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和歌山紀北の葬送習俗(25)墓地からの帰り道

▼三昧(サンマイ)に遺体を埋葬して、遺体という最大の死忌みとはお別れしました。しかし、その死忌みは依然として遺族や葬列参加者、葬式組の手伝人にかかったままで、墓地からの復路では死忌みを落とすためのさまざまな呪術的行為が実践されます。ということで、今回は野辺送りの復路を取り上げます。

▼なお、登場する市町村名とその位置は『和歌山紀北の葬送習俗(3)死亡前の習俗』を参照して下さい。ほとんどの事例は全国各地にみられることから、掲出している市町村名にあまり意味はありません。


1.墓地からの復路で行われること


▼墓地から自宅への復路で行われることに関しては、以下の事例があります。

・復路では後ろを見てはならない(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・通る道は往路と復路を別にする(和歌山県橋本市:昭和40年代,和歌山県旧那賀郡粉河町藤井・嶋:平成初年代,和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・会葬者の帰りに際して親族が帰路の途中で待ち、謝礼の挨拶を行う(和歌山県旧那賀郡:大正10年代)
・埋葬前に引き上げた親族2人が帰路の途中で待ち、会葬者に黙礼(目礼)する(和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保:昭和50年代)
・昔は埋葬前に引き上げた親族2人が帰路の途中で莚の上に座り、土下座をした(和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:年代不詳)
・家人が帰路の途中でゴザを敷いて待ち、墓穴掘りに手をついて礼を言う。このゴザは墓穴掘りの物となる(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代)
・六斎衆が墓の入口で土下座をして礼をした(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・六斎衆が念仏を申した後に故人と一番血の濃い人が素足で「ごくろうさまでした」と挨拶したら、六斎衆もその人の前を素足で通らなければならない(和歌山県伊都郡かつらぎ町下天野:昭和55年)

▼復路で後ろを見てはならない、往路と復路のルートは別にするといった事例は、故人の霊魂が付いてくることを防ぐという、呪術的な観念によるものであると考えられます。

▼葬送ルートの途中で、遺族が莚(ムシロ)やゴザを敷いて葬列参加者にお礼をしたとする事例については、さすがに管理人はそのような例を見たことがありません。このお礼は、呪術的なものではなく、喪家や遺族による素直な、心からのお礼であったと考えられます。

2.棺担ぎが履いた草鞋の処分


▼次に、出棺時から葬送往路で棺担ぎが履いた草鞋は、復路でそれを履くことはありません。事例をみましょう。

・厄の者が履いてきた緒を白紙で巻いた草鞋を墓の下の藪に捨て、別に持ってきた下駄を履いて帰る(大阪府河内長野市滝畑:昭和50年代)
・六斎衆は墓の入口で草鞋を捨て、素足で帰った(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・棺を担ぐ者は(草履を棺と一緒に埋葬し)裸足で帰った。現在は別の履物を持っていく(和歌山県旧那賀郡粉河町下鞆渕和田:年代不詳・平成初年代)
・棺を担ぐ者が履いていたアシナカは墓に捨てる(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代)
・棺を担ぐ者が履いていた草履は川に流す(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・棺を担ぐ者が履いていた紙つけ草履は墓に置いて帰るが、これを足の悪い人がもらって履くとよいといわれた(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代)
・棺を担ぐ者は草鞋をそのまま履いて帰ったが、これを足の悪い人がもらって履くと痛い足が良くなるといわれた(奈良県吉野郡旧大塔村篠原:昭和50年代)
・墓から履いて帰宅した草履をはくと産が軽いという(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)

▼このように、棺担ぎの草鞋は墓場や川に捨てるとする事例が多く、これはもちろん、死忌みを持ち帰らないためであると考えられます。

▼しかし、使用済みの草鞋を足の悪い人や妊婦が履くとご利益があるとする事例もあり、不浄な死忌みがポジティブな霊験へと転化しています。これは、死=生まれ変わりとする観念、すなわち、死ぬ者もあれば生まれる者もあるという歴史の積み重ねによって現在=現世があるとする価値観が人びとにあり、しかも故人の霊的パワーがそれを促進してくれると考えたのでしょう。

墓場に捨てられた草鞋。鼻緒が切断されている点に注目。(市原ほか 1979:p98)

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▼前回も申し上げましたが、野焼きがまだ社会的、制度的に容認されていた頃、墓地には野辺送りで使用した野道具を焼く場所がありました。また、野道具だけでなく、枯れた樒など、墓掃除で出たごみは墓場でみんなが平気で焼却処分していたものです。

▼いつしか野焼きが禁止され、墓場で出たごみをそのまま自宅に持ち帰る風が標準となりました。そして、野辺送りが消滅した現在、墓場のごみ焼却スペースはなくなり、あるいは、捨てられた野道具を墓場で見ることもなくなりました。

▼墓場や葬送とはまったく関係ありませんが、小中学校の敷地内からごみ焼却炉が消えたのも同時期です。やっぱり、あの煙は身体に悪かったのでしょう・・・

🔸🔸🔸(もうすぐ終わる予定ですが)次回につづく🔸🔸🔸


文献

●賀名生村史編集委員会編(1959)『賀名生村史』賀名生村史刊行委員会.
●橋本市史編さん委員会編(1975)『橋本市史.下巻』橋本市.
●市原輝士ほか(1979)『四国の葬送・墓制』明玄書房(引用p98).
●池田秀夫ほか(1979)『関東の葬送・墓制』明玄書房(引用p193).
●河内長野市役所編(1983)『河内長野市史.第9巻(別編1:自然地理・民俗)』河内長野市.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅰ)」『近畿民俗』83、pp3369-3436.
●粉河町史専門委員会編(1996)『粉河町史.第5巻』粉河町.
●村山道宣(2011)「民俗調査報告 紀伊の六斎念仏」『人文・自然研究』(一橋大学)5、pp158-205.
●那賀郡編(1922-23)『和歌山県那賀郡誌.下巻』那賀郡.
●野迫川村史編集委員会編(1974)『野迫川村史』野迫川村.
●大塔村史編集委員会編(1979)『奈良県大塔村史』大塔村.
●玉村禎祥(1972)「紀州岩出町の民俗―人生儀礼―」『民俗学論叢:沢田四郎作博士記念』pp88-95.
●東京女子大学文理学部史学科民俗調査団(1985)『紀北四郷の民俗:和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保』東京女子大学文理学部史学科民俗調査団.
※各事例に付記した年代は、文献発行年の年代(例:昭和48年発行→昭和40年代)とし、その文献が別文献から引用している場合(=管理人が孫引きする場合)は原文献の発行年の年代を付記した。但し、文献収集の段階で現代の市町村史が近代のそれをそのまま転載している事例がいくつか判明した(例:昭和中期の『●●町史』が大正時代の『●●郡誌』を転載、昭和中期の『●●町史』が昭和初期の『●●村誌』を転載、など)。したがって、事例の年代に関する信頼性は疑わしく、せいぜい「近世か近代か現代か」程度に捉えるのが適切である。

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