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息子に紡ぐ物語

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1男1女の子供を持つ平凡なサラリーマンと、父で作家の「長谷部さかな」は、不思議なキッカケから毎日メールをやりとりすることに。岡山県の山奥にある見渡す限りの土地や山々はどのように手… もっと読む
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#毛利元就

■【より道‐120】「尼子の落人」と家訓が残るほどの物語_尼子氏の滅亡

■【より道‐120】「尼子の落人」と家訓が残るほどの物語_尼子氏の滅亡

出雲国の守護代であった、尼子経久は、京極氏の意思を継ぎ、山陰山陽の11ヶ国を制するほどの時代を築きました。

その後、家督を継いだ孫の尼子晴久は、安芸の国人、毛利元就の吉田郡山城を攻撃するも、退陣する結果となり、一時的に勢力を衰退させてしまいましたが、再び、国人たちを配下に治めて、ついには、8ヶ国の守護大名にまで、勢力を拡大させました。

しかし、最終的に西国の覇者となる人物は、毛利元就です。

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■【より道‐119】「尼子の落人」と家訓が残るほどの物語_尼子晴久という男

■【より道‐119】「尼子の落人」と家訓が残るほどの物語_尼子晴久という男

尼子経久は、「応仁の乱」という、足利将軍家の因果応報の時代に生まれました。青年期になると家督を継いで11年間も続いた戦乱の後処理を進めるも、室町幕府から難癖をつけられ、落人となってしまいまいます。

その後、自らの主城、月山富田城を奪還することに成功しますが、そのころからでしょうか。道理の通らない無秩序で、武士道という拠り所のみで支えられた戦国の世を、尼子経久は、その潮流に身を任せ、一気に領土を広

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■【より道‐117】「尼子の落人」と家訓が残るほどの物語_尼子政久という男

■【より道‐117】「尼子の落人」と家訓が残るほどの物語_尼子政久という男

尼子経久が、時代の寵児となっていくのは、三十歳を越えた頃、時代でいうと1486年(文明十八年)からでしょうか。

それまでは、「応仁の乱」に勝利した足利義尚による幕府立て直しの要請や出雲国守護の京極政経との対立、そして、有力国人たちへの対応に大変苦労していたように思えます。

そして、1484年(文明十六年)に出雲守護代の座を追い出され、初代「尼子の落人」となってしまいますが、そのときに自らを支え

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【252日目】だんご三兄弟

【252日目】だんご三兄弟

ご隠居からのメール:【だんご三兄弟】

尼子氏の三兄弟と毛利氏の三兄弟を比較してみる。

長男:尼子政久ー毛利隆元

二男:尼子国久ー吉川元春 

三男:尼子興久ー小早川隆景

長男は両者とも早世しているのであまり差は目立たないが、毛利氏は他家の養子になった二男・三男の両川が主家をよく補佐し、盛り立てた。

それに対して、新宮党の尼子国久は毛利元就の謀略にのせられた宗家の尼子晴久によって暗殺され、

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【187日目】長氏から西谷氏への改称の理由

【187日目】長氏から西谷氏への改称の理由

ご隠居からのメール:【 長氏から西谷氏への改称の理由】

『陰徳太平記』によれば、尼子経久が行年八十四才で逝去したのは1541年(天文十年)だが、その頃、孫の尼子晴久は芸州吉田城へ侵攻したものの、敗走して月山富田城へ逃げ帰った。

そんな離反者の中に長元信の名前はないが、元信は山内隆通と親しかったので、行動をともにした可能性はある。元信にしてみれば、最大の関心事は領地の安堵で、そのためには強い者が

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■【より道‐56】歴史が刻まれる聖地_それぞれの「厳島神社」

■【より道‐56】歴史が刻まれる聖地_それぞれの「厳島神社」

父とのメールのやり取りが始まってから半年の月日が経ちました。

毎朝、父から届くメールを読んで、通勤中に返事を考えながら返信する。作家の父から物書きのノウハウとして教えてもらったことは、

「とにかく書き続けること」

100本ノックのごとく続くテーマは「ファミリーヒストリー」。父が生涯かけて研究してきた、ご先祖様の活動を知ることで、人生を乗り越えるヒントを知ろうというものでした。

