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和歌山紀北の葬送習俗(19)出棺①

▼本葬でひととおり読経が終わって、いよいよ出棺です。出棺をめぐっても、さまざまな習俗がみられ、人の死が題材であるとはいえ、村落共同体に育った者としては懐かしく味わい深いものです。
▼なお、登場する市町村名とその位置は『和歌山紀北の葬送習俗(3)死亡前の習俗』を参照して下さい。ほとんどの事例は全国各地にみられることから、掲出している市町村名にあまり意味はありません。


1.棺の蓋を閉める

▼ここでいう「蓋を閉める」とは、遺体の顔を拝むための小窓を閉めることではなく、棺の上板に釘を打つことです。以前どこかのページで触れたように、現在の棺は火葬時の便宜のため、釘などの金属は極力使われていません。
▼棺の蓋を閉める直前の所作には、以下のような事例があります。

・葬式が終わると棺桶の蓋を取り、血縁者と最後の別れをする(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・血縁者全員が水向けを行う(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代)
・遺族が水向けを行い、遺体の身辺を供花で飾る(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・枕飯を入れる(和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:昭和50年代)

▼以上の例は、ごくありふれたもので特異な習俗というわけではありません。一方、棺の蓋を閉める直前に故人のきょうだい(例外なく女性)が棺の中の遺体に抱きつくように近づいて泣き叫ぶ姿を管理人は複数回目撃しました。管理人は児童期、少年期にこの光景を「少し大袈裟すぎやしないか?」と冷めたまなざしで眺めたものです。この大袈裟な所作は、おそらく「泣き女」と呼ばれる習俗の影響であると考えられます。
▼次に、棺の蓋の閉め方に関する事例としては以下のようなものがあります。

・棺を縄でくくった(和歌山県伊都郡九度山町:年代不詳)
・昔は棺に釘を打たず、縄でしっかりくくる所が多かった(大阪府河内長野市:年代不詳)
・棺を縄でくくる場合、縄は「左ない」でなければならない(大阪府河内長野市:年代不詳)
・棺を縄でくくる場合、藁一把でなった左縄を使うが、この縄は手伝人なら誰がなってもよい(大阪府河内長野市滝畑:年代不詳)
・火葬の場合は釘止め、土葬の場合は縄でくくる(和歌山県海草郡旧野上町:年代不詳)
・遺体を縄でくくることがある(仏縄という)(和歌山県旧那賀郡粉河町藤井:年代不詳)
・最初に小石で釘を打つ(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・昔は金槌を使わずに石で釘を打った(和歌山県海草郡旧野上町:年代不詳)
・昔は錆びた釘を使い、親戚の者が石で釘を打つ真似をした(和歌山県旧那賀郡粉河町杉原::年代不詳)

▼まず、釘ではなく縄を使うのは呪術的意味ではなく自然に朽ちるという機能的な意味であると考えられます。但し、「左ないの縄」や遺体を縄でくくる例は明らかに絶縁儀礼です。金槌ではなく石で釘を打つのも絶縁儀礼であると考えられます。

石で釘を打つ風景。(市原ほか 1979:p91)

2.棺担ぎ

▼自宅で葬儀、葬式が行われていた時代には、葬列をなして棺=遺体を墓場か火葬場に移動する手続きがありました。これが野送り、野辺送りと呼ばれるもので、そのとき棺を担ぐ者がいました。ちなみに、昭和後期キッズの管理人の時代は、棺担ぎに代わって人力霊柩車が棺を運んでいました。
▼まず、棺担ぎの名称に関する事例をみましょう。

・棺かき(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・カタスケ(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・カルメ(軽目)(和歌山県旧那賀郡,和歌山県旧那賀郡粉河町・同町西川原・同町中津川,和歌山県旧那賀郡打田町,和歌山県旧那賀郡池田村,和歌山県旧那賀郡田中村,和歌山県旧那賀郡岩出町:年代は省略)
・ホンヤク(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)

▼変な名称ばかりですが、「棺かき」は棺かつぎが転じたもの、「カタスケ」は肩助、「ホンヤク」は本厄もしくは本役、そして「カルメ」は全国に広く普及した呼び名ですが、なぜ棺担ぎのことをカルメを呼ぶのかは管理人にはわかりません。
▼次に、棺担ぎは誰もができるものではなかったようです。事例をみましょう。

