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【#Real Voice 2022】 「3種の鬱、失われた3ヶ月から得たもの」 4年・生方聖己


生きている意味なんてそもそも無かったんだな。



1.予兆


6月2日の木曜日、皆の「いこーぜ、いこーぜ」の声と共鳴するかのように激しい頭痛に襲われた。

ネームボードを持って立っているその姿を見て途方もない怒りを覚えた。

まるで力が入らない下半身。地に足がついている事は視認できるが、地に足がついている感覚はない。

GKトレでいつもは仲の良い皆の笑っている顔を見れば、いわく言葉にし難い怒りを再び覚える。ボール回し中の周(4年・平田周)の軽いいつもの弄りに笑えない。


フィールドとの合流。小さいミスを連発した。留まらない苛立ち。


プツンと何かが切れた音がした。


あ、俺今サッカーやっちゃ駄目だ。



「すみません、足首が痛いのでゲバ(紅白戦)出れません。」



そういって櫓に向かい、重力に従うままに腰を下ろした。


意図せず涙がこぼれ落ちる。




陽琉(3年・奥田陽琉)が寄ってきてくれて、「どうしたの生 (うぶ)、一緒に頑張ろうぜ」と言ってくれたのをなんとなく覚えている。




それと呼応し、滝のようにあふれ止められない涙。




グラウンドにいることにすら恐怖を感じた私は、櫓を離れ、自動販売機の隣の青いベンチに座り、果てのない灰色の世界をただひたすらに眺めていた。




限界だった。






4月24日。4節東洋戦。夢にまで見た関東リーグに出場した。リーグにも所属していなかった中体連出身の自分が、全国経験もない高校出身の、その中ですら大した実績を残せなかった自分が、日体大でFチームだった自分が、早稲田3年の冬FC(社会人リーグ)でバー外になった自分が、大学トップリーグである関東リーグに出場した。



1年の時の入部挨拶で泣きながら公言した関東リーグ出場。



ようやく回収した。



ようやく物語の幕が開けた。



人間の不平等に抗う戦い、人間の可能性を追求する戦い



ここからが夢の始まりだと思っていた。


しかしそう甘くなかった。


次節の東国(東京国際大学)戦を最後に、私が再び関東のピッチに戻れることはなかった。






GW明けくらいからグラウンドに行くのが次第に憂鬱になっていた。



タスクに追われ続ける日々



どんなに家でモチベートしても、たった5分の道のり、グラウンドに近づくにつれ心の火は沈んでゆく。



こなすだけの練習



相容れない考え、不透明な責任の所在




それでも関東リーグに名を残し続けないと、サブでもいい、せっかくここまで来たんだ、関東リーグに名前さえ残し続ければ、今後も高いレベルでサッカーを続けられる。




その思い一心で、日々の練習をこなす。




Iリーグ(インディペンデンスリーグ)、負けてるのに笑っている人。



不透明な責任の所在。



立場上言う事を躊躇った本当の事。表すことを恐れた本当の自分。



お互い目を覚まし合って頑張ろうといった仲間を他所目に、板挟みになり薄れていく本当の自分。




あやふやになっていく価値観。





襲い来る形而上的な思想。






私はその日中に矢後さん(コーチ)に相談し、1度部から離れたいという旨を伝えた。


2.適応障害

当初私は、OT(オーバートレーニング症候群)の類のものだと思っていた。同期や、先輩にOTになっていた人がいたということもあり、事前知識としてあった。その為、グラウンドに行くのが憂鬱且つ、症状として頭痛が出た際に「もしかしたらOTかもしれないな・・・」と思えたので、取り返しのつかなくなる前に自ら引くことができた。



疲れていたのだろう。




少し頑張りすぎたのだ。




慣れないチームのタスクを担ったり、背負い込む必要のないモノを勝手に背負い込んだり。



少しサッカーから離れてリフレッシュすれば、次第に回復するだろうと考えていた。




サッカーから、ア式蹴球部から離れ、やるべき事を一旦全て放棄し、親にも相談してバイトも辞め、授業も休み、できるだけの時間を確保し何にも追われない環境を作り出した。



部外の友達に飲み会にも連れ出してもらった。



しかし、私の予想と反して全く心は晴れない。それどころか、どんどん沈んでいく心を感じた。私には、軽い鬱気質があるという事を今迄の人生の経験の中で自認していたが、それとは何か得体の全く違う種の闇が襲っていることに気がついた。解りやすい表現をすれば、常に心にどかすことのできない重りが乗っているかのようだった。