我が家のファ

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【149日目】なぜ「尼子の落人」か

【149日目】なぜ「尼子の落人」か

ご隠居からのメール:【なぜ「尼子の落人」か】

>毛利元就は、尼子から寝返った山名氏に人質を出すように要求して
>いたらしい。また、寝返った国人たちを戦の最前線に配置したとも
>言われているーーこれらの問題は精査、検証が必要だと思う。

「尼子の落人」執筆に際しては上下町の長秀雄さんから情報を貰っている。オレ以外にも長谷部氏の先祖に関する問い合わせが何件かあり、その都度、家紋を持ち出して対応された

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【146日目】史実

【146日目】史実

ご隠居からのメール:【史実】

>新見氏が矢野庄にある小堀三間城主として、からかさ連判状に署名し
>ているということは、新見氏は、備中新見藩を離れ、長谷部氏と連携
>していたことになるね。

その通りだが、『新見市史』にはそんなことは記載がない。新見氏の一族が上下にいたという史実(?)は新見市では認識されていないのだ。では、「からかさ連判状」の連署が信用できないかというと、信用できるとオレは思う

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【145日目】からかさ連判状

【145日目】からかさ連判状

ご隠居からのメール:【からかさ連判状】

うかつながら、小堀三間城が矢野荘にあるとは知らなかった。だとすると、長(長谷部)元信が矢野荘を貰ったのは何時だろう。また。誰から貰ったのだろう。

1557年(弘治三年)の「からかさ連判状」に長元信と新見元致をふくむ備後国人十八人が連署しているのは我ながら大発見だったと自負している。長氏と新見氏とのつながりをはっきりと証明する動かぬ証拠だからだ。『新見市史

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【144日目】自己ベスト

【144日目】自己ベスト

ご隠居からのメール:【 自己ベスト】

東京オリンピック競泳で五十嵐千尋は自己ベスト、よくやった。池江璃花子は期待はずれだが、病み上がりだからいたしかたない。今や五十嵐のほうが日本のエースだ。 

応仁の乱は、東軍も西軍も何のために、誰のために、戦ったのか。大義名分がわからなくなった戦争だ。ヒトノヨムナシ(1467年)。それに対して、大東亜戦争は天皇陛下のために戦ったと信じることさえできれば、大義

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■【より道‐12】長谷部元信

■【より道‐12】長谷部元信

応仁の乱を経て、戦国期に突入したご先祖さま。現時点ではあるけれども、戦国期に活躍した長谷部(長)大蔵左衛門元信の逸話や語り継がれている歴史についてまとめてみた。

はっきりとした勝敗もつかないまま1477年に東西両軍が解散して応仁の乱は終了した。幕府の統制が効かなくなった日本国は、各地で「一向一揆」が起きるなどの混乱期となっていく。そんななか、西日本では、室町幕府時代までチカラを持っていた山名氏が

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【34日目】26万系統

【34日目】26万系統

ご隠居からのメール:【26万系統】

 西谷家に伝わる家系図の作者はあきらかに後世の人物が手を加えたものと思われる。長牛之介が豊臣秀吉から賜ったという感状の真偽も疑わしい。そもそも長谷部元信も長牛之介も没年すらわからないのでは、フィクションで想像するしかない。

 具体的な史実はほとんど不明なので、随筆では厳島の戦いや上月城の戦いや刀狩りがあった十六世紀後半に活躍したご先祖であり、平家物語に登場す

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【33日目】牛之助

【33日目】牛之助

ご隠居からのメール:【牛之助】

長牛之介が上月城の戦いで戦功をあげ、豊臣秀吉から貰ったという感状の写しを新見の友人に見せてもらったことがあるが、上月城の戦で手柄をたてたって、負けては意味がない。おそらく後世の誰かがつくったのだろう。

同様に家系図にも誰かが手を加えている可能性が大きい。たしか元信は30代後半で死んだとどこかに記されていた。上月城の戦いまで生きていたとは思えない。おそらく牛之介の

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