・血の濃い者(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代)
・血の濃い者4人(奈良県吉野郡旧大塔村篠原:昭和50年代)
・最も血の濃い者(和歌山県伊都郡かつらぎ町下天野:昭和55年)
・子2人(和歌山県伊都郡かつらぎ町下天野:昭和55年,和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・子2人(故人が親の場合)(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)
・子2人(長男と次男)(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・子2人(長男とその兄弟)(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・子2人(長男と次男)と近所の者2人(大阪府河内長野市寺元:年代不詳)
・子2人もしくは孫2人(和歌山県旧那賀郡:大正10年代)
・昔は孫2人(和歌山県旧那賀郡粉河町嶋:年代不詳)
・孫2人(内孫と外孫)(和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保:昭和50年代)
・孫2人(内孫と外孫)と手伝人(和歌山県旧那賀郡粉河町西川原:平成初年代,和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代,和歌山県旧那賀郡田中村:昭和10年代)
・孫4人(和歌山県旧那賀郡粉河町嶋:平成初年代)
・遺族の男子4人(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
・跡取りを含む男性4人(奈良県吉野郡野迫川村今井:昭和40年代)
・跡取り婿1人と弟2人(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・娘婿(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・近親の壮年者と数人の助役の計4人(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・喪主の嫁の弟、喪主のいとこ、孫ら(和歌山県旧那賀郡粉河町中津川:平成初年代)
・故人が子どもの場合は男2人と女1人の計3人(和歌山県旧伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・ジヤク2人と死者と血の濃い者が補助(奈良県吉野郡野迫川村北股:昭和40年代)

▼事例の数は多いものの、結局は故人の子(例外なく男性)と孫(例外なく男性)を中心に、親族の男性、場合によっては数名の手伝い人が棺担ぎとされていたようです。また、ほぼ全ての事例は2人以上となっているのは呪術的な意味ではなく、ひとりで棺を担ぐのは事実上不可能であるという合理的な理由によると考えられます。
▼次に、古い写真をみると、棺担ぎだけが他の葬列構成員とは別の身なりをしていることに気づかされます。そこで、棺担ぎの身なりに関する事例を集めてみました。

・服装は自由(大阪府河内長野市寺元:年代不詳)
・白い甚平のようなものを着る(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・白い長袖に裾袴を穿き、草履を履いた(奈良県吉野郡旧大塔村篠原:昭和50年代)
・麻の裃に白装束を着て、頭に三角紙に「忌」と書いたものをつけ、一文字笠を被って草履を履く(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・木綿、晒、天竺などで作った着物と袴を着けた(奈良県吉野郡旧大塔村篠原:昭和50年代)
・裃にツノ結びの草鞋履きで、三尺の白たすきを左へ掛ける(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)
・草鞋を履く(和歌山県橋本市:昭和40年代,和歌山県旧那賀郡粉河町下鞆渕和田:年代不詳)
・鼻緒に紙を巻いていない草鞋(●●●草鞋という(●●●は差別語))を履く(和歌山県旧那賀郡粉河町藤井:年代不詳)
・ツノ結びの足半(アシナカ)を座敷から履き下ろす(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代)
・足半は藁を打たずに作る(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代)
・足半は縁側で作る(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代)
・最近は足半はあまり履かなくなり、紙つけ草鞋を用いる(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代)
・血縁者は全員マエガミ(またはシタエガミ)をつける(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代)
・髪型は自由だった(奈良県吉野郡大塔村篠原:昭和50年代)

▼まず、服装や髪型が自由だったという事例に関しては、管理人が文献で見かけた野辺送りの写真でも、作業服を着た男性が棺を担いでいるところが数多くみられることから、特に礼儀に反するということではなかったようです。一方、典型例は白装束+草鞋で、いずれ別のページで取り上げる予定ですが、棺を担いだ後に草鞋を埋め墓に捨てることが多かったようです。足半を履いたり、おかしな作り方をした草鞋を履くのは、間違いなく絶縁儀礼です。

棺担ぎとみられる写真。故人の子または孫であると思われる。(堀ほか 1979:p33)

3.出棺のしかた

▼出棺時の主役は棺担ぎです。棺担ぎの身なりといい、棺の出し方といい、おかしな習俗が満載です。

(1)棺担ぎが草鞋を履く例:
・棺を担ぐ者が草鞋のまま座敷に上がる
(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・棺を担ぐ者が座敷で草鞋を履く(和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代)
・棺を担ぐ者が座敷から新しい草鞋を履いて降りた(奈良県吉野郡旧大塔村篠原:昭和50年代)
・棺を担ぐ者が草鞋のまま家から出る(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)

(2)棺をどこから出すか:
・縁側から出す
(奈良県吉野郡野迫川村北股:昭和40年代,和歌山県橋本市:昭和40年代,和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳,和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代,和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・縁端から出す(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代,和歌山県日高郡:昭和40年代)
・雨縁から出し、青竹で作った門をくぐらせるところもあった(奈良県大和郡山市小泉町:大正4年)
・座敷から出す(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・上の間(カミノマ)から出す(和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保:昭和50年代)
・門口から出す(大阪府河内長野市滝畑:昭和50年代)
・オモテから出す(奈良県吉野郡野迫川村今井・柞原:昭和40年代)
・玄関から出す(奈良県大和郡山市小泉町:昭和年間から平成20年まで)
・玄関を通さない(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・内庭の土間を通さない(和歌山県橋本市:昭和40年代)

