦しまずに、ただ過ぎ行くものとして出来事をやり過ごすことができる」
「そうか。僕は透明人間になれるんだ」
「森田君。そろそろ出発するか?」
「はい」
「苦しみはお前を成長させてくれる。苦しみを感じた時は、警告灯のランプが点灯した時だ。バランスが悪くなっているということを教えてくれている。その時は・・・」
 僕は桐田さんの言葉が終わる前に言った。
「透明人間になって、自分の体と心を冷静に見て、自分の体と心をコントロールしていけばいいんでしょう?」
 桐田さんの笑い声が聞こえてきた。
 僕は告げた。
「それじゃあ、行きます」
 僕は雲の端に立ち、下界へ向かって飛び降りた。僕はまっすぐに僕の肉体に向かって落ちていく。そして、すっぽりと僕の中に入った。


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