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観光の終わり

観光が終わるとき。もちろんというか、これは観光が産業として成り立たないという状態を指そうとしているわけではない。ただなんとなく、観光という活動が、どこからなのか、どこで終わったと言えるのかということが気になったのである。

観光という活動の流れは、情報の検索や取捨選択から始まり、そしてなんやかんやあって観光して、それを見せびらかしてといったところだろう。大体、これで1セット。

しかしこの1セットの活動が終わったとしても、それが観光という活動の終わりにはならない気がする。観光の醍醐味は、それを体験している最中と同じくらいに、それを他人と共有したり、思い出したりすることにあると思う。つまりは、観光地に行くという活動そのものを終えた大分後の時間でも、それを思い出すことは十分にあり得ることだと思うから、観光というのは案外、賞味期限というか、消費期限の長い或いは、無い代物なのかもしれない。(しかしそれは人間の知覚においてである)

観光という活動を定義する時には、実際の観光地に行くといった行動を中心に定義が成されるかとは思うのだが、ワタシは、後々にその記憶を思い出すことも、「観光」という活動からははずすことは出来ないとは思うのだ。厳密な定義としては、”まさにその瞬間の活動”がどのようなものであるかということが重要になって来るのだとは思うのだけれど、観光にいくまえに、あれやこれやと考えることが、案外観光地に行くことよりも楽しく感じたりしてしまうように、観光地に訪れるという活動そのものよりも、それ以外の時間というものは、存外重要になってくるのではないかと感じる。

知らない土地、或いは見慣れた土地に、観光に行く。そしてそれを振り返る。その二重の構造こそが、観光なのではないのだろか。或いは、観光の準備を含めれば、三重の構造が、観光と言えるかもしれない。ただ、実際の行動をしている時間だけを、「観光」と呼ぶことに違和感というか疑問を感じるから、むしろこのような多重の構造を持つものとした方が良いんじゃない?という自己満足である。

しばらくは観光というか旅行には行くことが出来泣いていないので、というかそんなもの(?)に行こうとなると、家族から除け者扱いされそうなので、観光というものがどういうものか若干忘れているところがあるが、ともかくも、「観光」においては、「残す」ことが意味を持つのだと思う。またそれと同じように、「気持ちを高めておく」ことも軽視できない要因だと思う。

極端なことを行ってみよう。

今この瞬間突然、知らない土地に行ってくださいと言われ、なんだかよく分からないが、歩いたり、写真を撮ったり、ご飯を食べたりしたものの、その次に言われることは、「あなたが見たり聞いたこと、体験の一切を他者に伝えてはいけない」である。つまり、「残す」ことも、共有することも出来ないということになる。

果たしてこれを、「観光」と呼ぶことが出来るだろうか?。

確かに、部分的にそうだと言えるものも、要素や図としてはそう言えるものもあるかもしれない。ここで言いたいのは、客観的に見た、定義のような「観光」として捉えられるかということよりも、主観的な経験・体験としての「観光」であると”受け入れることが出来るかどうか?”ということだ。

観光という定義を見ていて、例えば、グリュックスマンとかオギルヴィエとかそこら辺のやつを見ていると、これって「主観的」な要素が抜けているんじゃない?と感じるんですわ。大事でしょ?観光客がどう感じるかって。

少し話しが逸れた気がするけど、とりあえず、観光という活動は明確に区分分けするとか、日常生活と区別したりとか、特別な活動として捉えることも出来るかもしれないけれど、多分もっと複雑だと思うんですよってことね。もっと複雑な構造があって、しかし客観的に捉えることは出来なくて、主観も大事になってくる。

「観光」という活動の、始まり或いは、終わりというものは、案外無いのかもしれませんね。信じるか信じないかは、って別にどっちでもいいんだけど。


今日も大学生は惟っている




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