この心の重りの正体が解らないまま、ただ憂鬱な時間が続いていた。


時間が経てば解決する、そういった類のものではないことは明らかだった。



私は、小学校からの仲の親友に相談した。





御茶ノ水駅に降り立ち、受験の時の記憶が懐かしいという感情と共に蘇り、その後即座に記憶は灰色と化し、感情は心の重りとして積み重なる。




アパートに着くと、迎えてくれた親友が「お疲れ様。大丈夫だった?まぁとりあえず話そう」と声をかけ、始まったカウンセリング。




私は、親友に

・4年目になり環境の急速な変化によるストレス(BからAにあがり、あまりにもトントン拍子での関東出場)

・自分の時間とチームのタスクの両立のバランスが乱れたこと(JFLで仕事とサッカーの両立を目標に、仕事の世界の探索・就職活動を始めた。チームのタスクはBのTM・GKトレーニング作成・関東リーグのセットプレー・1年の入部MTGなど。春休み中は両立できていたが、休み明けにそこに授業やバイトが重なり自分の時間が削られていった)
が今回ここまで落ちてしまった原因であると考えている事、最初はサッカーから離れれば良くなると思っていたが、気分は沈んでいく一方でなかなか回復の兆しが見えないという事を改めて伝えた。


親友がいたことで心の重さは少しだけ軽くはなったが、心の重りは依然としてどかない。


そこへ、もう1人の親友が、私を心配してくれて合流してくれた。彼も小学校からの仲である。


3人で話していくにつれ、次第に原因が明確化してきた。



それは、組織への絶望。そしてその先にある社会への失望。



元来私は、筋が通らなかったり、意味があると認識できないモノに対してそれを自分の中でうまくかみ砕く事がなかなかできない性質であった。いや、ある程度できていたが4年になり、トップチームに上がってから、立場上消化することができなくなりどんどん私の中に違和感が蓄積していって、それに物理的制約(自分の時間が取れなくなった事)が重なりパンクしたのだ。



そして、本当の自分を押し殺し、見失う過程で私は「本当の社会もこんなものなのか」と
頻繁に連想するようになり、未来まで見失ってしまった。



明け方を周っていたが、ここの話になると今までの無口が嘘のようにスラスラと話し続け、話しながら心の重りがどいていくのを感じた。
私は、おかしいと思う事をおかしいと言って対立する際に生じるストレスよりも、おかしい事をおかしいと言わずそれを押さえつけることで生じるストレスの方が圧倒的に大きい。


途中から来た親友が伝えてくれた、「社会ってそんな悪い所じゃないよ」。この言葉が世の中のコミュニティの広さを再認識させてくれ、私の重りを完全にどかしてくれた。





重りの正体を突き止めた私は親友にお礼を言ってアパートを出る。


別れ際に親友から「血が戻ってきたね。最初会った時顔真っ青だったからびっくりしたよ」と言われた。



視界に光を取り戻したのは久しぶりだった。



しかし2日後くらいから躁鬱状態になった。




朝起きた時は何もないが、昼頃になるとこの世の終わりかと思うくらい気分が沈む。得体のしれない恐怖が襲う。そして夜頃になると、無性に元気が出てくる。逆の時もあった。


1人でいるととてつもない陰が襲い、これはまずい思い友達と電話したりすると次第に心が落ち着いてくる。そして電話が終わると、異常な高揚感。


有楽町で明け方まで遊び、西武新宿の始発まで2時間程あった為歩いて向かう事にした。その過程で先ほどまでの高揚が嘘のように孤独に変わり、たまたま起きてた周に泣きながら「社会ってこんなんなの?」と充電が切れるまで問い続けた。



