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「回顧録 希少性を求めて」 1年・生方聖己

自分の趣味の1つに回顧がある。
思い出しながら「あの頃は良かったなー」や、「あの頃は辛かったなー」など、感情が伴うことは別にない。ただ思い出すだけである。思い出すそのこと自体が楽しい。今回書かれている感情は当時の思いを思い出したものである。

自分に部員ブログの番が回ってきた。課題は自由とのことなので、趣味の一環としてこの場を利用したいと思う。よって、あまり人になにかを訴えかけるものでもなければ、今までのことを踏まえてこれからどうしていこうなどの自己啓発的なものでもない。要するに全くもって需要がないのである。強いて需要を見出すとしたら、この文を読んで「このような生き方もあるのだな」と、生き方のパターンを増やせるかもしれない、という点。生き方のパターンを増やすということは、考え方に多様性が生まれるということと同じことであるから。考え方の多様性が生む利点は言うまでもないだろう。

今回は主に昨年のこと(浪人に至るまで、浪人中)について回顧していこうと思う。多分かなり長くなるうえにただ去年の出来事を羅列するだけという非常に退屈なものである。


2018年4月3日、自分は日本体育大学の入学式に居た。体育大学ということもあり、周りにごつい人が結構多く、少し怖かったのを覚えている。その頃メダルを獲得したばかりの高木美帆選手や川合俊一さんが来たりしていた。入学式が終わると皆、大学の名が書かれた表札の前で写真を撮ろうとひしめき合っていた。そんな中自分はさっさと帰ろうとしていた。というのも自分はこの大学には1年しかいないし、1年後は別の大学で入学式をするからそこで撮れば良い、と思っていたためだ。さっさと帰ってさっさと受験のための勉強がしたかった。ただ親というものは写真を撮りたがるもので、しぶしぶ2、3枚取らざるを得なかったことも覚えている。

