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#13 安心してぜつぼーした

今日は、菜虫化蝶(なむしちょうとなる)。

縁側を柔らかい日差しが照らし、我が家の庭の小松菜や蕪はぐんぐん伸びてお花が咲きそうな今朝です。それに合わせるように虫もゴソゴソし始めている気配があります。


そんな明るいことを言いながら書きたいのは、数日前に軽い絶望に見舞われていたときのこと。

「The Venus Project」なるもののの動画を観た話しをみんなの場に出した。

興味ある人へ↓


その動画の内容はここでは割愛


みんなの前で、やはり自然環境・社会環境(人と人が集まったときに生まれる空気感)が人格の成長に影響するのではないかという話しをした。
そのあたりから少しずつ、この世界は解決を待つ問題が山積みの状態で、とてもではないがのうのうと生きている暇はない、何かアクションをしなければますます世界は悪くなる、そんな思考に囚われ始めた。

それがデフォルトの人、けっこういるのではないだろうか。


貨幣経済による構造的な格差社会、大規模畜産や農業による環境破壊、軍需産業と製薬会社の結びつきによる意図的で無意味な戦争や搾取などなど、こんなにもわかりきった諸悪の根源があるのに、どうしたら目を瞑っていられるのだろうか、とそんな考えがじわじわ強まってくる。


我が家の暮らしはこんなにのほほんとしていていいのだろうか。
やるべきことから目を背けていないだろうか。
知らないことは罪なのではないだろうか。


どんどん批判は強く際限なく対象を見つけていく。特に自分自身の普段の行いに徹底的な批判が行われていく。
名付けて、口激的批判病の再発だ。


この病が発生すると、とにかく自らの置いた前提そのものがどうなっているか冷静に見ることがまずできなくなる。

もうそんなことはしている暇がない。
問題は山積みだ。
解決を急がなくてはいい世界にならない。
時間が無いなかで何が最善かを考えよう。

だいたいそっちに頭がフル回転してしまい、なぜ世界が暗い場所に見えているのか、本当のところどうなのか、なぞは考えられないし、考えたくなくなってしまう。

同じように世界を眺めていない人を批判し、集めた証拠を披露し、論理的言い回しで言い分を認めさせようとしてしまう。
言葉をもっての説得が困難、我が家でいうとニコニコ僕の様子を笑って見ている人に対しては、猛烈なイラつきが出る。
真剣さをバカにされた、これは相手が悪いのだから、悪に対してはいかなる手段をもって正してよい、と言葉以外での攻撃を正当化する態度すらがでてくる。

それでも今回、起こったことを文字にしてみようと思えたのは、ぼんやりとのやりとりが大きい。


「楽しいや嬉しいのように、ぜつぼーも感じてみたくてやってるところがあるんじゃない?」

「まぁ、渦中にいるときは苦かったり苦しかったりするかもしれないけどね。」


少なくともそこそこイラつきながらもダラダラ話す僕に対してそんな感じのことを言ってくれた。あとは、ほっといてくれた(笑)


安心して色んな感情に浸れる場がある暮らし。安心してぜつぼーできる暮らし。

改めて有り難いと思った。

ついつい所謂ネガティブな感情は嬉しいや楽しいのようにじっくり味わおうというよりは、最初から自分のなかで出てきてはいけない表現してはいけない悪いものと決めつけてしまっているところがある。

しかし、自分でもわからない作用でそうした感情は訪れる。本当はそこに善悪は無いはずで、対処にエネルギーを過剰に割くのはちょっと変なことだ。嬉しい、やばいなんとかしなきゃとは思わないように。

なんとなく不快感を伴うからついつい早く消そうとしてしまうけれども、ジタバタしないでやってきたものをじんわりまずは味わってみる。

そこに生きる妙味があるのかなと。

ぼんやりとのやりとりとみんなのニコニコから、随分考えさせられました。
















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