内田(GKコーチ)さんに状況報告の電話をした際は、「そろそろ戻れます!」と伝えるが、次の日に稲葉さん(トレーナー)に報告する際は、「しんどいです」と伝える。



どちらもその時の本心だ。この時私は、私の中に分裂した2人が住んでいると思っていた。



大学の精神科にも通った。



次第に、「サッカーしたい。皆に会いたい」という思いが芽生え始め、復帰することにした。




内田さんの提案もあり、Bチームでの復帰という事に決めた。1度ストレスフリーな状態で、まずサッカーの楽しさを思い出すという意図で。



再発の不安を抱えながら部室に向かった。もし、また頭痛が出たら、俺はこの先サッカーができないのかな。


しかし、皆と会って久しぶりに話してるうちにその不安は無くなった。それに、久々のサッカーはすごく楽しかった。


家に帰りご飯を食べながら私が一重に戻った事を確信し、やっと治ったと思った。



失ったこの期間を取り戻すべく、後期関東リーグに復帰する為の計画をエクセルでその日のうちに作成した。




よし、ここからだ。


ただ、復帰した次の日の練習では、授業後に行った事もあり自分の時間を確保することができず、少しの頭痛と苛立ち、憂鬱な気分が襲ってきた。

その次の日、練習前に自分の時間を確保してから挑んだら落ち着いた。

再発しない為に自分のペースを確保することを再優先するなど、細心の注意を払った。まぁ直ぐに完治する訳ないのでゆっくり焦らず。



エクセルで作成していた計画を遂行すべく、竹中(2年・竹中豪)と自主練を再開した。

しかしここで、心があまり身乗りしていない自分がいることに気づいた。1セッション終える毎に「なんで俺・・・なんの為にやってるのかな?(笑)」と竹中に呟く。それでも身体は動いていく。


復帰したので、必然的にMTGなどの活動には参加することになる(それまで担っていたGKのタスクは周が代わってくれた為、個人的タスクは無くなった)。最初は、軽く聞き流していたが、その時の内容がやはり個人的に納得することができずそこへの苛立ちから再び頭痛と情緒不安定な状態に陥った。


結局、自分の中でここが解決されないと次に進めない。しかし、伝えたところで変わらないし、その前に自分はもっとできるんじゃないのと言われるし、もっと言えばこの環境を4年前に選んだのは自分で、多くの恩恵も受けた。でも、心に重くのしかかる違和感。葛藤した挙句私が導き出したのは違和感を伝える事。何を返されても何を思われてもいい、これを伝えないと私は気が済まない。個人の幸福を優先した。


伝えたい事を伝えて、完全にスッキリした訳ではないが、再び現れた重りが軽くなった。



そこから私は1週間程、いつも通りの生活を送る。竹中との自主練もこなす。


「良かった、治って」そう思っていた。





しかし私は、再び地に足がつく感覚を失っていた。




頑張れない。力が入らない。けれど何故か身体は動く。



心の晴れない日々が続く。



苛立ちは全く感じない。無気力。


取りあえず計画表通り事をこなす。


身体は確かに動く。でも心が追い付かない。だから声がでない。


「俺、なにしてんのかな、どうしちゃったのかな」練習中空を見上げながら度々思う。


そんな日々を繰り返したある日の練習後、私は部室に座り、隣の中村(4年・中村亮介)に向かって「なんかさぁ、最近頑張れないんだよねぇ、力はいらなくてさ、やるべきこともあるはずなのに」とぼやいた。



それをたまたま聞いていた1年の球尊(1年・川辺球尊)が、「生(うぶ)君、ちょっといいすか」と帰り際の私に話しかけてきた。


「生(うぶ)君、俺もユースの時に頑張れない時期がありました。トップに昇格できず、なんの為にサッカーやってきたんだろうと思って、全く力が湧かなくなりました。でも、そんな時にア式蹴球部の練習に参加して、価値観が広がってまた頑張ろうと思えました。生(うぶ)君は、今迄本当に頑張ってきたと思います。普通に考えたらあんなに這い上がる事なんてできないです。すごい事です。今はきっとその反動が来て少し落ちているだけです。時が経てば解決します。今は無理に頑張ろうとしなくていいんです。頑張れない自分も認めてあげてください。」


それを聞いた私は、彼が4個下という事実に驚きを示したと同時に、はっと何かを気づかされた気がした。



そっか俺、別に頑張らなくてもいいんだ







次の日の練習、頑張れない自分を認めてあげられたことによりびっくりするくらい心と身体が軽くなったのを感じた。開き直れた事により、むしろ声も出てきた。久しぶりに皆とのサッカーに楽しさを感じれた。