(3)出棺時の棺の向きに関する事例:
・棺の向きは足の方を先にする(奈良県五條市大津:昭和30年代,和歌山県橋本市:昭和40年代)
・棺の向きは頭の方を先にする(奈良県吉野郡旧大塔村篠原:昭和50年代,和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)
・座棺の場合は後ろ向きに出す(奈良県五條市大津:年代不詳)

(4)その他の習俗:
・敷居に莚を敷いて棺を出す
(和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代)
・敷居に莚を敷いて棺を輿に載せる。出棺後は莚を中から外に向けて折り畳む(大阪府河内長野市滝畑:昭和50年代)

▼棺担ぎが履く草鞋は、通常は集落の者が葬具の一環として自作していたと考えられます。そして、棺担ぎが使った草鞋には死忌みがかかるため、棺を運んだ後に埋め墓に捨てることが多いようです(いずれ別ページで取り上げます)。草鞋を履いたまま座敷に上がる、座敷で草鞋を履く、草鞋を履いて地面に降りるなどの事例は、いずれも普段とは真逆の動作となるので絶縁儀礼であると考えられます。
▼棺をどこから出すかについては、2つの例を除いては、縁側、縁端、雨縁、座敷や上の間(=縁側から出すのと同じ意味)、オモテ(オモテとは、縁側の正面に広がる家の庭のこと)と、わざと玄関を通さずに出していることが特筆されます。これも常識とは異なる所作をするという意味では絶縁儀礼、そして玄関を通すと故人の霊魂が再び玄関から入ってくるからという呪術的な意味があると考えられます。そして、屋内の出棺経路に莚を引いて中から外に向かって畳むといった行為もまた、死忌みを残さないためであると考えられます。但し、家から出す際の棺の向きは頭が先、足が先と習俗が二分され、その解釈、観念が徹底されていないことがうかがわれます。

🔸🔸🔸『和歌山紀北の葬送習俗(20)出棺②』につづく🔸🔸🔸


文献

●五條市史調査委員会編(1958)『五條市史.下巻』五條市史刊行会.
●橋本市史編さん委員会編(1975)『橋本市史.下巻』橋本市.
●堀哲ほか(1979)『近畿の葬送・墓制』明玄書房(引用p33、p145).
●市原輝士ほか(1979)『四国の葬送・墓制』明玄書房(引用p91).
●河内長野市役所編(1983)『河内長野市史.第9巻(別編1:自然地理・民俗)』河内長野市.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県那賀郡貴志川町共同調査報告」『近畿民俗』82、pp1-28.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅰ)」『近畿民俗』83、pp3369-3436.
●粉河町史専門委員会編(1996)『粉河町史.第5巻』粉河町.
●九度山町史編纂委員会編(1965)『九度山町史』九度山町.
●村山道宣(2011)「民俗調査報告:紀伊の六斎念仏」『人文・自然研究』(一橋大学)5、pp158-205.
●那賀郡編(1922-23)『和歌山県那賀郡誌.下巻』那賀郡.
●那賀郡池田村公民館編(1960)『池田村誌』那賀郡池田村.
●那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部編(1939)『田中村郷土誌』那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部.
●西吉野村史編集委員会編(1963)『西吉野村史』西吉野村教育委員会.
●野上町誌編さん委員会編(1985)『野上町誌.下巻』野上町.
●野迫川村史編集委員会編(1974)『野迫川村史』野迫川村.
●大塔村史編集委員会編(1979)『奈良県大塔村史』大塔村.
●沢田四郎作・岩井宏実・岸田定雄・高谷重夫(1961)「紀州粉河町民俗調査報告」『近畿民俗』27、pp888-906.
●玉村禎祥(1972)「紀州岩出町の民俗―人生儀礼―」『民俗学論叢:沢田四郎作博士記念』pp88-95.
●田中麻里(2010)「奈良県の田の字型民家における葬送儀礼の空間利用―告別式、満中陰、一周忌を事例として―」『群馬大学教育学部紀要:芸術・技術・体育・生活科学編』45、pp145-152.
●東京女子大学文理学部史学科民俗調査団(1985)『紀北四郷の民俗:和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保』東京女子大学文理学部史学科民俗調査団.
●打田町史編さん委員会編(1986)『打田町史.第3巻(通史編)』打田町.
●横井教章(2018)「葬送儀礼の出棺について」『佛教経済研究』(駒澤大学)47、pp113-137.
※各事例に付記した年代は、文献発行年の年代(例:昭和48年発行→昭和40年代)とし、その文献が別文献から引用している場合(=管理人が孫引きする場合)は原文献の発行年の年代を付記した。但し、文献収集の段階で現代の市町村史が近代のそれをそのまま転載している事例がいくつか判明した(例:昭和中期の『●●町史』が大正時代の『●●郡誌』を転載、昭和中期の『●●町史』が昭和初期の『●●村誌』を転載、など)。したがって、事例の年代に関する信頼性は疑わしく、せいぜい「近世か近代か現代か」程度に捉えるのが適切である。

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