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日中文化交流誌「和華」第25号 特集:時空を超える遣唐使

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遣唐使~空海~ 日本で真言密教を立教開示し、高野山を開創した平安の天才

遣唐使~空海~ 日本で真言密教を立教開示し、高野山を開創した平安の天才

豪族の子として生まれ18 歳で都の大学へ入学

 空海は、宝亀 5年(774)年、讃岐国に多度郡弘田郷(現在の香川県善通寺市)で生まれた。父は佐伯直(田公)といい、瀬戸内海周辺の豪族である佐伯氏の一族である。母は都みやこの知識階級の氏族であった阿刀と氏の出身である。幼名は真魚といい、聡明な青年であった。恵まれた教育環境をもち、15歳で都に出て、母方の伯父である阿刀との大足について儒教や漢学を学んだ

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遣唐使~井真成~

遣唐使~井真成~

 2004 年10 月、中国の西北大学博物館に未知の日本人の遣唐使関係者の墓誌があることが報道された。名前は井真成、長安において734 年正月に36 歳で死去したといい、「姓は井、字は真成。國は日本と号し」とあるので、日本人であることはまちがいない。井上忌寸、葛井連といった渡来系氏族がおり、「井」はこれらを略したものであろう。墓誌は蓋と身の石材からな
り、蓋は一辺37㎝の正方形、厚さは7㎝、身は一

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吉備真備

吉備真備

 2019 年12 月末に日本の新聞各紙は中国深圳の望野博物館が所蔵する墓誌に日本の遣唐使関係者の名前があることを報道した。734 年6月に死去した鴻臚寺丞李訓という人物の墓誌で、鴻臚寺は外務を掌る役所、文章を作成したのは秘書丞褚思光、そして「日本国朝臣備書」とあるから、この人物が墓誌の文字の下図を筆書したことがわかる。

広東省にある「深圳望野博物館」で発表会の様子

 朝臣備とは誰か。大宝度の

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阿倍仲麻呂

阿倍仲麻呂

阿倍仲麻呂(701 ~ 770)は古来の有力中央氏族出身、716 年に16 歳で霊亀度遣唐使の留学生に選定された。彼は『古今和歌集』羈旅406 番「あまの原ふりさけみればかすがなる みかさの山にいでし月かも」の歌で知られ、これは『百人一首』にも採られているので、日本の遣唐使一行の中でもっとも人口に膾炙した一人であり、高等学校の教科書でも、遣唐留学生の代表的人物として大書される。ともに留学した人びと

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隋唐使群像

隋唐使群像

 遣唐使の中で長期留学は俗人では勝宝度くらいがピークで、その後は短期の請益生が中心になるという変遷がうかがわれる。僧侶の方は長期・短期ともに後代まで求法に熱心だった。特徴のある人物を紹介する。

弁正
弁正は俗姓秦氏、大宝度の留学僧だが、唐で妻帯し、朝慶・朝元の二人の息子を儲けて、ついに帰朝しなかった(『懐風藻』釈弁正伝)。これだけだと留学脱落者・破戒僧だが、彼は外向的な性格、囲碁も得意で、即位前

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使節と船団の編成

使節と船団の編成

 遣唐使船は前期では2隻、後期は4隻が基本で、1船に120 ~150 人が乗船している。その構成員を大
別すると、①使節員、②船員、③随員、④留学者となる。
 遣唐使の主要任務は唐との通交にあり、①の中心となる官人には相応の能力・学識が求められた。大宝度の粟田真人は服装・容姿や中国的教養が評価されており(『旧唐書』日本国伝)、彼は白雉4年(653)の留学僧道観の後身で、こうした留学経験者の起用例も

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遣唐使隋唐使 日中歴史の使者

遣唐使隋唐使 日中歴史の使者

 遣唐使とは各国から唐に派遣される外交使節である。唐(618 ~ 907)は長らく分裂していた中国を再統一(589 年)した隋(581 ~ 618)のあとをうけて、約300 年間存続し、東アジア、東部ユーラシアの政治・文化の中心として、周辺諸国に大きな影響を及ぼした。

 倭国・日本の遣唐使は630 ~ 894 年の間に20回ほど計画・派遣されている。日本史上において遣唐使が注目されるのは、奈良・

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