2日後



これまでとは桁外れの無気力に襲われた。





頑張れない自分を認めた事により、本当に頑張れなくなっていた。身体も動かなくなった。



今日だけか、とも思ったが次の日もまるで力が入らない。



練習が終わり即座に家に帰る。



部屋の椅子に座りながら球尊に言われた言葉を思い出す。



時間が解決してくれるか。



その瞬間だった。



どこからともなく、何の前触れもなく、ふいに落ちてきた。



あ、俺ってプロになれなかったんだ。


3.燃え尽き症候群

その瞬間、今までの経験が走馬灯のように甦る。

「高1の時、1番下手で、馬鹿にされながらもそれを反骨心に復活し選手権に出た。上には上がいることを知り、大学での再起を誓う。全く歯が立たなかった日体大。心身ともに限界の状態で挑んだ再受験。もっと上でやる為に、プロになる為に。早稲田に来てさらに歯が立たない自分。試合にも出れない、公式戦にも出れない。それでも人間の可能性を示す為、戦った。死ぬほど練習した。行き詰まり、量から質に転化した。3年の夏にようやくBでデビューした。しかしすぐにスタメンを奪われ、冬にバー外。流石に諦めかけたその時に止めた。俺ならできる。俺は違う。ここで終わっていいのか。ドイツに行った。そして夢にまで見た関東に出場した・・・。しかしそこで初めてぶつかった壁。JリーグにいくGKに間近で触れた時の、あれ、俺こいつにどうやって勝つんだろう・・・。まぁ、俺ならどうにかなるでしょ。
受験に合格した時に感じた、俺何処までこの苦労続けるのかな。関東に出場した時に感じた、俺あとどれくらいやればプロになれるのかな。いつになったら満足するのかな。」



それらが脳裏から槍の形をして心に高速で向かい、心に到達した瞬間



心の中にある“わたし”が音を立てて崩壊していった。

「具体的にどうやって勝つの?もうこの先環境は待ってくれないんだよ?今迄みたいに上手くなれるとは限らないんだよ?どうやって生きていくの?取りあえず最初はJFLに入ってそこから這い上がるって、お金はどうするの?奨学金はどうやって返すの?そして、そんなに甘い世界じゃないでしょ?その身長でハンデがあるのにそれを上回れるだけの武器を持っているの?高校でなれなかったから大学、大学でなれなかったからJFL、そうやっていつまで先延ばしにするの?そろそろ現実見なよ。」



そうか、俺は何者でもなかったんだな。



俺は何の為にサッカーをしてきたんだろう




「俺の事だからどうにかなるでしょ」の1言で後回しにしていた壁が、適応障害をきっかけに1度サッカーから距離を置いたことによって急に現実問題として襲ってきたのだろう。



そこからの日々は正に地獄。私という人間の価値の喪失と共に唯、物質として存在する日々を繰り返す。死にたいとは思わない。かといって生きたいとも思わない。



人ができないと言う事に挑戦してそれを達成する。人間の不平等性に後天的要素を用いて抗う。「やっぱりお前は凄いよ。なんでそんなに頑張れるの? 俺なんてなんもやりたいこと見つからないよ。いいなぁ、そんなに頑張れて。人が見れない景色見れてるよね。面白い人生になりそう。」



俺は人と違う。皆は無理と言ってても俺だけはできる。



この身長でGKとしてプロにない、人間の、自分の可能性を広げる。



それが達成できなかった私に価値などない。
なんも特別なんかじゃなかった。なんもすごくなんてなかった。俺もその他大勢と同じだった。



練習に行く。終わって櫓に座り、自主練をする皆を見て、こいつら何の為にこんなに頑張ってるんだろう。なんでこんなに頑張れるんだろう。



ついこないだまでの自分がそうだったのに。



家に帰り、ご飯を食べる。食べてる時にふと思う。そういえば俺、何の為に食べているんだろう。


ご飯を食べる理由など、生きる為に決まっている。それでもその時の私は本気で思った。



ご飯を1杯ではなく2杯目食べていたのも体重を減らさないため、そもそも寮に入ったのも、プロになるため。でもなれなかった。あ、俺食べる意味ないじゃん。

あまりにも生活のすべてが、8年間の生活すべてが、サッカーで上に行く・自分の可能性を示す事に紐づいてしまっていたため、意義を失った途端に過去の記憶も全て灰と化した。


