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隋唐使群像

 遣唐使の中で長期留学は俗人では勝宝度くらいがピークで、その後は短期の請益生が中心になるという変遷がうかがわれる。僧侶の方は長期・短期ともに後代まで求法に熱心だった。特徴のある人物を紹介する。

弁正


弁正は俗姓秦氏、大宝度の留学僧だが、唐で妻帯し、朝慶・朝元の二人の息子を儲けて、ついに帰朝しなかった(『懐風藻』釈弁正伝)。これだけだと留学脱落者・破戒僧だが、彼は外向的な性格、囲碁も得意で、即位前の李隆基、すなわち玄宗と親しくなり、玄宗の目を日本人に向けるのに有効に作用する。子の秦忌寸朝元は霊亀度に帰朝、ネイティブスピーカーとして漢語教育にも活躍し、天平度には使人として入唐した。朝元の外孫の藤原種継は長岡京遷都を推進し、奈良時代から平安時代への変化を切り開いている。


最澄

最澄は天台宗を導入するために38 歳で請益僧に選定された。天台山に向かうのが目的だったから、長安には行かなかった。当時流行していた密教も一部導入するが、こちらは空海の真言宗が正統で、天台宗では最澄の死後に承和度の円仁、唐商人船で渡航した円珍などの尽力で本格的な密教の導入、台密が確立する。比叡山延暦寺では鎌倉新仏教の開祖法然や日蓮なども学び、日本宗教史上の役割は大きい。

橘逸勢


俗人では延暦度の留学生橘逸勢も興味深い。彼は嵯峨天皇・空海とならぶ唐風書道の三筆として知られる。長期留学を完遂すべきだったが、密教の正統の伝授を得た空海とともに早々に帰朝している。その際に空海に帰国理由書を作成してもらい、「山川両郷の舌を隔てて、未だ槐林に遊ぶに遑あらず」、つまり中国語ができないので、太学で勉強することができないと述べているのは(『性霊集』巻5)、現在まで続く日本人の外国語修得能力の問題を考えると、身につまされるところがある。

藤原貞敏

留学者ではないが、承和度の遣唐准判官で琵琶の名手として名高い藤原貞敏は、揚州で琵琶博士の紹介を依頼し、廉承武から20 日間ほどで伝習を得ている(宮内庁書陵部蔵『琵琶譜』(伏見家旧蔵)奥書)。廉承武は「前第一部」、時に85 歳で現役ではなかったが、唐の琵琶博士に伝授されたという箔付けが重要だったのだろう。正史である『日本三代実録』の貞敏の伝記には長安で劉二郎という名人に会い、娘と結婚して、伝授を得るという話があるが(貞観9年10 月4日条)、貞敏は上京しておらず、これは虚構である。

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