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好きな曲は好き~スクールフィクション/きのこ帝国~

はじめに


これまでもきのこ帝国の曲についてお話ししてきましたが、

今日は『スクールフィクション』という曲についてお話しします。

この曲は私が高校生の頃に、夜スクールオブロックを聞き終わった24~25時に良く聴いていました。
特に受験期、やるべきこととやりたいことと親の希望と私の夢と様々なものに板挟みで、苦しくて、それでも前を向いていないといけない日々のBGMでした。
また、大学生になってからは、この世界から消えたくて、もう何もしたくなくて、生きている意味を考えて混乱している時期に良く聴いていました。

凶暴な僕


この曲はギターのリズミカルで、でも少し悲しげな弾むメロディーから始まります。
まるでつぶやくように歌う声が、夜によく合います。

『過ぎゆく日々のなかに潜む
 凶暴な僕が頭をもたげる
 ポケットの中に押し込められて
 幸せか、と僕にたずねる』

高校生の頃、自分の成績が振るわないことと、両親の期待に応えられないことが最大の悩みでした
特に母親とはほぼ毎日けんかしていました。
今よりももっと未熟で、自分の感情を言葉にすることができなくて、モノに当たるようになりました。

自分が大きな音に敏感なのに、大きな音を立てて、自分にストレスを与えたり、プラスチックのハンガーを投げて、折ってしまったりしていました。
それでも学校では落ち着いたようにふるまって、おとなしく、静かに生きていました。
私はこのような自分の2面性が怖くて、誰だってそうなのかもしれませんが、自分が怖くてたまらなくなり、そんな自分も嫌いでした

両親に反発している自分、自分が嫌いな自分が何度も何度も夜に現れて、私の上に乗って来る夢を何度も見ました。
金縛りになって息ができなくなって、絞り出した言葉は「たすけて」でした。

幸せなときもありました。でもそれは過ぎた未来である今の私が言える事です。
あの頃私は確かに苦しいこともありました。

長くなりましたが、こんな風に考えていた高校生の頃の私にこの『凶暴な僕』『幸せかと僕に尋ねる』という歌詞が響きました。


デタラメな方程式のままで計算をしている


次の歌詞です。

『自分で書いたデタラメな方程式は
 矛盾だらけの僕らみたいだ
 信じては疑い、無理に笑い、
 幸せだよ、と嘘をついた』

高校生の頃の私は、私をよくわかっていなかったし、理解する暇もなかったです。
漫然と歩き、途中で道がわからなくなってふと止まる。
そんなことを繰り返しているようでした。

そんな風に、私は私が理解できていないのに、私が良く生きるような道を選ぼうと頑張っていました
仕方のないことですが、きっと矛盾だらけで、答えの出ない方程式で計算をしても方程式が間違っているから納得する答えが出るわけがありません。
私はまた迷子になっていました。

それでも、“今の自分”をできるだけ信じて、不安になったときにはその道を選んだ“過去の自分”を疑って、これの繰り返しです。
そんなふうに迷子になりながら、外では笑って生きていないといけませんでした。

この歌詞の最後で『嘘をついた』の後を「ああああ」と伸ばしている部分が、
まるで『凶暴な僕』が「今、嘘をついただろう!!」と攻め立てるような歌い方になっていて怖いと感じた時のことを思い出しました。



笑った顔で泣いているみたいだ


次の歌詞です。

『笑った顔で泣いてるみたいだ
 次はどんな嘘が生まれる』

この歌詞が衝撃的でした。
外では笑いながら、内では泣きながら暴れている私を的確に表現していると感じました。

よく「人にやさしい人ほど、心の中で傷ついている」という言葉がありますが、それよりももっと辛辣で現実的な表現であると感じました。

このように内と外でギャップが生じているからこそ、次々と嘘をつくのです。
瞬間瞬間で嘘をついて、片方の自分を隠さないといけないのです。
外では内の自分を隠し、内では外の自分を知らないふりする。

こんな風に的確に私を表現する言葉があるのか、と驚きました。
また、こんな風に瞬間瞬間で嘘をつきながら生きている私を、佐藤さんが指摘しているようにも感じていました。
「私は見えているぞ」と、「わかっているぞ」と。