何の為にサッカーしてきたのだろう。



そしてそれは次第に、何の為に生きてきたのだろう。



何のために生きるのだろう、に変わっていった。


そしてさらに厄介だったのが、私の元々の思考の癖と絡みついてしまったことだ。




「いや、待てよ、そもそも人間に生きている意味なんてないじゃないか。結局何かを成し遂げたところで、仮にプロになったところで、万物全てを手中に収めたところで、人はいずれ、灰になり土に還り、いずれは宇宙の藻屑となって消える。そんな当たり前の事、俺はなんで忘れていたのだろう。

人生に生きがいや意義、使命はあるものだと思っていた。少なくとも俺にはある。そう信じていた。

しかしそんなことなかった。人生に意義などなかった。生まれたから生きてるだけ。それ以上でもそれ以下でもない。私が必要以上に見出そうとしすぎていただけだった。そんなものただの暇つぶしでしかなかった。」


この22歳にして初のアイデンティティ喪失に、厭世的思考が複雑に混ざり合い、より大きな苦しみを与えることになる。


保育園からの幼馴染は、私とは丸っきり反対の性格で、いつも私と「そんな考えなくていいじゃん」、「考えちゃうんだから仕方ないじゃん」の掛け合いをしていた子にLINEで

俺、生きることに意味を見出そうとしすぎてたわ、でもそんなもの、そもそも存在してなかったわ。

と送った。


私はそんな事、とっくに気づいてたよ。だから好きなことして楽しく良い感じに生きてるんだよ。

って返信が来た。




なんだ、俺の方が、この世界の事、なんも知らなかったんだ。

なんでそんな事も忘れてサッカーに夢中になっていたのだろう。

プロになりたかったから。

なんで?



人間の不平等性に抗うため、可能性を広げる為、そしてサッカーを通して、自分という存在を認められたい為

でもそんなもの、何の意味もなさなかった。


そして、私の原動力となっていたモノは他人軸であった事に気づき、そこに途方もない労力を注いだにも関わらず成し得なかったという事実が私をより大きく失望させた。

今まで私が認識していた私は、そもそも存在していなかったことに気づいた。

その途端、ドッペルゲンガーのように影の薄い存在が無数に出てきた。

それからの日々は、私の視界から完全に光が消えた。情報の優劣が全くつかなくなる。宗教と思考の区別もつかなくなり、私の周りには常に悪魔のささやきが成されていた。ニュースや、携帯を見るのも怖くなりLINE以外の情報はすべて遮断した。

そして時折、体中から死の分子が溢れ出すのを感じ、恐怖から布団を被る。


当初抱いていた社会への失望感も何故か蘇り、都心に近づくにつれ、得体の知れない恐怖と鬱が襲う。



この時は、極力1人でいないようにした。


本当に死んでしまうと思ったから。


この時も躁鬱状態で、人といる時は大丈夫だったが、人と別れた後に襲ってくる恐怖はとてつもないものだった。その時はすぐにベッドに潜り込み、布団で覆う。そうしないと、死に導かれる気がしていた。


生きてる意味なんてなかったんだな。そう思っては消えたくなる日々を舞っていた。

4.兆し

いつものように亡者の如く練習に向かい、終わって櫓に座り眺めているとある光景が目に入ってきた。



内田さん(GKコーチ)と隆二さん(鹿島アントラーズコーチ・鈴木隆二)が溌溂とした笑顔で選手と自主練をしている姿。

私は「この人たちは、なんでこんなに楽しそうなんだろう。20も年上で、私よりも余生が少ないこの人たちは、人生に何を見出して生きているのだろう。」と思った。


私はまず隆二さんに現状を説明した。「生(うぶ)、解った。俺から伝えたいことがある。」


次の日の朝、隆二さんの仕事前にzoomをつないだ。

そこで隆二さんは、自分もかつてプロを本気で目指すも頓挫し、大きく失望したが、それをきっかけに大きく人生が拓かれたという事、そしてそこから得た気づきなどを私に伝えてくれた。


