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左脳と言葉、右脳と余白

私はずっと、自分は右脳人間だと思ってきました。
右脳人間というのは、右脳が優位な人、感覚人間。
いろんなことをビジュアルや感覚、感性で捉えるといったらいいのか。

逆に理論だてて説明するのが苦手。
数学の証明なんかも大の苦手だったし
理詰めでこられると思考が停止します。
でも「なんかこの人、変」とか「言ってることおかしい」というのは、感覚でわかったりする。理屈で言ってることを、「その理屈、ポイントずれてるぞ、、」と説明できるのは、時間がたってからだったりして(ちょっと悔しい)。

それでふと気づいたのですが、
余白、に昔からこだわりが結構あるのです、デザイナーじゃないんだけど。
レイアウトだったら行間の高さとか、改行の位置とか、上下左右の余白とか。
画像のまわりの空き具合なんかも。
web上のデザインがまだあまり自由にできなかった頃は、スペースの取れなさにイラッときたものです。

額に写真を入れたときに、画像がびちびちに詰まってしまうのは我慢ならないし。

余白の美、とかいいますけど
何もないところの感覚というか、
「ないこと」が「ある」っていうかね。
そこが気になる。

先日、シャーリー・マクレーンの本の心霊治療のことを紹介しましたけど、西洋人のシャーリー自身も「西洋人は左脳が強いから懐疑的」と書いていました。
だからかな、西洋人って壁に額をびっちり隙間なく飾ったりしますよね。
昔からあれが変だなと思っていて、当人たちも「空いてるのは嫌」とか「
不安になる」とか言っているのを聞いて不思議だなあ、と。

noteでも、他のブログでも、言葉の、行間や段落の空き、短めに改行していくとか、そういう感覚的なページをよく見かけます。
そのスペースが、私はけっこう心地がいいです。
(たまにものすごく空き過ぎてて、スクロールめんどくさ・・ということもある)

逆に、言葉ですべてを説明しつくそうとして文字ぎっちり、というページは、内容にもよりますが、読んでいると途中で挫けてしまうこともあります。
分析して説明したい、という気持があまりに前面に出ると、言葉が溢れて逆によくわからなくなって、読めなくなります。

でも実は、自分もけっこうそういうことをやっているのです。
伝えたい伝えたいで、逆に余計な言葉を使い過ぎて、読み返していて「なんじゃこりゃ」と、月日がたってから文章を整理することがよくあります。
(以前書いたnoteの文章、よくあとから書き直してます)

けっこう左脳優位なんだ、自分、と最近気づきました。

自動思考ってありますけど
いつも何かしら考えている、あれはああだったとか、誰がどうだったとか、これはこうじゃなきゃとか、いつのまにか頭がいろんなことを考えているアレです。
それは左脳の働きらしいですが、やってるなあ、よく、と思います。
左脳ってのは、いろんな場で空白を作らないのですね。

誰かや何かと自分を比較すること、境界をつくること、
あいつはこう、これはどう、とジャッジ批判、判断すること、
それらはイコール、分離の世界です。
やっぱり現代人は左脳が圧倒的に優位だな、と思います。

こう書くと左脳が悪者みたいですが、自分と他者を区別して、スケジュールを調整したり、分類したり、記述したり、記憶したり・・社会で生きるのに左脳はとても大事なんですよね。


脳といえば、以前読んだ「奇跡の脳」という本は、ほんとうに感動しました。
日本では2009年に発行されている、アメリカのベストセラーです。
脳科学者のジル・ボルト・テイラー博士が脳卒中になり、発症した最中から再生するまでを書いています。
脳卒中になっている最中の描写には圧倒されます。
そして左脳が壊れたら人間の感覚はどうなるのか、がとてもわかりやすく書かれています。

私はこの本を読んで初めて左脳がなにを司っているのかを知りました。
そして自分が何かをしようとするとき、身体がそれに向けて自動的に動くということは奇跡のようなことなのだなぁ、とあらためてわかりました。

それと同時に、左脳が壊れると人はある意味幸福を感じられるんだ、ということも知りました。
肉体の境界の知覚は、皮膚が空気に触れるところで終わらなくなるのだそう。個体ではなく、自分を流体のように感じるのだそうです。

もともと私たちは身体という容れ物にも入ってなかったし、他のものとの境界も無いところからきたんですよね。
自分であるという様々な事柄、名前とか住所とか学歴とか家族とか、これまでの人生経験にまつわる怒りとか悲しみとか(もちろん幸せな経験もだけど)、好き嫌いすら思い出せないので、過去に自分で決めたことや制約に縛られる必要もないし、義務もない。

 瞬間、瞬間は泡のように消えるものではなくなり、端っこのないものになったのです。・・・波打ち際を散歩するように、あるいは、ただ美しい自然のなかをぶらついているように、左の脳の「やる」意識から右の脳の「いる」意識へと変わっていったのです。小さく孤立した感じから、大きく広がる感じのものへとわたしの意識は変身しました。言葉で考えるのをやめ、この瞬間に起きていることを映像として写し撮るのです。過去や未来に想像を巡らすことはできません。なぜならば、それに必要な細胞はの能力を失っていたから。わたしが知覚できる全てのものは、今、ここにあるもの。それは、とっても美しい。

「奇跡の脳」ジル・ボルト・テイラー


社会で生きるには左脳が必要だけど、右脳の意識のなかにある「深い内なる安らぎ」を経験するのには、やはり瞑想とか呼吸に集中することが良さそうです。
本のなかに、チベットの僧侶とフランシスコ会の修道女の実験のことが書かれています。
その実験は、瞑想あるいは祈りのなかで、瞑想のクライマックスに達するか神と一体になったと感じたときに、ひもを引くというものでした。
瞑想のなかでは、脳のおしゃべりが沈黙し、自分がどこから始まりどこで終わるかという境界の判別の働きが減少するそうです。

やっぱり人間を苦しめるのは、(過剰な)脳のおしゃべりなんだよなぁと思います。

「頭の中でほんの一歩踏み出せば、そこには心の平安がある。そこに近づくためには、いつも人を支配している左脳の声を黙らせるだけでいい」

「奇跡の脳」ジル・ボルト・テイラー

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