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【143日目】応仁の乱

ご隠居からのメール:【応仁の乱】

政略結婚で長谷部の女子が山名伊豆守の正室ということなら、伯耆に流された理由がわかるね。信連なら正室の他に側室が多数いて、能登だけでなく、伯耆や安芸その他の地域に子孫を残したのだろう。

山名氏は天文年間以後、勢いが衰え、尼子氏がその勢力を吸収して、毛利氏と戦った。日野衆は上月城の戦にも参加して滅亡した。

長谷部氏は備後系と伯耆系に別れ、備後系の長氏は新見氏と手を結んで備中に移住し西谷村と高瀬村を拠点とした

ーーというのがオレの仮説だが、新見氏は長い間、東寺や細川氏の代官をつとめていた。一方、備後の長氏は伯耆の長氏を通じて山名氏ともかかわりがあった、とすると、応仁の乱は東軍も西軍もない。一族郎党敵味方に分かれて大分裂の戦乱で、備後系の長氏と伯耆系の長氏との間にも遺恨が生じたのではないだろうか。

>いままで、松田氏の先祖が尼子家臣のため、親戚の長谷部も「尼子の落人」だと思っていたが、ここにきて違う仮説が出てきた。

それはつまり、山名の落人→尼子の落人説ということになる。問題は、「長谷部が尼子の落人」であると主張しはじめ、その言い伝えをひろめたのは誰かということになる。その有力な候補者として考えられるのが、馬之助、熊之助、與左衛門の三人だ。

そして、尼子の落人伝説を真に受けて、現実世界においてもお家再興を企てたのが、與一さんと亀三さんであり、一方、尼子の落人伝説を否定して、家出したのが伝蔵さんだと推理したい。


返信:【Re_応仁の乱】

応仁の乱は様々な登場人物がいてさらに、10年もの長い年月をかけて
決着のつかなかった戦いだからよくわからない戦いだが、少しづつ学
んでいく必要がありそうだな。

【東軍】足利義視よしみ(将軍の弟)
・細川勝元/畠山政長/斯波義敏/大内氏/赤松氏/武田氏/京極氏
【西軍】足利義尚よしひさ(将軍の子)
・日野富子/山名宗全/畠山義就/斯波義簾/一色氏/土岐氏/六角氏 

途中、足利義視が山名方(西軍)になったり、足利義尚・日野富子が細川方(東軍)になるなど、わけわからんね。

ただ、家系図をみてみると、長谷部元信の祖父、長谷部家連の隣に、「女:京極氏室」とも記載がある。家連の姉か妹かわからないが、ちょうど室町幕府末期のあたりで京極氏の正室となり、手を結んでいることになる。

ますます、伯耆系と備後系の長谷部氏の関係がわからなくなるが、京極氏は尼子氏の始祖だから、長谷部氏が尼子の落人と主張した理由になるのではないかね。

ちなみに、長谷部家連の隣にもう一人、「女:小嶋氏室」と記載がある。家連の姉か妹が小嶋氏の正室になったわけだが小嶋氏が誰だかわからない。

家系図は色んな人が書き足しているし読み方もよくわからないが、ご先祖さまが、「家系図」をもとに調査をし子孫につないできたものだと思う。なかにはフィクションのものやこじつけもあるかもしれないが、ご先祖さまが信じたのであれば、信じていいでしょ。

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