その話を聞いて私は、少し元気が出た。


勿論、鬱々とした気分は残り続けていたが、かすかに光が見えた。





その日の夜9時、女子部の練習が終わってから内田さんとコーチ室で話した。
そこで内田さんは、プロになれなかったとしても俺が辿ってきたこの4年間のプロセスは間違いなく価値のあるものであり、充分やってきた。そこを認めてあげてほしい、という事を伝えてくれた。そしてそれと同時に、在り方の大切さを教えてくれた。プロじゃないから、サラリーマンだからとかは関係ない。

自分でも、結果よりも過程という思考を知らないわけではなかったが、どこかでそれは逃げであるという強い認識があった。それを、4年間私を近くで見て、大きな成長の支えになった内田さんから言われたことにより、驚く程すっと受け入れることができた。


家に帰り、椅子に座る。プロセス・在り方。俺、よく頑張ったんじゃないかな。素直にそう思え、次第に心が温まっていくのを感じた。


この2人の、生き生きと人生を歩んでいる姿は、大きな光として私の目を通って心に焼き付いた。




そして、私を唯の物資から人間に戻すきっかけとなったのは、意外にもコロナだった。

実は2人と話した後も、しばらく苦しむことになる。複雑に絡まっていたアイデンティティ喪失と、厭世的思考の前者が2人のおかげで取り除かれたのだが、後者は依然として残り続けた。

そして、対象が1つになった分、思考の深さが増してしまい、「生きている意味」の模索から「人類の過去・未来、地球の過去・未来、宇宙の本質」まで広がってしまった。何気ここが1番苦しんだかもしれない。答えが一向に出ない、そしてそれを受け入れることができない私。この時も、得体の知れない死への恐怖と欲が複雑に混ざり合っていた。

そんなタイミングでコロナになる。何も考えらえない程の猛熱にうなされた。

熱が下がると、隔離期間の孤独が鬱に拍車をかけるという予想に反し、脳がクリアになっていた。そのあまりに増えた自由な時間で、考えても仕方のない事をひたすらに考えきる為の時間と、思考に介入させない時間を分別することができた。


そして、1つの思考が頭に浮かぶようになった。


「俺は死ねない。」



この3か月間で、何回も生に対する絶望を経験した。しかしその度に、私に手を差し伸べてくれる多くの人間がいた。

その過程を振り返り私は思った。



「俺はどうせ死ねない。皆がいるから。親がいるから。そもそもそんな勇気がない。そう思っても1度も行動に起こせたことはなかった。だからどうせ生きる。どうせ生きるなら。こう生きたい。こう在りたい。」



5.終わりに

最後まで長いのに読んでいただきありがとうございます。ここで記した事は、私の5月から8月の出来事です。

適応障害を引き金に今迄目を背けてきた壁が一気におしよせ燃え尽き症候群を発症、意義の喪失と模索、思考の転換という流れを書いてきた。


事例が特殊なだけで、この心の葛藤は、このレベルまで続けてきたアスリートの多くがぶつかる壁だと思われます。

また、私がここまで限界を感じず上り詰められたのは、私が特別な訳ではなく、限界を感じるタイミングがたまたま遅かっただけであるという事に気づきました。

コロナから復帰し、そこから徐々に心を取り戻していった私の、本当の自分探しが始まりました。今まで見てきたサッカーという世界は、あまりにも世界の1部にしか過ぎなかった事。
生きる意義を見失うという病は、物質的に豊かだからこその悩みであったという事。
生きることが当たり前になっていたのは、身内のおかげであった事。

勿論、依然として生の意義に対する意味についての答えは出ません。今でも心の片隅から離れません。

もしかしてそれを解明する事が私の人生なのかもしれません。


先日引退しました。目標としていた関東のピッチにはあと1歩の所で戻れませんでした。


それでも、復帰してから日々ポジティブに過ごすことができたのは、私に手を差し伸べてくれた多くの方のおかげです。


この先、どうなるか全くわかりませんが、面白く生かせていただきたいと思います。

◇生方聖己◇
学年:4年
学部:スポーツ科学部
前所属チーム:高崎経済大学附属高校

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