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「愛と死(著者:武者小路実篤)」を読んで死を想う|読書場所:ドトール大船渡|読書記録

本をあまり読まなくなった現状に大きな危機感を抱いている。この数年、大学に通っていたため、当然ながら与えられた書籍は読んでいた。年間20冊程度だろうか。しかしながら、それらのほとんどは参考書である。

確かに参考書も本に違いないが、教科書を読む行為を読書と考える人間が少ないように、筆者の中では参考書を読む行為と本を読む行為はあまり上手く結びついていない。

筆者の中で参考書を読む行為は、どちらかと言えば仕事に近く、ビジネス・インプットであって娯楽や学術としての読書とは異なるカテゴリーにカテゴライズされている。だからこそ、本をあまり読まなくなったと危機感を覚えている。

元々ジャンルを問わず小説を月に数冊から十数冊読んでいた身である。ところが直近十年程度は、年に数冊読むか読まないかになっている。由々しき事態と言わざるを得ない。

だから、どうにかして本を読む機会を創らなければならないと考えていた。そこで実施したのが、犬のトリミング待ち時間に薄い本(同人誌ではない)を読む活動である。活動としては、書店で薄い本を選んで購入し、2時間の待ち時間で読み切る忙しない内容である。

ドトールでティータイムを取りながら読んだ

珈琲一杯で2時間近く居座られる店側の心境は複雑でないか想いもしたが、1時間30分程度で読み切る努力をしたので大目に見て貰えるとありがたい手前勝手な想いを抱きつつ、今後同様の活動をする際にはもう少し何か考えようと想い直した。人生、中々ままならないものである。


武者小路実篤著「愛と死」を読んで感じる死の存在

今回読んだ作品は、武者小路実篤の著作「愛と死」である。以下は広告である。今すぐ読みたい人は買ったら良いと思うが、恐らく図書館に行けば確実に置かれていると思われるため、買わなくても読める筈である。

本作を選んだ理由は、先述した通り、ページ数が少なかったからである。堂々と書く理由ではない。自己擁護ではないが、「愛と死」という作品も知らなければ、武者小路実篤への関心も持っていなかったが筆者が、本作品を手に取る理由としては妥当に感じなくもない。

実のところ、筆者の記憶にある限りにおいて、武者小路実篤の作品を読むのはこれが初めてである。もちろん、生徒時代に現代文の試験問題として遭遇している可能性はあるが、始まりから終わりまで通して作品を読むのは初めてだ。無論、武者小路実篤という作家の存在は知っていた。作品に触れた経験がなかったのである。

さて、本作の感想に移ろうと思うが、その前に伝えておきたい話がある。本noteにおいては、本作に関する解説や本作が書かれた背景、また武者小路実篤という作家がどのような作家であったかといった話は書かない。そもそも書けないとも言えるが、現実問題としてそうした話は枚挙に暇がなく、俄読者の筆者の話を読むよりも、本職の解説を読むべきだと考えるためである。

仮にそうした解説を探す方法に困ったとしても、先に紹介した広告に掲載されている新潮社から出版されている「愛と死」の巻末を見れば解説が2種類書かれているので、そちらを読めば良い。そうでなくても、武者小路実篤に関する考察が書かれた書籍は少なくないため、『武者小路実篤 解説』でGoogle検索、電子書籍検索をすれば何冊か出てくると思われる。

そんなわけで、本noteにおいては、あくまで「愛と死」を読んだ筆者の浅薄な感想を書くにとどめる意向である。なお、筆者は感受性が砂漠化しているため、世にある「愛と死」に対する数多くの感想に比して淡泊になると思われる。そういうものだと思って読んで欲しい。

「愛と死」は死を鮮明に描いている

「愛と死」を読んだ人々の多くは、恐らく愛だの恋だのといった面について、強く心が揺さぶられ、惹かれるのだと思う。事実、「愛と死」は武者小路実篤が愛情を描いた作品として有名であり、代表作の一つとされている。作中においても、村岡と夏子が違いに愛の言葉を交わすシーンが多く描かれており、作中の8割程度が二人の恋愛模様の描写となっている。

だからこそ、『死』が鮮烈な印象を与える作品になっているとも言える。物語において起承転結の重要性がよく語られるが、「愛と死」はまさに起承転結の価値を意識させられる構成であり、どんな素人作家にも起承転結の大切さを感じられるだろう、美しく作り込まれた作品だと思う。といっても、武者小路実篤がそうした技巧を意識して本作を書いたのかは定かでない。

そんな「愛と死」であるが、読み進めながら印象に残った点は、『死』の感じさせ方の妙である。世の中には、恋人の死を題材にした作品が数え切れないほど存在しているが、その多くは『死』を感動薬として描くケースが多い。つまり、『死』によって読者あるいは鑑賞者の心を揺さぶろうとする。

だが、「愛と死」における『死』はどうだろうか。あたかも交通事故に出くわしたかのように、あるいは突如襲いかかる災害に見舞われたかのように、唐突に淡々と伝えられ、その後もまるでありふれた日常と伝えられるかのように粛々と描かれている。最後の最後まで『夏子は本当に死んだのか?』と思わせられるほど、自然に物語が語られるのだ。

それは、村岡がただただ哀しみに暮れながらも自身の境遇をどこか冷静に受け止め、夏子の死を客観的に捉えているかのように描かれているために思われた(尤も、村岡の激情それ自体は感じられる)。突然やって来て、強制的に現実を受け入れさせられる『死』を、冷徹なまでにその姿のまま描いているからこそだと思う。