「残念ながら不合格です。」この言葉から全てが始まった。
自分が受験のための勉強(受験勉強)を開始したのは選手権県予選が11月末に終わり、約10日間の放心状態を脱却した12月1日からであった。当時自分は、サッカーさえ強ければどこの大学でも良いと思っていた。とりあえずいち早く大学サッカーのスピードを経験して、いち早く上手くなりたいとだけ思っていた。当時の計画はこうだ。社会はなぜだかやってしまう質で3年間の積み重ねがあったため、偏差値40前半を常に安定してとっていた英語と国語(現代文だけ)をセンター本番までできるだけ伸ばし、日本史で穴埋めをし、ある程度の所をセンター利用でとって受験とさっさとおさらばする。
「英語と国語は長期的にやらないと伸びない」と多くの教育者はそう自分に言ってきたし、部活を6、7月に引退してずっと勉強している人達を見て、誠にその通りなのだなと思っていた。だが違った。1か月もしないうちに英語は過去問で偏差値60くらいになった。現代文もある参考書を機に7~8割はとれるようになった。周りからは伸びの速さに驚かれたが逆になぜそんなに時間がかかっているのか不思議だった。気づけば受験勉強にはまっていた。センター本番のちょっと前、小学校の監督の勧めもあって明治大学をうけることにした。今思えばよくその短期間で理由は何であろうと目指そうと思えたものである。ただ受験勉強というものにおいて留まることを知らなかった自分はいけると思っていた。センター本番も8割ちょいとることができ、センター利用もとることができ、本来の予定ならばもうここで終わるはずだった。ただ、センターが終わってからさらにギアを上げる。本来使う予定でなかった古典を始め、2週間前から明治の赤本を始めた。センターである程度とれていたので結構いけるのではないかと過信していた。本来は60分が制限時間の英語を90分かけ正答率が4割くらいだったときに初めて自分の愚かさに気づかされたものだ。その日は、どう考えても残りの日数ではこのレベルに達成できないということが判明してしまい、1日中ベッドの上で天井を眺めていた。それでも人間の順応能力とはすごいもので、1試合だけ息抜きでと決めて始めたFIFAをやりすぎてしまい、終わった後に自責の念に駆られベッドの上で泣きそうになりながら座っていたり、単語帳に使っていた付箋が切れて予定通りことが進まなくなりとてつもなくイライラした後に自責の念に駆られ机にひたすら突っ伏して「俺は終わりだ」的なことをつぶやきながら貴重な時間を潰す、という地獄のような日々を経験しながらも本番の2日前には制限時間内に7割とれるようになっていた。それでも受験は甘くなく、自分のように本番に半強制的に合わせて身に着けた、有って無いような実力では受かるはずがなかった。不合格発表から後は何をやっても楽しさを感じなかった。その頃ちょうど発売されたモンハンやCODなど結構な数のゲームを買うも、やっているのは“落ちた自分”。楽しいはずがない。卒業式の後にクラスの仲良い人たちとオールで行ったROUND1も何か楽しみ切れていない自分がいた。選択肢は2つあった。1つは、受かった大学に進み、本来の目的である大学サッカーを早く経験する。そしてもう1つは浪人だ。自分は常に、どんなことがあっても浪人だけはしないと周りに言っていたので浪人という選択肢があったこと自体不思議だった。浪人が選択使になった理由は様々あった。所詮受験勉強というカテゴリーだけどせっかく見つけた自分の可能性を潰したくなかったし、3年間下手のまま終わったサッカーに比べれば、正しいルートさえ辿れば伸びてくれる受験勉強はとても簡単だった。ただその中でも最も大きな理由は、同じ受験という場で戦をしていた周りの人に負けたのが悔しいというより許せなかったからだ。(あと1か月さえあれば自分も)(なぜあいつが指定校でそこの大学に行くんだよ、本当に行けるだけの実力があるのかよ)など、自分の、自分にベクトルを向けることができない醜い自分がもろに出てしまった感じであった。まあ醜いことは理解しているが自分はそういう人間であることもよく理解している。ただ浪人をするということは1年間サッカーを停滞させるということだ。サッカーを上手くなるということを掲げる自分にとってそれは避けなくてはいけないことであった。それに1年間も確実に要らなかった。ただ、受験は自分が受けたいときに受けられるものではない事は周知の事実だ。要するに、例え夏休みまでに目標の点数に達していたとしても、本番まで学力をキープしなくてはいけない。キープするというのは新しい知識こそ頭には入ってこないものの、既にある知識を忘れないようにするということは非常に労力がかかり、つまらない。定期テストのように終わったら忘れられるという程甘くないのだ。それに人間とはある程度追い込まれたほうがいいのだ。これらのことの関しては本当によく悩んだ。そしてある日ふと思い立った。どっちも取ればいいじゃないか。3つ目の選択肢があるじゃないか。大学に通いながら浪人をする、世でいう仮面浪人というやつだがそれに部活を加えただけだ。それまで仮面浪人という考えが浮かばなかったわけではなかったが、部活をしながらというのは前例もなかったし、体力的に無理だと思ったのですぐにその愚案は消え去った。でもよく考えたら無理なはずが無かった。元々予備校に行く予定もなかったし、何しろ普通に浪人しても(1年あったらそれは受かるだろう)と本当の受験を知らない人に思われるのを恐れていた自分にとってもってこいの選択肢だった。その日のうちにこの事を親に告げた。
 

「無理だ」
親に言われた第一声だ。
いつも自分の進路については口挟まず、やりたいようにやらせてくれた親からそう言われたのは予想外だった。今思えばこういわれるのも全く無理もないことである。家は別に裕福な家庭ではない。むしろ収入に関しては普通の家庭より低い。共働きで頑張っている。まず私立大学に入る時点でかかる不当なほどの入学金や授業料、施設費などに加えて部活に入るとなるとさらにかかる金、そしてさらには1年間1人暮らしをすることになるのでそれに対しての仕送りなど、予備校に通うより多くの金がかかることになる。奨学金をフルで借りたとしても払うことの難しい額であった。自分はそれまで、親が子にやりたいことをやらせるのは当たり前、任務であり習わしだと思っていた。今の親も祖父母にそうしてもらっていたように。ただ、この事を機に自分の考えは変わった。そもそも親を“親”というものではなく“1人の人間”として考えてみたらどうだろうか。自分が1人の人間に、自分の利益にしかならない事のために何百万も貰おうとしているのである。そんなわがままなことがあるであろうか、いやない。
その上、受かる保証などどこにもなかった。自分の中では確実にあったが、周りから見たらそんなの根拠のないものなのである。それでもどうにか説得し、最後には許してもらえた。自分は幸運な人間であった。


