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【144日目】自己ベスト

ご隠居からのメール:【 自己ベスト】

東京オリンピック競泳で五十嵐千尋は自己ベスト、よくやった。池江璃花子は期待はずれだが、病み上がりだからいたしかたない。今や五十嵐のほうが日本のエースだ。 

応仁の乱は、東軍も西軍も何のために、誰のために、戦ったのか。大義名分がわからなくなった戦争だ。ヒトノヨムナシ(1467年)。それに対して、大東亜戦争は天皇陛下のために戦ったと信じることさえできれば、大義名分はあるが、信じることができなければ、やはりヒトノヨムナシだ。

途中、大内氏や足利義視よしみが山名方(西軍)に寝返ったり、足利義尚よしひさ・日野富子が細川方(東軍)に寝返るなどわけわからんね。

西軍・山名氏に属していた長氏が、尼子氏に属したところまではわかるが、これといった戦功はあげていない。「からかさ連判状」に署名して毛利氏に属してから「折敷畑おしきばたの戦」や「厳島の戦」で戦功をあげたのだから、れっきとした毛利の武将だ。

「からかさ連判状」に連署している新見元致は翁山城に近い小堀三間の城主だ。長牛之助は新見氏について備中へ移り住み、「上月城の戦」で戦功をあげて豊臣秀吉から感状を貰ったと称して西谷村の領地所有を正当化した。

備中の守護は細川氏だから、新見氏は細川氏についていたはずだ。尼子氏の勢いが強くなると尼子氏に属したが、小堀三間城から備中に移住した時点では、細川氏も尼子氏も見限って、毛利氏に属していたのではないだろうか。そのいきさつも詳しいことはわからない。

伯耆系と備後系の長谷部氏の関係は、大倉山の鬼の故事を書いた作者は神社をつくって鬼を追い払った元信に批判的だから、敵対関係にあったのではないか。

そう考えると、高瀬の長谷部氏が「尼子の落人」と称したのは、自己防衛のためではないか(少なくとも尼子の落人と名乗ったほうが安全だと考えたのではないか)とも思われる。


返信:【Re_自己ベスト】

新見氏が矢野庄にある小堀三間城主として、「からかさ連判状」に署名しているということは、備中・新見藩を離れて長谷部氏と連携していたことになるね。

長谷部氏は、京極氏と親戚関係なのに尼子氏から離れたのはなぜだろう。山名氏も尼子を離れ、新見氏も離れているということは、それだけ、毛利元就にチカラがあったのかね。

翁山を調べると1591年(天正十九年)に豊臣秀吉の「山城廃止令」により、城主は、広島城下の屋敷に入ったと記載があった。1591年(天正十九年)から1600年(慶長五年)の9年間で長谷部氏の親族は上下に残して、毛利輝元の家臣として政治に関わっていたのだろうか。


話はかわるが、江戸時代末期、長谷部元信の住んでいた翁山城城下町の上下は「備後俳諧」の一大拠点であり、その 中心人物は長谷部三郎兵衛(俳号を風外)と長万吉(俳号を露萩) の兄弟であったが 1858 年(安政五年)に句集「翁山集」 を残した、という記事をみつけたよ。別系統の一族もお父さんと同じように俳句をやっていたんだね。


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