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語りの中で自分は生まれる。ひいては、自分を物語ることに陶酔する。

一年生の時に使っていた社会学の教科書を見返している時に、興味深い記述を見付けた。おそらく見覚えのなかった事項だったので、授業では取り扱わないとかで、飛ばしてしまっていたのだろうか。

それは「自己」に関する記述だった。個人的に幾つも記事を書いて、自分なりに、特に意識や言語の観点から考えていたが、どうやら私は、まだ「自己」に対しての理解が浅薄であるようだ。

このような自己のとらえ方の最新のバージョンが, 自己を自己物語としてとらえる見方である。〔中略〕それは, 自己は, 自己が自分自身について語る物語をとおして産み出される, とする考え方である。〔中略〕たしかに今日, 自己物語が溢れている。多くの自分史が出版され, また多くのブログ日記が公開されている。自己物語論はこのような時代にフィットしているのであろう。だが, そもそも今日, 自己はなぜこれほどまで自己について物語りたがるのか。その背景はなんだろうか。(浜日出夫、2007、70-71)

自己とは、まず簡潔に言ってしまえば、他者との相互行為の中で生じるものである。つまりは、常に「他者」というものが意識されていなければ、自己はそもそも誕生しえないということになる。

その「自己」に関して、現代では「自己物語」というものが大きな役割を果たすのだろう。

「自己物語」

終わりが決定されていて、そこまでの自分を象徴するような出来事をピックアップし、「自己」を造り上げるための、改変された出来事の羅列。まぁ当然改変されるのが常、歴史(history)の様に、作り手側にとってそれっぽいものを抽出し、体系化していく。

引用文にもあるが、本なり、もしくはブログやサイトなりで、「自己物語」を産み出している人は存外多いのではないだろうか。

あるいは、自分の思い出も、「自己物語」の一種として捉えられるだろう。それはおそらく味気ない日常の連鎖の中にわずかながらに見つけられる”イベント”。自分という存在を象徴するには、もってこいの演出。

私もよくこういった類のnoteを目にするし、同時に、自己の物語化というものは、実際によく機能しているのだなと感じている。

しかしながら、「よく機能している」ということは、それ以外に「自己」を補完する、決定づけることに繋がることが大して存在しては無いということではないどろうか。自己は確かに他者との交流の中で見出されるものの、勝手に誰かが編集してくれるわけではない。自己のみで「自己」が形成されないからこそ、他者との交流を希求し、その上で自分で編集する。そうしておけば、自分がどういった人間かを忘れないでいることができる。

だが、先ほども書いたが、そうするしか方法が無いとなると、自分を物語ることに陶酔し始めるのではないだろうか。そもそもそれほど語る内容がなければ難しいけれども。

もしかしたら、いつの時代にもこういう「自己物語」を求めている人はいたかもしれない。実際に読んだ本の中で、『方法序説』や『自省録』や『五輪書』も、その類のものだったかもしれない。しかし、今この時代は、それが圧倒的に多いことがあなたにも感じられるのではなかろうか?

その理由については、他の記事で書いているので、暇なら。

自己とは、非常に夢幻泡沫な存在である。宮本武蔵も、三島由紀夫も、マルクス・アウレリウスも、生の儚さ、自己という存在の不安定さ、不可解さについて、本の中で説いていたような。

だからこそ、神が大分前に死した現代という時代には、また別の生きていくための「物語」という主軸が必要なのだ。

それが無ければ、自分はただの肉塊と化してしまう。ただ栄養を経口摂取するだけの有機体と化してしまう。あるのだけれども、どこにあるかは分からないような「自己」を保つために、今人間は生きているのだろうか。

「自己物語」とは、そういう抑制装置の一種なのだろうか。

さて

「あなた」はどう考えますか?



というか、「あなた」ってだれですか?




今日も大学生は惟っている。




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引用文献

長谷川公一、浜日出夫、藤村正之、町村敬志.(2007).社会学.有斐閣


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