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泥を吐く。花を摘む。

「堕落」 に関しての個人的思想については

「堕落」から見た、もうひとつの世界。
https://note.com/vlettecore/n/naca19e1cbe4c

「堕落」 が生み出す 「虚像の幻想」
https://note.com/vlettecore/n/n1174a1a01d58

で纏めた通りだ。

今回はそれの関係性について纏めていこうと思う。
長編になるかもしれないが、最後まで読んでくれると幸いです。

*一部脈絡からズレている点もあります。

目次
第一章 泥を吐く。
1 「堕落」 は優しい沼地
2 「泥」 を吐くのは現実世界の為だ。
3 優しさと温もりが生み出す毒
第二章 「毒」 を呑む。
1 他人の幸は毒の味
2 「堕落の底」 へと導く先導者
3 「毒」 を呑み、「蜜を吐く」
第三章 花を摘む。
1 蜜を得る現実世界の人々
2 「毒」 を得た花
3 泥に咲く花を摘む

第一章 泥を吐く。

「堕落」 は 時に泥を吐く。
それは現実世界の業を乱さない為でもある。
「泥」 を吐くことで現実世界に干渉する。
この 「泥」 こそが現実世界に居座る者達に 「幸」を授けているのだ。

1 「堕落」 は優しい沼地

○ 「堕落」 が優しいとは前回の文でも言ってきたと思う。

「堕落」 はその名の通り優しい 「毒」 でもあるのだ。

優しさと温もりと言う 「毒」 を敗者に分け与えてくれる。

ここで言う 「優しさ」 と 「温もり」 と言うのは人の優しさや温もり等ではない。

「堕落」 が独自に持つ 「安堵感」 と言えば理解できるだろうか。

「堕落」 は安堵に満ち溢れた底なしの 「沼地」 なのだ。
光を求め、奥へ進めば進む程この沼は深くなる。
ここで気を付けなければならないのは、その 「光」 が 「堕落」 が与える可能性ではなく、「毒」 であると言う点だ。

「優しさ」 と 「温もり」 を持つこの沼はその奥に人々を殺める 「猛毒」 を隠し持っている。

しかし、ここで忘れてはならないのは、既に 「堕落」 と言う沼に浸ってる時点でこの毒を浴びていると言う事だ。

この 「沼」 は特殊だ。
沼に浸れば浸る程毒に干渉するのではなく、沼に浸った時点で既に毒に干渉しているのだ。

深さが 「毒」 と言うのではない。
水圧の様に、上から既に毒は降り注いでいる。
入れ浸れば浸る程 「猛毒」 へと干渉していくのだ。

「猛毒」 へと干渉したからと言って、また元の出発点に戻れない と言う訳では無い。
しかし、浸れば浸る程戻る事は難しくなっていくだろう。

私から言えることは

「堕落」 の産む 「優しさ」 と 「温もり」 に騙されるな。

という事だけだ。

2 「泥」 を吐くのは現実世界の為だ。

○ 「堕落」 は 「優しい沼地」 だ。
この沼地の泥は特殊で、毒を育む。
その 「泥」 とは敗者が吐き出したものだ。
「恨み」 「願い」 「後悔」 「懺悔」 数え切れない程の 「負の成分」 で構成されている。
しかし、この 「泥」 の中には何故か、「絶望」 の成分は含まれてはいない。
これについては後々述べていく。

この 「泥」 を吐いているのは 「堕落」 に居座る者達だ。
何故 「堕落」 ではなく、敗者である者達が泥を吐くのか。
それは 「堕落」 が 「敗者」 を使い泥を吐かせているのだ。
敗者が 「泥」 を吐くのは何故なのか。
それは現実世界の為だ。
私達「敗者」の出す 「泥」 は現実世界に居座る者達に「幸を与える為」なのだ。
今、現実世界で幸を授かり且つ蜜を味わっている者達は、この 「泥」 を得て生活しているのだ。

この 「泥を吐く者」 が居なければ、「幸」 が存在する事は無い。

「泥」 がある事で、彼等に 「幸」 が齎されるのだ。

敗者の吐く 「泥」 で生活している現実世界の者は愚かだ。

彼等が、今あるこの 「幸」 が、「堕落」 に吐き出された 「泥」 によって齎されている事に気付く事は恐くないだろう。

何故なら彼等にはこの 「泥」 が見えないからだ。

3 優しさと温もりが生み出す毒

○ 「堕落」 が生み出す 「優しさ」 と 「温もり」 が毒である事は前の説で語った通りだ。

「堕落」 は嘘つきだからな。
「可能性」 と言う毒
「優しさ」 と言う毒
「温もり」 と言う毒

をそれぞれ持っている、まるで人を殺める為に存在している と思う程だ。

「堕落」はこれらの毒を持つ事で、敗者を歓迎し、それらを与えては、敗者に 「泥」 吐かせる。

これらの 「泥」 を吸収し、そして 「蜜」 に変えて現実世界へと解き放つのだ。

そして、それは 「堕落」 にしかできない 「責務」 とも言う事ができる。

私は一度 「堕落」 を経験している。
その為、偶にこの世界の人々の 「優しさ」 と 「温もり」 が毒なのではないかと思ってしまう日もある。

「堕落」 が持つ 「優しさ」 と 「温もり」 が毒であると言うのなら、この世界の人々が持つ 「優しさ」 と 「温もり」 何なのだろうか。

「堕落」 はその名の通り優しい沼地だ。
この沼は敗者が吐いた 「泥」 によって構成されている。
また、この沼の 「泥」 は全て敗者が吐いたものだ。
そして、それらを覆いかぶせる様に 「毒」 が存在する。