そうして自分は入学式を迎えた。その日を境に、本来の目的であるサッカー技術の向上、そして一時の、本当に醜い恨みをはらすための1年間が始まった。


何個かあった大学の中から日本体育大学に進んだ理由。自分は元々スポーツ科学系の学部に進みたかったのでそれに近い体育学部があったため、そして部活は朝練だけであったため(朝練だけであったら、授業が終わった後は全て勉強の時間に割けるから)、そして何より入部希望者は全員受け付ける、というのが決め手となった。こう言ってはなんだが、自分は1年後には辞めるので難なく辞められるところでなくてはいけなかった。

自分が早稲田を目指した理由、先程と同じようにスポーツ科学を学びたかったため。どうせ1年あるならば日本で一番偏差値の高いスポーツ科学部に行こうと思った。ただ、それは名目上の理由でしかない。本当の理由は自分の高校の指定校の最高位が明治大学だったから。狭きコミュニティーではあるが、自分はどうしてもそこより上に行かなくてはいけなかった。本当にばからしい話である。ただこれが自分だ。

ただ、入学早々かなりのハプニングが起きた。それは最初の入部希望者説明の時、就任1年目の矢野さんが発した事。「今年の1年生から2部練習にする。」これは自分にとってかなりのハプニングであった。そもそも先ほども言ったように朝練だけと聞いていたため来たというのもあったし、なにより午後に勉強時間を充てる予定だったので本当に焦ったのを覚えている。確か最初100人くらい来ていたのだが午後練があると知り20人くらい居なくなった。とりあえず4月はまだ部活が始まっていなかったため、授業に出ながら大学とはどういうものなのかを知りながら、家ではひたすら勉強した。

5月GW明け、ようやく待ちに待った部活が始まる。初日は1年全員でミニゲーム大会。
この時自分は「本当に来てよかった」と感じた。全国の強豪から集まった人たち。選手権にスタメンで出ていた人たち。名前を検索すれば数々の記事が出てくるような人たち。本当に上手かった。自分とは比べ物にならない。この人たちと1年間一緒にサッカーをすれば絶対に上手くなれると確信したし、久しぶりに楽しさを感じた。情けなくも、5月の時点で入学後の今までとガラッと変わった環境、出会ったことのないタイプの人間、孤独による軽いカルチャーショック的なものになってしまった。日々憂鬱な気持ちで勉強をしていたが、それを変えてくれたのはやはりサッカーだった。ただ楽しい事だけではない。日体はA~Fのカテゴリーがあるのだが、そのどこに配属されるかは実力次第。それを見極めるために1か月間1年生だけでTRをした。この期間は毎日差を感じ、劣等感を抱きながら生きていた。
家に帰っては、本来勉強にあてなくてはいけない時間を、どうやったら差を縮められるのかと考えていた。案の定自分はFになったのだが、納得のいくものだった。1年練習最後の日に、東京タワーからキャンパスまで皆で走ったのはいい思い出である。
6月から本格的に各カテゴリーの朝練が始まり、そしてついに午後練が始まった。ここからはなかなかきつかった思い出がある。

当時のスケジュールはこうだ
5:30~6:00 起床
6:30~8:30 朝練
9:00~16:00 授業と空きコマに勉強
16:30~19:00 午後練
19:00~21:00 ご飯、洗濯、風呂、ストレッチなど 
21:00~24:00 勉強

これは代表例で、午後練後に自主練をしすぎてしまったり、OFFの日は日体の図書館、または自転車で15分くらいの“本の家”という面白い名の図書館で1日中籠ったりもした。
なにがきつかったかって言うと、午後練がほとんど走りだったということである。多いときは火~木走りだったこともある。筋肉痛がとれないまま朝練に向かうのが日課になった。それに勉強時間も明らかに足りなかった。授業中にも勉強をやらざるを得なかった。

7月、ここでもハプニングが起こる。3回目の寝坊による1週間の部停。
日体サッカー部のルールで3回寝坊したら1週間、4回で1か月部停、5回で矢野さんと面談というものがあった。それまでひっそりと生活を送っていて、そしてこれからもそういきたいと思っていた自分にとってなかなかのハプニングであった。何せ7月での3回目は日体1年の中で最速だったため、一気に名が知れてしまった。まあそれで距離が多少縮まったということもあった。この部停中にエッサッサもマスターした。