どれだけ若かろうと、健康的であろうと、人は突然死ぬ。そして生きている者は、哀しみを受け入れるしかない。想い人が死のうと、それでも生者は生き続けるしかない。本作は、そんな極々当たり前の現実を当たり前に描いている。

つまり『死』を特別視していない。『死』がどこまでも無機質に存在しているのだ。だからこそ、世の中にごまんとある恋人の『死』を感動薬にしている作品とは異なる読み味になっているように感じる。

本作は80年以上も前に書かれた物語であるが、新型コロナウイルスがもたらした数年間を経た現代の人々にとっても身近に感じられる話でなかろうか。といっても、これは『死』というテーマにおいては、である。

作中で描かれている結婚というものに対する価値観や恋愛模様は、およそ現代の様相とは異なっており、とりわけ若ければ若いほどに理解から外れたものになるかもしれない。

筆者は、本作に関して『死』の面に目が向いたが、とはいえ『愛』も大きなテーマになっている作品である。だから、その面についても最後に少しだけ書こうと思う。

昭和から令和へと移ろう中で生じた愛の死

『愛』の面について書くといっても、村岡と夏子の恋愛模様の美しさに纏わる感想を書くわけでなく、先ほど少しだけ書いた作中で描かれる結婚への価値観や恋愛模様と現代のそれらとの乖離について感じた点について書こうと思う。

昔の結婚は家と家のものであり、女性が家に入ることを指して嫁ぐと表されている話は、多くの人々が知っているところだと思う。一方で、現代の結婚は、家と家のものであるケースこそあれど、個人と個人のものになっているケースが多くなっている。

だからこそ、一般的な結婚とされる同棲婚の枠に囚われない別居婚や契約婚が脚光を浴びているし、事実婚のような形で契約すら結ばないケースも見られる(尚、同性婚であるか異性婚であるかによって、結婚の形自体は異ならないため言及しない)。

この点において、「愛と死」は、まさに家と家の結婚が描かれている。つまり、村岡にしても夏子にしても、結婚においては互いの気持ちだけでなく、互いの家による各々の評価を大切にしている。

現代でもそれ自体は重要視されるものの、明らかに質が異なる。本作においては、互いの家に相手が認められることは絶対条件なのである。互いを愛するだけでなく、互いの家(家族)を愛することが重要視される点は、現代においては薄れつつある感覚に思われる。

どちらが良い悪いという話ではないが、本作の時代と令和の現代を比較したとき、結婚において求められる愛する対象の範囲は、どこか狭くなったように思われ、まさに時代の変化によってどんどん個人が大切にされるようになった事実を感じさせられる。

夏子が、結婚の約束を取り交わした後で習い事を始める描写もまた、現代との違いを感じる点である。結婚相手だけでなく、相手の家に嫁ぐ人間として相応しい自分になるべく意を決しているわけだが、やはり現代では薄れつつある価値観に思われる。

何せ、現代の婚活においては、自分の希望に適う相手を探すのが当たり前になっており、相手に見合い、認められる自分になるべくして行う努力などは美容だのといった自分の為の努力を言う始末である。夏子が村岡の富などのステータスを求めなかった点においても大きく異なる。

恋愛模様についても大きな違いが見られる。貞操についての厳粛さは敢えて語るような内容と思わないため省く。最たる違いは、やはり時間軸であろう。村岡と夏子がついぞ結婚生活を送れない要因の一つになった海外旅行(滞在)における移動時間が分かりやすい。

本作では、船旅が前提であったため、行き帰りに片道1.5ヶ月もの期間を要していた。現代では考えられない期間であり、移動している間に恋人が病に倒れて死んでしまうといった話にも、どこか遠さを感じてしまう程である(1.5ヶ月で病死するといった点については医療の発展の違いもあるが)。

また、連絡手段は手紙である。お互いの近況を伝えるだけのことに大きなタイムラグが生じる事実も、現代ではおよそ想像し難いことだろう。何せ現代では連絡すれば1分とかからず相手と繋がれる。お互いの様子を動画で報告し合うのも容易である。村岡と夏子からすれば夢のような話だろう。

一方で、『会えない時間が愛を育む』といった言葉に表されるように、現代の人々が村岡と夏子のように、会えない期間に互いを想い、恋慕を深めるといった体験は中々難しい。連絡が困難であるからこそ、文に自身の近況を長文でしたためるなんてことも、チャットが前提となる現代では不可能に近い。

何せ、長文を送ることに申し訳なさを感じる時代である。どれだけ詳細かつ多量に自身の近況や想いを書きしたためられるか頭を悩ませる時代とどれだけ短い文章で伝えたいことを伝えるか頭を悩ませる時代とでは、真逆と言って良い(相手にどうやって想いを伝えるか悩む点では相違ない)。

これら2点を以てしても、やはり「愛と死」で描かれる結婚に関する描写や恋愛模様は、現代では想像がつかないほどに大きな乖離があり、読めば読むほどに時代の大きな変化を感じさせられた。

とはいえ、恋慕の情や深く愛し合う二人が結婚によって結ばれることを願う心など、それ自体は時代がどれだけ変わっていようと変わらないものである。価値観は変われど、人間の心模様は変わらないし、愛というものに対する募る気持ちも変わらない。その点は、何らかの救いであり、人間の神秘であるようにも感じられた。

※広告です。興味が湧いたら買って読んでいただけますと幸いです

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