「堕落」 は 「毒」 持つ
それは、「堕落」 が敗者に授ける 「優しさ」 でもあり 「温もり」 でもあるのだ。

**第二章 毒を呑む。 **

毒を呑む。
それは現実世界の為だ。
現実世界へと 「蜜」 を届ける為、「堕落」 の住人は 「毒を呑む」 のだ。
毒を呑む事はこの世界でも自殺行為に等しい。「毒を呑む」 事は 「堕落」 に居座る者達にとって 「幸」 でもあるのだ。

1 他人の幸は毒の味

○ 他人の為に毒を呑む、「堕落」 と言う世界の人々
毒を呑む事で、現実世界へと蜜が注がれる。
この蜜は 「幸」 となり現実世界の人々に与えられる。
やがて、「蜜」 は現実世界の人々に消化され、「毒」 となり 「堕落」 へと蓄えられる。
これによって現実世界は保たれているのだ。

「堕落」 は 「毒」 を作るのが大好きなのだ。
その蓄えられた毒はやがて、敗者へと注がれる。
敗者にとってはこれが 「幸」 であったりもするのだ。
それは、「堕落」 が持つ特殊な 「毒」 が持つ効果と言ってもいい。

「堕落」 はその 「優しさ」 の中に毒を隠し持っている。
それが、「人を殺める為に存在する毒」 であったとしても、敗者に分け与える。

敗者はその 「優しさ」 の中に 「毒」 がある事を知らない為喜んで受け取るだろう。

それはその 「毒」 の中に 「可能性」 を見ているからだ。
「可能性」 がある事は、敗者にとっては 「幸」 でもあり、「救い」 でもある。

その 「毒」 が他人の落とした 「幸」 であっても、「救い」 なのだから。

敗者は常に救いを求めている。
その為、幾らこの沼が毒であっても 「猛毒」 と言う可能性の光を見て奥へと進もうとする。

先には 「毒」 しかない。
それは、「他人が落とした蜜」と言う 「猛毒」 であったとしても、「救い」を求めてしまうのだ。

2 「堕落の底」 へと導く先導者

○ ここで大事な事を私から言っておく。
それは

「堕落」 の 「先導者」 に従うな。

という事だ。
この先導者と言うのは、前回の記事でも纏めた 「虚像の幻想」 と言うものだ。

この 「先導者」 が導く先 と言うのは言わずもがな 「堕落の底」 だ。
「堕落の底」 に一度落ちてしまった人にどの様な言葉を掛けようと彼等には通じない。
何故なら、「堕落の底」 へ行く者達は 「可能性」 と言う 「堕落」 が作り出した 「猛毒」 によって全てを犯されているからだ。

やがてその先導者は 「可能性」 と言うありもしない 「劇毒」を与えて消えていく。

「劇毒」 を授かった者は眠り、やがて夢を見るのだろう。

それは、恐らく彼等が成し遂げたかった夢なのではないだろうか と私は思っている。

やがて彼等は目を覚まし、「光」 を求めて奈落へと歩みを進める。

その光は 「曙光」 ではない。

光の指す奈落の先には 「死」 しか待っていないのだ。

「堕落」 の持つ 「優しさ」 に騙されてはいけない
この世界は 「毒」 しか持っていないからだ。

3 「毒」 を呑み。「蜜を」 を吐く。

○ 毒を呑むのは 「敗者」 の定め。
蜜を吐くのは 「堕落」 の定め。

その毒は現実世界で幸を謳歌する者達が吐いた 「毒」 だ。

それを 「堕落」 は自らに蓄え、その毒を敗者へと分け与える。

そして、その 「毒」 を呑み、敗者は 「泥」 を吐く。
その泥は沼地へと吸収され、やがて 「蜜」 となり、「堕落」 は現実世界へと放出する。

敗者 「毒を呑む」 事で 「幸」 感じているのだ。

「毒」 は 「敗者」 の中へと蓄積され、やがて 「負」 となり、「堕落」 へと注がれる。

残りの毒は泥となり、敗者から吐き出される。

それを 「堕落」 は吸収し、「蜜」 に変えて現実世界へと垂れ流す。

この 「蜜」 を味わえる者はさぞかし贅沢な事だろう。
この蜜には 「毒」 は無い。
含まれているのは 「幸せ」 の成分だけ。

「幸せ」 を得た者でしか味わえない 「蜜」 でもあるのだ。

彼等が 「幸せ」 を受け取っている時、「堕落」 では敗者が 「毒」 を呑んでいる。

それは現実世界の為でもあり、「堕落」 の為でもあるのだ。

「蜜」 を吐く。
「蜜」 を吐くには、敗者が 「毒」 を呑むしかない。
その 「毒」 は 「幸せ」 を得た者が吐いた 「蜜」 と言う名の 「毒」 である事を、敗者が知る事はないだろう。

