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■【より道‐119】「尼子の落人」と家訓が残るほどの物語_尼子晴久という男

天文23年(1554)11月1日は出雲の尼子晴久が叔父・国久ら一族最強の新宮党を粛正した日。新宮党は本家を脅かす力を持ち家中で軋轢があったといわれ晴久による権力の集中が行われた。後に尼子は毛利に滅ぼされますが、貴重な一門衆の粛正という選択が遠因になったのかどうか気になります。

天文9年(1540)8月16日は尼子晴久が大内義隆の石見銀山を奪取した日。最盛期には世界の産銀量の3分の1を日本が占め、かなりの部分が石見銀山とされ現在は世界遺産。この日に限らず大内、尼子、毛利が何度も争奪戦を繰り返した。いま何が原因で争っているのか。銀山ならわかりやすいですが。

■【より道‐12】長谷部元信

【尼子晴久が中国八ヶ国の守護に】1552年4月2日

2か月前

天文10年(1541)1月13日は吉田郡山城に籠る毛利元就が陶隆房(晴賢)率いる大内軍と共に尼子軍を撃退した日。国人領主の元就は大内氏と尼子氏の間で巧みに振る舞うが大内氏へ服属を明確にし尼子詮久(晴久)が攻寄せた。毛利・大内軍との戦いで情勢不利な尼子軍は雪の中撤退し追撃を受けた。

天文6年(1537)12月1日は毛利元就の嫡男少輔太郎(隆元)が山口の大内義隆へ人質として送られた日。19日に元服し烏帽子親の義隆から偏諱を受けて隆元と名乗り3年を山口で過ごす。この頃、尼子氏の当主となった晴久の動きが活発となり元就としては大内氏との結びつきを強める判断をした。

永禄9年(1566)11月28日は尼子義久が毛利元就に降伏し月山富田城が開城した日。尼子氏は先代晴久のころが最盛期で山陰山陽8ヶ国の守護を兼ね大内氏と争った。晴久が急死してわずか5年で戦国大名尼子氏は滅亡することになった。二大勢力の間から台頭した毛利氏が山陰山陽を制することに。

天文23年(1554)11月1日は出雲の尼子晴久が叔父国久とその嫡男誠久ら新宮党を粛正した日。尼子氏の本拠である月山富田城の北麓にある新宮谷に居館を構え新宮党と呼ばれた。一族最強といわれたが本家を脅かす力を持ったため家中で軋轢があった。この粛正で晴久による権力の集中が行われた。

天文9年(1540)8月16日は尼子晴久が大内義隆の石見銀山を奪取した日。最盛期には世界の産銀量の約3分の1が日本だったとされ大部分がこの石見銀山だったという。これ以前から大内氏と尼子氏による争奪戦が繰り返されていた。大内氏に代わり毛利元就が台頭すると晴久と元就の争奪戦が続いた。