そうこうしているうちに夏休みがきたのだが、夏休みは午後練もなかったので絶好の追い上げ期間だったのだが、日体大のグラウンドが張替えで使えなくなり、他の少し離れたグラウンドで練習をしたのだが、なんともその時間が中途半端であったため(午後1、2時からであったためぶっ通しで勉強を確保できない挙句、移動時間を要する)毎日勉強ノルマを達成できずに精神が不安定であった。そしてこの夏休みによって後期はより地獄の日々を送ることになる。
後期はなんだかよく覚えていない。
夏休みの遅れを取り返すべく部活以外の時間をほぼすべて勉強に費やした。ストレッチの時間も削除の対象。本当に極力削除できるものはした。また苦渋の決断ではあったが。授業は休学し、部活だけ出るという選択もした。その頃は仲の良い友達もいて、あまりにも自分が勉強していたため、「高校四年生」「浪人」「五浪丸」、そしていよいよ「仮面浪人」と名付けられたときには流石に焦った。図書館で古典をやっていたところ、後ろから来た仲良い先輩に見られ「古典が趣味なんです」と笑いながらぼかしたこともあった。勉強の息抜きとして、昔途中で見るのをやめたイナズマイレブンGOを見だしたらとまらなくなり2週間足らずで見切った後自責の念に駆られたり、休学届のサインをもらうため担任の先生がいた世田谷キャンパスまで行ったものの先生がおらず、かえり道に失った時間を考え絶望を感じたり、朝練が終わったら午後練開始ギリギリまで図書館にいて午後練が終わったらやりたい自主練を切り上げて10時まで図書館にいてそこから家に帰り11時まで洗濯屋らご飯やらを高速で終わらせ朝の4時まで勉強して6時10分まで寝て朝練開始1分前にグラウンドにつくというような生活をしたりして、そういう期間に限って午後練の走りがきつくて両足攣りまくって死にそうになったり、逆に人間睡眠が大事だと思いなおし午後練が終わったらしっかり10時に寝てみたるも、明らかに勉強時間が足りなくなったり。そして最終的に3~4時間の睡眠時間に定着したりした。余りにも調子が悪く、1週間風邪と言って朝練を休み実家に帰って勉強しながら精神の体調を戻したこともあった。その中でも後期はFではあったがIリーグに出ることができたりと、微かにサッカー面で成長できていたところもあった(その試合で大ミスをかまし、一番仲の良かった友達に慰められながら青葉餃子を食べたのも今となっては良い思い出である)。本当に後期はよく覚えていない。
そんな中、12月16日、本来の予定より早くサッカー部を辞め、残りセンターまで1か月勉強に専念することにした。今まで自分を教えてくれたコーチや、自分が下手にも関わらず午後練の際に一緒にボールを蹴ったり自主練をしてくれた皆に伝えるのは申し訳なかったが、温かく送り出してもらえた。実家に帰ってからの最後の期間は、後期の辛さをはるかに超える精神的苦痛であった。結果はついてきているのにも関わらずやはり浪人特有のプレッシャー、半信半疑で見守る地元の友達や顧問、それに加えて辞める際にコーチや皆に告げた「日体には何があっても戻らない」、それに反した「もし落ちたら日体に戻りなさい」という親の言葉。この時期のことはまたいつかの機会に話そうと思うが、本当に死にそうだった。解ける問題を凡ミスででも落としたら終わりだ。その後は頭が真っ白になり手が震え、机を見ながらおさまるのを待つ。自分だけ何かパラレルワールドに住んでいる感じだった。
 


とりあえずここで終わりにしよう。あまりにも長くなりすぎてしまった。1年間自分は代えがたい経験を手にすることができた。金では買えない。たくさんの出会いがあり、尊敬できる人に何人も会うことができた。
いくら最初に言ったものの、ただ出来事を羅列しただけのつまらない文になってしまったため1つだけこの文に関することを。

自分にベクトルを向けることがいかに難儀であるか。
よく言われる。「自分にベクトルを向けろ」。
ただ、こんなことが可能な人間が一体何人いるだろうか?
もし皆、このことが可能ならば、世界はもっと平和であるだろう。戦争なんて無くなるだろう。他人と比べる必要がないのだから。自分(人間)とは他人との差異のもと成り立っている。そういうものなのである。それが原動力となり地球は回っているのである。自分にベクトルを向けられる“真の人間”になってみたいものである。

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生方 聖己(うぶかた せいな)
学年:1年
学部:スポーツ科学部
経歴:高崎市立高松中学校→高崎市立高崎経済大学附属高校

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