見出し画像

ワタシは、観光(地)に暴力を振るわずにはいられないんだね

写真を撮ろう。思い出として残そう。文章にしよう。他人に語ったり紹介しよう。口コミを残そう。写真の加工をしよう。観光地に行こう。観光地とのつながりを持とう。

人間に対してと同様に、観光(地)に対しても、暴力をふるうことをさけられるわけではないのではと。

他者について考えたり、述べたりするのは、あくまで自分が理解するところの他者であり、他者そのものではない。言語によるあらゆる活動は、どうあってもレヴィナスが「暴力」とよんだものを含んでしまう。〔中略〕すべての関係性は暴力である。(西島佑、2020、34-35)

写真という暴力をふるおう。狭い区画に風景と時間を収め、制限のかかった情報をつくろう。(しかし想像力は強くなるかもしれない。)そこには、観光地そのものが現れるのではない。観光客という人間の恣意性によって切り取られた空間Rが、その観光地のイメージとして、自分が理解できるところろまでという条件付きで、再構築されていく。

しかし、写真をとらないという暴力をふるおう。どこかの写真を撮るということは、どこかの写真を撮らないということでもある。写真を撮るという行為には、必ずその反対の行動がつきまとってくる。写真を撮るという行為に同時に生じるであろう写真を撮らないという行為は、敢えてそこを写さないという暴力ではないだろうか。

文章にするという暴力をふるおう。文章という言語活動は、「物自体」を全て記述できるわけではない。観光地において散見したことの全てを、文章にすることなど出来はしない。もしその、観光地で体験したことの全体性というか、即時性というか、そのままの瞬間を保持しておくのならば、文章を書くという行為は意味を成さない。

文章を書くということは、体験したことの僅かな部分を書き出すことに等しいのではないか。これはつまり、写真を撮るのと同じように、あることに対しては文章を書かないということである。駅で奇声を上げた酔っ払いだったり、宿泊した宿の部屋の変な黒ずみだったり、起床した後の寝ぐせの酷さや靴の中に入り込んだ小石のせいで足の裏が痛かったことまでもを記述することがあるにしても、全てを書き出すことなどありはしない。

思い出として残すという暴力をふるおう。思い出に残るのは、印象的なもの、自分が意味を見いだしたもの、意味がないという意味を見いだしたものであることがほとんどだ。そこにも、ある部分を思い出に残さないという行為が現れる。思い出として想起する時、そこには必ず思い出として残さなかった、残したくは無かったものがあり、それを選ばないという暴力”も”生じるのだろう。

写真の加工という暴力をふるおう。写真を綺麗にみせようと、思い切って、明るさの調整をしてみる。シャドウを強くして見たり、ノイズを消してみたり、ああだこうだやって満足のいく加工が出来れば、それを共有しさえするかもしれない。その意図、恣意性はまさに、暴力ではないだろうか。

観光地に行くという暴力をふるおう。レヴィナスによれば、何かしらのつながり、関係が「暴力」になるのである。観光地に行くということによって、なにがしかのつながりを見いだすのだとしたら、それこそ観光地に対しての、或いは自分自身さえに対しての暴力になり。偶然性は失われ、既に訪れたという暴力が生じる。

変に見えるだろうか。しかし関係性そのものが「暴力」であるレヴィナスにしてみれば、おそらく奇妙に見えないと信じたい。

まぁ、観光ともなれば、レヴィナスに頼らずとも「暴力」だと言えるものもあるかもしれない。観光によって消える伝統文化、破壊される環境、地域に還元されずに企業に吸収される利潤と解決しない貧困、観光地向けに改造される文化・食事、参入する各企業、その偽物。もちろんこれは、本質主義的な態度を取った場合の考え方である。こちらの方が、「暴力性」の側面が大きいかと思い、例として挙げたまで。良いか悪いかを決めることなど出来はしない。

しかしあくまで、個人の意見の域を出ることは無い。物事の表現方法など、幾らでもあるのだから。観光は「麻薬」なり、「暴力」なり、「外貨獲得手段」なり、「イメージや情報と現実との差に失望すること」なり、「思い出作り」と表現できさえする。



今日も大学生は惟っている。


引用文献

西島佑.2020.「友」と「敵」の脱構築 感情と感情と偶然性の哲学試論.晃洋書房


🔵メインブログ🔵


サポートするお金があるのなら、本当に必要としている人に贈ってくだせぇ。