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【多分哲学】考えるって実は中動態的行為なのでは~?

はい。今日も考えていきますね。

先日から、『「友」と「敵」の脱構築 感情と偶然性の哲学試論』という本と、『ラカン的思考』という本を読んでいたのです。

不図ある時に、私はこのような疑問を思い浮かべたところ。その疑問が一体全体どんなものかというと、「考えるって実は中動態的行為なのでは?」というもの。

では、このことについて「考えていきたい(?)」。

まずそもそも、「中動態」とは何かについて、西島佑さんの『「友」と「敵」の脱構築 感情と感情と偶然性の哲学試論』さんから引用したいと思う。

中動態とは、まず受動性が先行し、その後に自身の能動性となるのである。(西島佑、2020、74)

引用文からも分かる通り、「中動態」は、「受動態」と「能動態」を組み合わせたものであり、且つ「受動性」を最初に帯びたものであるということが分かるでしょう。

つまり、「考える」という行為は、最初は受動性を帯びており、後々に主体性(能動性)を纏うようになると私は考えます。

では、「考える」という行為を、「中動態」という観点からとらえたときには、どのように見えるのか。これについて、別の本、宇波彰さんの『ラカン的思考』から引用したいと思います。

私の思考は言語によるが、その言語はすでに私に与えられてある言語の世界として存在しているものであり、その世界についての「選択」の余地はなく、私はその言語を用いて思考するほかない。(宇波彰、2017、20)

事態は、そんなに難しい事ではありません。「考える」とは、つまり「思考」するということです。宇波彰さんの考えを援用すれば、考えるという行為は、ある意味で非常に制限された、狭隘な行為であるかもしれないということです。

では、「考える(=思考)」における「受動性」とは何か。それは、「考える」という行為が、言語によって規定されている、考えるという行為自体が、言葉を使うことを必然的に意味するという「受動性」です。

「考える(=思考)」は、「言葉」によって、規定”さ・れ・て・い・る”のです。この意味での「受動性」ということを繰り返しておきましょう。

さて、条件の一つは達成しました。

といっても、次の条件はとっても簡単ですよ。

受動性を先行的なものとして内包する中動態としての「考える(=思考)」には、それ自身が後々に能動性を獲得することが、西島佑さんと、宇波彰さんの著書から引用した意見を組み合わせたものです。

「考える」という行為においての能動性は、言葉を使う主体が考えようとする行為そのものではないでしょうか。

「言葉」によって規定されているという受動性を最初は帯びながら、自身の主体として考えるという能動性がある。

主語(主体)が、受動態と能動態の中間或いは過程に位置しているという意味で、やはり「考える」という行為が、中動態的な行為ではないかと、不肖この私は考えるのです・・・!


さて、あなたは「考える」という行為を、どのように「考え」ますでしょうか?



今日も大学生は惟っている。


引用文献

宇波彰.2017.ラカン的思考.作品社

西島佑.2020.「友」と「敵」の脱構築 感情と感情と偶然性の哲学試論.晃洋書房



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