**第三章 花を摘む **

花を摘む。その花は 「他人の幸」 より解き放たれた 「蜜」 によって花を咲かす。
そして、その花は 「可能性」 と言う 「猛毒」 を持っている場合もある。
この花は美しい。
しかし、美しさの裏には 「死」 が含まれている場合もある。
そう、この花は 「毒」 を得ているのだ。

1 蜜を得る現実世界の人々

○ 現実世界の人々程贅沢な人達はいない。
彼等にある 「幸せ」 と言う 「蜜」 は泥を吐く敗者がいる事で作る事ができる特徴な蜜なのだ。

この味を知れる現実世界の人々は本当に愚かだ。

彼等が 今あるこの 「幸せ」 は 敗者が生み出す 「泥」 によって作られる事を知る事はないだろう。

彼等は 「蜜」 を得る。
敗者が現実世界から流れた毒を呑む事で、「幸」を感じ、吐いた泥でできた 「甘い蜜」 を得るのだ。

「蜜」 を得た現実世界の人々はまた毒を垂れ流す。
彼等は 「毒」 しか垂れ流さない。
何故なら、彼等が 「堕落」 に居座る者達に 「幸せ」 と言う蜜を与えると、その人間は 「堕落」 へと突き落とされてしまうからだ。

現実世界で 「与える者達」 が損をしている且つ、「損」 に気づけていないのは、「堕落」 へと落ちないように 「幸せを授かった者のフリ」 をしているからなのだ。

しかし、これは自殺行為に過ぎない。
このフリが解けた時、彼等は一気に 「堕落」 へと突き落とされてしまうだろう。

2 「毒」 を得た花

○ この 「堕落」 の沼地には花が咲いている。
甘い香りと美しいその花に魅了される者達も多いのも事実だ。

しかし、この花は 「毒」 を持っているのだ。
それは、「人を殺める為」 でもある上に、「堕落」 の為でもあるのだ。

この花は赤い。
何故、赤いのか?
それは、「他人の幸せ」 等 「堕落」 に居座る敗者達にとっては 「血の味」 でしかないからだ。

この花は現実世界にある 「彼岸花」 に非常に良く似ている。


しかし、この 「堕落」 と言う世界では 「悲願花」 と呼称される。

敗者が吐き出した 「泥」 には数々の想いが含まれている。
そして、その中で最も 「想い」 の強い泥が養分を作り出し、その上にこの美しい花を咲かせるのだ。

人の 「想い」 を得て 「毒」 を得た悲願花。

悲願花を摘む事は 「可能性」 を見つける事でもある。
それが例え、辿り着く場所が 「堕落の底」 を示す光であったとしても、この花を摘む者は後を絶たない。

それは恐らく、この花の美しさと言う 「劇毒」 に犯されているからなのかもしれない。

**3 泥に咲く花を摘む **


○ 泥に咲く花を摘む者達は後を絶たない。
この花はそれほど美しく、また見る者達を魅了するからだ。

その 「魅了」 が例え 「毒」 であったとしても、この花を摘む者達が絶える事はないだろう。

この花はあまりにも美し過ぎるのだ。

この花は唯一泥に咲く 「蓮の花」 にもよく似ている。

「敗者」 の吐いた泥の上に咲この 「花」 は 「毒」 を得ている。

例え 「毒」 を得た 「花」 であっても、表向きは人々を魅了する美しい花 なのだ。

「泥」 に咲く花が枯れる事は無い。
敗者が吐き出した 「泥」 が無くならない限り、その花を咲かすだろう。

「泥」 から 「毒」 を得た花と言っても過言ではない。
この花は敗者が吐いた 「泥」 に含まれる混沌を養分として花を咲かせている。

「泥」 を吐く。「花」 を摘む。

その 「泥」 やがて 「毒を持つ花」 を咲かせる。
それは美しい花でもある。
見る者を魅了する美し過ぎる 「毒を持った」 花を咲かせるのだ。

私も偶に 「泥」 を吐く日がある。
その泥は恐らくこの美しい花を咲かせているのだろう。

日々を送る上で 「泥」 を吐く。
それはこの世界の為になのかもしれない。

「幸せ」 を授かった者にこの花の美しさは分からないだろう。

私が 「泥」 を吐いているのは、「幸せ」 を授かった者に 「毒」 を送りたいからなのかもしれない。

おわり。


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