『何も知らず何も聞かず何も見ずに
 いられたらいいのに』

この言葉につきます。
成長すると経験も増えて、解ることも気を遣うことも義務も増えてくる。
全部今の私も未来の私も縛るもののように感じてしまい、すべてどうでもよくなる。
全部私の前から消えてほしい。
でも消えないから、私がこの世界から消えるしかないか、という心情を良く表現してくれている部分だと感じました。

『いいのに』の部分の歌い方が、急に上がっていくようで、その切実さが伝わって来るようでした。

どうやって探すの
ここは所謂サビです。

『重ねて歪めて蔑んで尊んで
 寄り添って犇めいて
 悩んで悔やんで迷って息殺して
 生きる意味を探してる
 探してゆく』

ここは主語を誰にするかによって、様々な受け取り方や考察ができる部分だと思っています。
この記事を読んでくださっている皆さんなら、どう解釈されますか??

私は、自分と他人を『重ねて』考えて、自分を『歪めて』捉えているからこそ、
自分と他人のギャップを大きく感じて、
自分(の価値)を『蔑んで』、他人を『尊んで』
それでも一人で生きていけないからと集まって『寄り添って』『犇めく』ほどに群れていくようになる。
そうやって、どうにかうごめきながらも、生きている意味は何なのか、存在意義は何なのかを探している。

この部分は、以前お話しした『フルーツバスケット』という少女漫画を読んで感じた部分と似ている気がします。

深海魚に感じる孤独
2番の歌詞です。

『水槽のなかの魚たちが
 まばたきもせずこちらを見てる
 冷たく冷たく研ぎ澄まされてく
 深く潜れは誰も触れない』

ここの歌詞からは冷淡さを感じました。
何にも心を動かされないような冷静さと、誰も気軽に触れられないような存在、孤高です。
赤い公園の『凛々爛々』という曲で、
『冷たい人だなんて これぽっちも聞き取れないわ
 私のコンロのつまみを あなたには渡さないだけ』
という歌詞があります。
これと同じものを感じました。

深く潜って唯一無二を手に入れて、干渉を捨てた、という雰囲気を感じました。

次の歌詞です。

『不自由であることを誇れるだろうか
 何も知らず何も聞かず何も見ずにわからないまま』

孤高の存在になってきっと苦労することも多くて、自由になったつもりで不自由になってしまったことを誇れるでしょうか。
唯一無二の存在になったからと言って、誇れるでしょうか。
深く潜ってしまった深海魚はもう何も見えなくなってしまったのではないでしょうか。

外と内が同時に存在する私が、どちらかを諦めて、どちらかの自分を選んだとしても、孤独にならないでしょうか。
「不自由だけど、これが本当の自分だから大丈夫!」と胸を張って言えるでしょうか。
きっと難しいです。

『重ねて歪めて蔑んで尊んで
 寄り添って犇めいて
 悩んで悔やんで迷って息殺して
 生きる意味を探してる
 探してゆく』


生きろ


さいごの歌詞です

『重ねて比べて
悩んで悔やんで迷って息殺して』

私はここの歌詞が、
自分と誰かを『重ねて』考えて、
その違いに『悩んで』、上手くできなかった自分を『悔やんで』、
進むべき方向に『迷って』しまって、
どうしていいからわからなくなり、『息を殺して』みようとしても、できない自分と重なりました。

そうやって生きる意味を、特別な意味が欲しくて探してみるけれどはっきりとは見つかりませんし、大学生になった今もまだよくわかりません。
生きている意味を堪えられる大人はこの世に何人いるでしょうか。

こうやって迷子になってしまう私に、佐藤さんは次のように叫んでくれています。

『生きる意味を探して探して
 生きろ』

叫んでいると書いたのは、歌うというよりも叫んでいたからです。
私はこの叫びを初めて聞いたとき、威圧感と、脅迫感、切迫感を感じました。
意味が見つからなくても、「見つからないな~」って言いながらでもいいから『生きろ』、そういってくれているような気がしました。

しょうがなくても、生きてみるしかなくても、消えることができないからでも、どんな理由でもいいから、生きろ、そういってくれていると勝手に解釈しています。

私は仕方がないのでちょっぴり生きてみます。

さいごに


ここまで読んでくださってありがとうございました。
♡励みになりますありがとうございます。

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